『剣崎惣一朗/The obsession that created singularity』
☆
剣崎黒乃は、喫茶店『B&W』の窓際の席で、自らの両手をしきりに眺めていた。
島でのことを語るアリサ・ヴィレ・エルネスト、同じテーブルに着くアルフレド・アザスティアから少し距離を置いて――必死に、『その時』のことを思い出していた。
結果から言えばアリサから話を聞いて、『ヘヴンズプログラム』が発動した時のことを朧気だが思い出してきた。
まるであの時置いてきた感情がようやく追いついてきたように。
「――あの時の黒乃、本当に怖かった。人間の持つマイナス面の感情だけが増幅されていて。あの鎧も、なんだかこの世界のどこにもいちゃいけないような異物に思えて……」
あの時、黒乃の中にははっきりとした『怒り』が存在していた。
『K』が口にしたソフィの『破滅願望』。それはおそらくソフィ自身の破滅も含まれているもの。
そうだ。
『K』は――もう一人の剣崎黒乃は――ソフィを利用するだけ利用して殺そうとした。
蓮やスズカさえ殺したと言ったアイツなら、あと二人、エルネストを排除するのに手段を選ばないと黒乃は瞬時に思い至ったのだ。
だからこそ必死になって否定した。
それにあの花火大会の日、ソフィは黒乃に言った。あなたの優しさは眩しすぎる――と。それは逆に言えば彼女にはまだ光が見えているということだ。まだソフィには『破滅願望』に打ち勝ち、死ではなく生へ向けて進むことができるはずなのだ。
――だから黒乃は余計に、彼女の側に居てやらず、彼女を守るという約束も果たさず、挙句の果てに終焉を送ろうなどとほざく『K』が、許せなくて仕方なかった。
「……アリサはソフィの……彼女のこと、どれくらい?」
「昔何があったのかは知ってる。初めてあの子と会った時、私のことを憎らしそうに話して。……だから母さんは余計に、ソフィのことも自分の娘として見ていた」
黒乃はふと、あの山小屋でのことを思い出す。ソフィはフィーネの死を心の底から悲しんでいた。別世界の存在とはいえ、本当の親子のように思っていたのは、フィーネだけでなくソフィも、なのかもしれない。
ソフィの中に芽生えた何か。一度失われ、今もう一度芽吹こうとしている何か。
それは絶対に、守り通さなければならないものだと――黒乃は再確認した。
「――さて、感傷に浸っているところに水を差すが、少し話をさせてもらおうか? 既にピースは揃った」
腕を組み、足を組み、退屈そうにしていたアルフレドが口を出す。二人はそこで、そもそもこの話はアルフレドに『ヘヴンズプログラム』のことを訊くための前準備だったことを思い出す。
「え、ええ。……すみません、なんか変な空気にしちゃって」
「気にするな、アリサくん。さて――君の話にはまだ続きがあるだろうが、その先の話は、私のあとの方が都合が良いだろう。つまりは――『ヘヴンズプログラム』の欠点、バグ、未完成部分についてだ」
黒乃は唾を飲み込んだ。
「黒乃、君はそもそもとして、『ヘヴンズプログラム』が何のための物なのか理解しているかね?」
「えっと……人工の心を生み出すための物?」
『ヘヴンズプログラム』がどういうことするものなのか。研究所で手に入れた資料に目を通した以上、黒乃は一応理解している。ルドフレアが『K』に指摘したバグのことも存在だけなら知っている。
だが、黒乃は知らない。資料に書かれることは知っていても、資料に書かれない人の心という部分については何も知る由もない。
「ノーだ」
だから資料の外側の事情をアルフレドは語る。
「それは手段であって目的ではない。行動には手段があり、その先には目的がある。研究者がただなんとなくという理由で兵器を作るか? ノーだ。それと同じだよ。『ヘヴンズプログラム』は君の父親である惣一朗の意思、とある意図によって開発され、そして完成することなく君の手に渡ったのだ」
「『ヘヴンズプログラム』の……意図」
アルフレドは足を組み直して、さながら名探偵が推理するように顎に手を添えた。
「『ヘヴンズプログラム』とは、とあるエルネストを救うために開発されたシステムなのだよ。そのエルネストの名前は――アリシア・ヴィレ・エルネスト。フィーネ・ヴィレ・エルネストの姉であり、惣一朗が愛した女性だ」
「母さんの……姉?」
フィーネは以前に言っていた。彼女と剣崎惣一朗は一つ学年が違うが同じ高校に通っていて、彼と同級生だった姉は仲が良かったと。それが――アリシア。
「二人の仲は恋人かそれ以上のものだった。彼女はヴィレの血筋だったからな。アダムやイヴとは違い、エルネストでない人間にも惹かれた。しかしアリシアには運命があったのだよ。『起源選定』という運命がね。惣一朗はアリシアを救うべく試行錯誤を繰り返した。そうして作り上げたのが、『ヘヴンズプログラム』だ」
フィーネは言っていた。黒乃の内側――つまり体に宿る『ヘヴンズプログラム』には他者に対する愛が込められているのでは、と。彼女は知っていたんだ。『ヘヴンズプログラム』は黒乃の父親が自分の姉を救うための愛の力であることを。
「ああ、それとワタシは財団の提示した報酬目当てで開発に助力した」
「……お金に釣られたんですか?」
「悪いか? 研究を続けるのにも金が要るのだよ。むしろ他のアルフレドがどう金策に走っているのか気になるところさ。この店に来るのもコーヒーが無料で飲めるのが理由だ」
そこは天才の知恵でどうこうするってわけじゃないんだ、と黒乃は内心思った。
「しかし、開発に協力したといってもほとんどは惣一朗個人で成し遂げたんだ。癪だが認めるよ、ヤツは天才だ。愛する人を救わんとする執念ありきだがね。だが、それでも――時間は待ってくれなかった。『ヘヴンズプログラム』が完成する直前で、アリシアは命を落とした」
「だから父さんは『ヘヴンズプログラム』を完成させることを放棄した……?」
「その通りだよ。ところで黒乃、ちょっと来たまえ」
「はい?」
言われるまま、黒乃はアルフレドの正面の席に向かう。すると次の瞬間、アルフレドは手元にあったカップを手に取り、中身だけを黒乃に放った。
「あつっ⁉ ちょ――ちょっと⁉」
まだ熱を持ったコーヒーをかけられ、黒乃は悶絶する。ただでさえボロボロなワイシャツを着ていたんだ。布が裂けている部分を通じて肌に直接コーヒーが纏わりつく。
「だ、大丈夫、黒乃⁉ 何か拭くもの……!」
「これを使いなさい」
アルフレドから差し出されたハンカチを受け取り、黒乃はコーヒーによって濡れた部分を拭う。幸い火傷をするほどの熱さではなかったが、それにしてもひどい仕打ちだ。
「――さて。コーヒーをぶちまけられた感想を言いたまえ。素直にどう思った?」
とりあえず落ち着いて席に着いた黒乃は、怪訝な表情を浮かべる。
「……多少の怒りを覚えましたけど」
「いい答えだ。ならどうして君は怒らなかった? 反撃として君のコーヒーをワタシにぶちまけても良かったのだぞ?」
その言い方だとまるで危ない人みたいなので、そこは気にしないことにする。横でアリサがコーヒーカップに手を掛けていたが、それも気にしないことにする。
「何か、意図があってのことなのかと思って」
アルフレドは黒乃の返答を模範解答だと言い、思い通りに話が進むことを喜んだ。
「そう、君は自らの『怒り』を思考で抑えた。思考――それは言い換えれば理性だ。理性によって感情は制御され、理性が人間を人間たらしめているのだよ。感情と理性はセットだ。しかし『ヘヴンズプログラム』で生み出した『人工の心』には、理性の歯止めがかからない。それこそが『ヘヴンズプログラム』の欠点――バグだ」
強い怒りの増長。黒乃はその感覚をはっきりと思い出した。理性の歯止めを引き千切るほどのそれは、言ってみれば生まれたばかりの赤子のようにも思える。
「だからこそ、君は暴走した。我が儘に泣き叫ぶ赤子のように」
『ヘヴンズプログラム』で生み出された感情は、当人の理性を遥かに上回るほど増長される。
これが重大な、バグ。
「惣一朗はすべてを途中で投げ出してしまった。当然、金払いが無くなったからワタシもやめた。念のためいつでも研究を再開できるよう資料だけは研究所に保管していたがね。……ま、アレのバグについては以上だ。アリサくん、続きを話したまえ。君は知っているのだろう。このような経緯があった『ヘヴンズプログラム』を、ついに完成させた人物のことを」
「――――!」
そうだ。アルフレドは最初に言っていた。『ヘヴンズプログラム』が完成している、と。
そうしてアリサは再び語る。ここに至るまでの空白を。
「……暴走する黒乃を、私たちは必死で止めようとした。最初は『K』と戦っていたけど、でもそのうち見境なく周囲を破壊するようになって」
黒乃は奥歯を強く噛み締めた。その辺りの記憶はまだ思い出せていない。けれど、仲間に迷惑をかけたのは事実だ。このボロボロのスーツを見れば、何があったのかはおおよそ予測できる。
「そのうち『K』が黒乃を殺すために戦いを始めようとして――でもね、そこでルドフレアくんが『K』と交渉をしたの」
「交渉?」
「ルドフレア? アルフレドのアナグラムか? ――ああいや、すまない、話を続けてくれ」
話の腰を折ろうとしたアルフレドだが、『ルドフレア』という存在について、脳内ですぐに仮説が立てられた。
ルドフレアは百人いるアルフレドの内の一人が後継者として生み出した存在だ。同じアルフレドとして、その辺りの思考は理解できるのだろう。
アリサは話を続ける。
「ルドフレアくんはある程度『ヘヴンズプログラム』の暴走について仮説を立てたみたいで、それで『K』の知っている情報と合わせて、こう言ったの」
――キミも暴走する可能性を秘めているんだろう。ここで手を引いてくれたらボクがプログラムを完成させる。もちろん、キミのも含めて、完璧に。
「『K』自身は、ジョイというアンドロイドを使って『ヘヴンズプログラム』を完成させるつもりだった。でも、この辺はよく分からないんだけど、ルドフレアくんも『K』も、ジョイを殺したくなさそうで――だから『K』はそれに納得して時間を与えた」
「……その間の僕は?」
「兄さんとセラさん、澪さんが筆頭になって、時間を稼ぎつつ、結界魔術を使って身動きが取れないようにしていた。大丈夫。黒乃は誰も怪我させてないよ。皆強かったもん」
その言葉に黒乃は苦笑いを零した。
「――お礼、言わなくちゃな」
そう、静かに誓った。
「『K』とは何者だ?」
不意にアルフレドから投げかけられる。当然だ。アルフレドはその時の状況を説明で想像するしかないが、世界に一つしかないはずの『ヘヴンズプログラム』を持っている二人目の人間が話題に出ている。
聡明なアルフレドならそれが並行世界のもう一人の黒乃であることは想像できるだろうが、なら何故『K』と呼ぶのか、それが気になったのだろう。
「『K』は――この『夢幻世界』の僕です。それも十年後の」
「……なるほど」
アルフレドはそれだけ言って、アリサに続きを促した。
「ルドフレアくんは『ヘヴンズプログラム』のバグ――暴走を制御する装置を考えたの。それは、まだ幼い子供に感情の種類や知識、理論的思考とかの『理性』を教える先生みたいなシステム。一種の学習装置とも言ってた。で、それをなんとか完成させてインストールした。そうしたらどうしてか黒乃と一緒にこの世界に来ていたの」
ここまでが、現在に至るまでの経緯だった。
無人島へ向かい『K』と対峙。
『K』の目的が『ヘヴンズプログラム』を使った『イノセント・エゴ』の殺害だと知り。
黒乃は並行世界の自分である『K』に対して怒りを抱く。
それが未完成の『ヘヴンズプログラム』によって増幅――そして暴走。
ルドフレアが対抗策を講じ、完成と同時に黒乃とアリサはこちらの世界に移動した。
「……どうして僕らはこっちの世界に来てしまったんだろう」
それについては、アルフレドが仮説を語る。
「おそらくプログラムが完成したことで、剣の力が発現したのだろう。プログラムが生み出す心にはすべての起源が備わっている。つまり君は『一番目の剣』の力を使ったのだ」
「確かに『一番目の剣』の能力は――世界を超えること。でも……それっておかしいんです。だって黒乃はまだ『覚醒状態』じゃない」
そこで一度、アリサは黒乃に目をやった。
「黒乃、神丘先生から五年前のことは聞いてる……よね? あれが私たちの『起源』。そしてあの記憶は兄さんが今も封印してる。だから私も黒乃の中の私の血もまだ『覚醒状態』じゃないの。その状態では剣の能力は使えないはずなのに……」
厳密には黒乃は人間ともエルネストとも少し違う存在だが、しかしエルネストの枠で当てはめるなら『起源』の記憶を封印されている以上、『半覚醒状態』となり、剣の固有能力を使用することはできない、
しかし、世界の移動は成された。剣の力は発動した。
「……それに、よくよく考えれば『K』もおかしい。アイツが過去の世界に来れたのは蓮たちから『過去へ渡る力』を奪ったからだ。でも……世界を超える力は持っていない。何故ならアイツの『ヘヴンズプログラム』もまだ、完成していないから」
「兄さんも、『K』のことをまだ覚醒していないエルネストだって言ってた」
ならソフィは――と黒乃はこれまでの彼女の言動を思い出す。
(……、研究所の時、確かソフィは敵の接近とフィーネさんの死を予見したことを言っていた。つまり……もう『覚醒状態』のソフィはこの件には関係ない。あくまでも『ヘヴンズプログラム』の問題だ)
黒乃は一度『ヘヴンズプログラム』に関する資料を見たが、あれにはあくまでも使い道に関する事しか書いていなかった。当然だ。研究は完成前で破棄され、実際にアレが使われることはなかったのだから。
「……」
どうにも息詰まった二人は、なんとなく自然にアルフレドに視線を向けていた。
アルフレドもアルフレドで思考する仕草を見せていた。
「――共通点は暴走……それが可能性としては一番高い。黒乃も『K』とやらの『ヘヴンズプログラム』も既に歯止めが効かなくなるほど感情を増長させた。……いや、そもそもそれは何故だ。『K』のプログラムが暴走するようになったのが同じ二〇一〇年だとして、その暴走を十年も抑えられるものだろうか? アレが暴走するための要因、例えばレベルがあるとして。十年後の『K』と黒乃のレベルが同じなのはどうしてだ。――暴走する要因……感情のデータ……それがウイルスのように感染した? ならばどうやって」
ウイルスの感染。そう聞いて、黒乃は思い当たることがあった。
感染は主に、空気感染と接触感染――あるじゃないか。あの無人島以前に黒乃と『K』が接触したことが。
「――『モノクローム』だ」
「何?」
「僕が初めて『ヘヴンズプログラム』を起動したのは一週間と少し前――『K』と初めて会った時。アイツの攻撃を受け止めようとして、プログラムは起動した。そして一度、たった一度だったけれど、僕とアイツの『ヘヴンズプログラム』は接触した。もしウイルスが感染したのだとすれば、あのタイミングしかない」
それを聞いて、アルフレドは左手の人差し指でこめかみを軽くノックする。
「暴走に関して、一つ謎が解けたな。が、そもそも暴走という言葉は良くないのかもしれない。たった一つの感情であれ、理性の歯止めが掛かってないとはいえ――その時『ヘヴンズプログラム』は確かに『完成状態』と同等のレベルだったとしたら? 『暴走』が起源覚醒の新たな道筋となっていたら? 黒乃、『ヘヴンズプログラム』は君が持っているその端末を媒介としていた。だが、君はこうも言っていた。自分の意思ではどうこうできないと。それは初めて起動した時も同じか?」
「はい」
数秒、アルフレド・アザスティアは沈黙を許す。
瞼を閉じて、まるで死んでいるかのように静かに呼吸をして、傍から見ても驚異的に集中していることが分かる。
「『ヘヴンズプログラム』は人工の心を生み出す装置。そのために開発された。あくまで機械的に感情をデータで理解し、エルネストをカード抜きで生かすための装置。ジョイ――というアンドロイドは『K』のために感情を理解しようとしている。それは――シンギュラリティだ」
束の間、アルフレドは不敵に笑みを浮かべた。
「くっふふふ――なぜこんな簡単なことに気が付かなかったんだ、ワタシは! そうだ、シンギュラリティだ! ジョイと同様に『ヘヴンズプログラム』の本体そのものが自我を持った! 黒乃が命の危機に瀕したから『ヘヴンズプログラム』は覚醒し――そしてウイルスに感染し、本来であれば暴走までにかかるとこを、一瞬で侵食された! 『ヘヴンズプログラム』そのものに『意思』があるのだとすれば、覚醒がなくとも剣の能力が使えることになる! 黒乃や『K』が世界を超えられたのは生存本能――ある種の防御機構が働いたからだろう……!」
『ヘヴンズプログラム』の――意思。それはおそらく人格といえるほどはっきりしたものではないかもしれない。でも黒乃には覚えがあった。暴走するとき、自らの『もう一つの側面』に眼を向けろと囁いてきた、あの言葉。
あれは黒乃自身ではなく『ヘヴンズプログラム』の言葉だったということか。
「な、なら私はどうして……?」
「そちらに関しては確証が持てないが、黒乃には君の血液が輸血された。それはどちらの世界でもおそらく変わらないはずだ。その後の経緯はどうであれ、な。つまり……二人には特別な『繋がり』があった。それが共鳴した、という考えはどうだろうか?」
アリサはそれを聞いて、まだ腑に落ちないような表情を浮かべた。確証がない以上、どれが真実だと言われてもそれを確かめるすべはない。すべての答えを知っているものなど、いないのだから。
「……でもそれなら『K』とソフィの『繋がり』は……? 二つの世界はどれほど違っているの……」
「血の共鳴は確かに聞いたことがない現象だ。だが――『十四番目』が生まれた経緯を考慮すると……」
と、そこでアルフレドはコーヒーを飲もうとして、先ほど中身を黒乃にぶちまけたことを思い出した。
どこか残念そうに彼はカップを置く。
「あ、コーヒー淹れますよ。ちょうど少し考えを整理したいとこだったし」
進言した黒乃は、三人分のカップを持って、カウンターへ向かった。
「やれやれ、話の途中だというのに。ところで……アリサくん、これはあくまでもワタシの仮説と言うか希望的観測のようなものを肉付けする個人的質問なのだが、いいかね?」
「へ? ――はい、それはまあ、答えられることなら答えますけど……」
アルフレドは何故か内緒話でもするように、耳打ちしてくる。
「黒乃の体内に君の血液があることは分かった。だが――逆はどうだ? 君の体内に黒乃の血液はあったりするのかな?」
「え、えぇ……? さっきも言いましたけど、私もその時のことは覚えてなくて……」
「そんなことは分かっている。が、例えば、君と黒乃は物理的に至近距離にいた。だから黒乃は君の覚醒に巻き込まれて大怪我を負った。大怪我と言えば周囲に血液が飛び散るくらいのイメージだよ。こう……飛び散った血が口から君の中へ入った、とかどうかね? 想像してみたまえ。剣崎黒乃の背中を一刀し、流れた血液が君の中に入る確率を……」
人間の血とエルネストの血が交わり、イレギュラーである『十四番目』が生まれた。
だとすればお互いの血液を交換し合った黒乃とアリサであれば、それは再びイレギュラーの要因となる可能性を、アルフレドは考えたのだ。
そしてそこが――『K』とソフィの関係性との違いである可能性を。
剣崎黒乃の血液をアリサ・ヴィレ・エルネストが宿したかどうか、その小さな要因が枝分かれの原因となっているのかもしれないと――バタフライエフェクトに繋がっているのではないかと。
しかしそんなアルフレドの考えを理解するより先に、アリサは表情を険しくして俯いていた。
「そ、そりゃあ可能性としてはあるかもしれないですけど。……っていうかそんな風に言われると……本当に申し訳なくて……うぅ、ごめん、黒乃……」
「……?」
黒乃が席に戻ると、アリサが器用に椅子の上に体育座りしていた。
「何かあった?」
「……ワタシが不躾なことを訊いてしまってね。謝罪するよ」
三人分のコーヒーを並べて黒乃が席に着くと、アルフレドは腕を組み直して話を続けた。
「ワタシの仮説は以上だ」
黒乃とアリサは砂糖を多めに入れてからコーヒーを飲む。これまでの状況、『ヘヴンズプログラム』を開発した剣崎惣一朗の目的、そして考察、随分と長く話し込んでしまい、同時に脳も疲れ切ってしまった。
なので当分補給も兼ねてたっぷりと口に含み――、
「とはいえ、すべては仮説。開発に関わった者とはいえ、ぶっちゃけワタシにも『ヘヴンズプログラム』のすべては理解しきれん。何故機能しているのだ、アレは?」
「ぶっ―――ッ⁉」
「ぶはっ――⁉」
あまりの衝撃発言に二人ともコーヒーを吹きだす。おかげで正面に座っていたアルフレドは、コーヒー塗れになる。黒乃は帰せずして先ほどのお返しをしたことになったのだが、しかしそんなこと頭から抜け落ちていた。
「な……なんて身も蓋もないことを……」
「ふむ……アレは未知そのものだ。どうやらワタシたちは人の理解を超えたものを作り出してしまったようだな。ふふ、そうか、そうか」
上機嫌ぶるアルフレドを、二人は半目で眺めていた。もしここに剣崎惣一朗が居て、同じ言葉を口にしていたら、黒乃は間違いなく『自分で作っておいて何言ってんだ』と突っ込んでいたことだろう。
「ははっ――すまないね、一人で盛り上がってしまって。なに、科学者冥利に尽きるというだけさ。開発に関わった代物が世界の運命を握る――、科学は人を生かすし殺す。ふっ、黒乃、当然君は生かす方に使ってくれるのだろう?」
その問いが――今一度覚悟を問うその不敵な眼差しが、黒乃の意識を変えた。
背筋は正しく、視線は迷いなく、想いは真っすぐに。
「確かに、覚醒しなくてもカードの能力が使えるのだとすれば、兄さんがこれ以上無茶しないで済む……」
ヴォイド・ヴィレ・エルネストが黒乃とアリサの覚醒の鍵を握っている以上、『妹を守るためなら』という理由で自らの命まで代償にしかねない彼を、安心させることができる。
だが――やはり問題はその後だ。
「でも黒乃? 『イノセント・エゴ』は……世界の解放はどうするつもりなの?」
「――――」
実のところ、黒乃は『K』と同じようなことを考えていた。黒乃はこれまでカードを宿しながらも、特に感情の制限を受けていなかった。つまりそれは自身の『ブランクカード』が、どの起源も宿していないか、反対に心そのものといえるすべての起源を宿した状態なのではないかと考えていたのだ。
こんな残酷な運命を仕組んだ神には心が無いんじゃないかと思った。
だから神にこの『ブランクカード』を通じて人の痛みを理解してもらえれば、戦いを終わらせることができると、そう考えた。
しかし『イノセント・エゴ』がこの世界に現れるには、エルネストが三人以下になる必要がある。
そのルールが変えられない以上は――いや駄目に決まっている。アリサの言葉を黒乃は反芻する。
(人の示す可能性が、命を奪うモノであってはいけない。僕はこの力で誰の命も奪ったりしない。だとすれば――)
「黒乃、シンギュラリティとは技術的特異点のことだ。一般的には機械が人間を超える瞬間のことを指すが――君に問うておこう。果たしてそれはすべての機械が同時に到達するものだと思うか? それとも、到達した一つの個体が徐々に広めていく進化だと思うか?」
それを聞いて、鳥肌が立った。
「そうか……、そういう……ことか。父さんはアリシアさんを助けたい一心でこれを作った。でも、アリシアさんが心を得るだけでは『起源選定』は終わらない。彼女を助けても、彼女の生きる世界そのものが終わってしまう――だから、『その先』も、きっと考えていたんだ」
束の間――端末から短い通知音が聞こえた。黒乃が画面を見ると『再起動完了――管理AI『ターズ』正常作動中』と表示されている。
「――時は来た」
アルフレド・アザスティアが立ち上がり、着ていた白衣を脱ぎ、軽く二つ折りにしてからそれを黒乃に差し出す。
「行くのだろう? なら、そんなみっともない恰好で行くのはやめなさい」
黒乃は僅かに呆気に取られるが、それも一瞬。すぐに立ち上がり、白衣を受け取った。
「貴方のおかげで、僕は多くのことを知れた。そして僕のやるべきことも今――はっきりと見えた。本当にありがとうございます――!」
丁寧に頭を下げ、最大限の敬意を込める。アリサも静かに頭を下げた。
アルフレドはそれを気恥ずかしそうに眺め、すぐにそっぽを向いてしまったが、想いは届いていた。
「あの、アルフレドさん。この世界には『K』が生み出した『心無き者』がいるはずです。町がこんなに静かなのも、その影響……ですよね? 兄さんは、この世界の生命は絶滅に向かっていると言っていました」
アルフレドは背を向けたまま、アリサの指摘を肯定する。
「……その通りだ。アレは時間が経てば経つほど手が付けられなくなる。十年か――『K』とやらがどのようにして、そこまで生き残っていたのかは不明だが、少なくとも、世紀末と言われて大衆がイメージするような世界は、そう遠くないだろう」
そして、仮に十年の間『心無き者』の存在から生き残ることができても、このままでは世界の未来はない。二〇二〇年の未来――『起源選定』結果の反映が終了するのと同時に『イノセント・エゴ』は用済みになったこの世界を捨てる。あっけなく、世界は終わる。
「――――」
アリサは、言葉に詰まる。予想していた答えだからこそ、現状では回避しようのないことだからこそ、視えてしまった一つの世界の終わりを嘆くことしかできない。
しかし――彼は、そんな嘆きなど許さないと言うように、柄にもないことを口にするのだ。
普段ならば絶対に言わない。子守りをするつもりなど毛頭ない。だが――それでも。
「――だから世界を救って、その白衣を返しにきたまえ。黒乃、アリサ」
その言葉が、二人の背中を押す。
「ッ、はい! 必ず――運命を超えてみせます!」
「私も……悲しい運命は、必ず変えてみせます……!」
アルフレドはやはり背を向けたまま、さっさと行け、とでも言うように右手で払う仕草をした。
二人はそれを笑って見届け、気持ちを切り替える。
「――黒乃、戻ろう。きっと『K』は戦いを始める」
「ああ――行こう。アリサ」
急ぎ足でアリサが店を出て行く、がそれに黒乃が続こうとしたところで、咳払いが聞こえた。
それに足を止めると、いつの間にか振り返っていたアルフレドが一枚の写真を投げてきた。
慌ててキャッチしたそれには、幼少期の黒乃とその両親が映っていた。
「……最後に一つ。差異はあるかもしれないが、アリシアを失った惣一朗は、財団の後継者として一人の子供を引き取った。それが剣崎惣助、君の兄だ。一方で君は、惣一朗と、惣助の教育係だった女性の間にできた子供なのだよ。結局は忘れられなかったようだが、彼はアリシアの死後、新たな道を歩もうとした。紛れもなく、君は惣一朗の希望だよ。さて――この事実をどうするかは、君に任せる」
再び黒乃は写真に目を落とす。その微笑みはやがて不敵な笑みに変わり、アルフレドはそれに一つの予感を見出した。
『彼ならきっと、最高の結末に辿り着ける』――そういう、予感を。
「本当にありがとう、アルフレドさん!」
「構わん、行け。未来を切り開けよ、惣一朗の息子」
駆け出すようにで店を出た黒乃は、外で待っていたアリサの手を掴み、そのまま走り出す。
右手には確かな温もりを、左手には『ヘヴンズプログラム』を起動させるための端末を。
「アリサ、僕を強く意識するんだ! 僕も君を強く想う! 僕らがここへ来た理由が血の共鳴だとすれば、帰る時にもそれは必要だ!」
『ヘヴンズプログラム』を使えば、『一番目の剣』の能力を使える。
血の共鳴があれば、覚醒していないアリサも共に世界を超えることができる。
「そ、それって! 言っててちょっと恥ずかしくない⁉」
「ちょっとどころかかなり恥ずかしい! だけど、アリだと思う! ――さあ行こう、アリサ!」
「うん――黒乃!」
そして二人は光に包まれ、世界を超える。
戦場の炎に包まれた――二人の帰還を信じる仲間が戦う場所へと。