『鳥籠/What color is she?』
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三月十一日。あれから一週間が経過した。あの日、黒乃が目を覚ましてすぐに白衣を着た中年の男がやってきた。
黒縁の眼鏡を掛けた男。その正体は黒乃の担当医であり、名前は神丘訪汰。
(……医師によると、どうやら自分は事故に巻き込まれて過去の記憶を失ったようだ。自分の名前は剣崎黒乃。最近世間を賑わせている剣崎財団の代表――剣崎惣助の弟、らしい)
お金持ちの家の息子、ということはこの高級ホテルの一室のような病室を見れば何となく合点がいく。だがしかし、看護師の立ち話を聞く限り黒乃はどうも剣崎の家からよく思われていないらしい。
曰く、前代表であり父親である剣崎惣一朗が、愛人に生ませたのが――黒乃という話らしく、それを快く思っていない現代表が財団内で圧力をかけている。とのこと。
(……こんなくだらない噂話の真偽さえ判断できないなんて……ため息が出る)
圧力――普段から聞くような言葉ではないが、しかしまあ辻褄を合わせようと思えばできなくもない。身近なところで言えば、この病室だ。誰もお見舞いに来ず、監視カメラまで設置されている。
何より、事故に巻き込まれたとはいえ黒乃の身体に大きな傷はない。なのでもう退院してもおかしくないと自己診断しているのだが、その想いに反して現実では一週間が経過した。
もし本当にこれが圧力なら、本当にこのベッドを使うべき人を退けてまで、意地でもここに閉じ込めておきたいようだ。
「――――」
机に置かれた新聞を見る。そこには『超高層ホテル『モノクローム』完成式典まであの二日!』という見出しが大きく載っている。少なくともこれが終わるまでは、面倒事は避けたいのだろう。
花一つない生きた心地のしない病室。酷く息苦しいサナトリウムだ。
それでも黒乃にはたった一つだけ希望があった。
(――自分が目を覚ましたあの日、病室に居た白い髪の女の子。彼女はきっと自分のことを知っているはずだ。彼女と話ができればきっと、記憶を取り戻せるはず……)
一刻も早く、記憶を取り戻したい。記憶を取り戻して、自分がこんなサナトリウムに閉じ込められる存在ではなく、太陽の下を歩き回れる『自由な存在』であることを確かめたいのだ。
「――――」
しかし結局、この一週間の内に彼女が姿を見せることはなかった。窓の外に広がる曇り空を見て、黒乃はため息を吐く。
それを何度か繰り返していると、珍しく病室の扉がノックされた。
「……どうぞ」
「では、失礼するよ」
返事を待ってから入ってきたのは神丘だった。その手にはプラスチックのケースが携えられている。
「やあ、黒乃君。差し入れだよ。……というのは建前で、実はちょっと厄介な患者さんを診てね」
「はぁ……?」
話が見えず、黒乃は首を傾げた。
「はは、いきなりごめんごめん。まあその、詳しくは話すことはできないが、ぼくはああ言う……上手く言えないが、命に嫌われ、命を拒絶するような症状を見てしまうと、なんとなく元気な人とおしゃべりがしたくなるのさ」
神丘は黒乃の横たわるベッドの側の椅子に座る。
自分の状態を元気だと言うのであれば退院させてほしい、と言いかけたが、しかし直接圧力をかけられているのは神丘だろう。
ならば無茶を言って困らせるわけにはいかない。
「これは一種の自己メンタル管理みたいなものだが……ま、それに患者さんを利用するのは、医師失格だと分かっているんだ。だからせめて、白状はしておこうと思って」
「――――」
別に気にすることはないと言おうとしたが、しかし声には出なかった。自分が神丘の自虐を否定することは、おこがましいことなのではないか――そう思った。
何も持っていない人間の言葉など、軽すぎるのだ、と。だからいくら励ましても説得力などないだろう。
「ところで……君の退院のことだが、また却下されてしまったよ。本当に申し訳ない」
「いえ。先生から借りてる映画で暇は潰せるので。かなり助かっています」
「そう言ってくれると助かるよ。はい、これは今日の分だよ」
新しく受け取ったケースには数枚のディスクが入っている。神丘は、黒乃が目を覚ましてから今日まで、ほぼ毎日のように退屈しのぎとなるお土産を持参してくれるのだ。映画、ドラマ、アニメ。比率で言えば映画――それも洋画が多い。
映画を見ている時は現実を忘れられる。そんな理由で今の黒乃には嬉しい代物だ。
「ぼくのおすすめは『レオン』だ。まだ見てないよね? きっと君の心に残る名作だ。他には――」
と、嬉々として語り始めようとする彼だったが、それを妨げるように胸ポケットに入れられた携帯電話が着信音を流す。
ほとんど条件反射で神丘は電話に出る。
「――なんだって? すぐにカテーテル室の準備を! ッ、心停止――、すぐに心マとDCを! とにかくぼくが行くまで時間を稼いでおくんだ!」
その素早い判断と決断はまさしく医師の姿そのものだ。
「黒乃君、今日の夜勤はぼくだ。少しの時間なら誤魔化しが効くから、温かい恰好をして綺麗な星空を見ておいで」
そう言って神丘は白衣を翻す。黒乃は僅かに呆気に取られたが、とにかく身を乗り出して声を上げた。
「あ、ありがとう!」
「いいよ。ぼくは昔から君の担当医だからね。少しくらい贔屓したいのさ」
颯爽と去っていくその姿がとても格好よく見えた。誰かの命を守ろうと努力する、その想いが自分にとっても掛け替えのない大切なことのように、黒乃の渇いた心に染み渡った。
「―――」
思いもよらぬ機会は突然訪れた。
ふと視線を手元に落とす。一枚目のディスクには映画のタイトルがでかでかと書かれていた。
――『大脱走』。
「はは――――」
今の黒乃に相応しい代物かもしれない。