『そうして『彼女』は定義される/The urge may be replaced』
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「……この世界は『幽玄世界』と呼ばれ、もう一つの世界は『夢幻世界』と呼ばれている。私は並行世界である『夢幻世界』のアリサ・ヴィレ・エルネスト」
つまりはもう一つの世界の、もう一人の――アリサだと、白髪紫眼の『彼女』は言う。『彼女』はカードを出現させ、それを黒乃に見せる。それは『I』のカード。
「……カードの保持者は剣を宿す。フィーネは『十二番目の剣』を、そして私は『一番目の剣』を持っている」
「確か剣には能力があるんだよね。フィーネさんのには発動後二十四時間の間戦闘行為を禁止する能力が――君のは確か瞬間移動、だったかな?」
『モノクローム』での一件の後、確か蓮が、ヴォイドからそう聞いたと言っていた。
しかし『彼女』はいいえ、と否定した。
「……あれは嘘よ。私の剣の能力は『世界を超える』こと。元々エルネストのカードは『起源選定』が再開されるごとに、各世界に七枚と六枚、そしてイレギュラーで一枚、配られるから。全部を集めて勝ち抜くには世界を超える必要がある」
十三人、十三人と一族内での殺し合いの中でその人口を減らしてきたエルネスト。そうして現在残っているエルネストが最後の世代であり、ただ一人の勝者が決定する世代でもある。
世界を超えた殺し合い――それはなんて果てのない、気の遠くなるようなシステムなのだろう。
「並行世界、もう一人のアリサ。世界を超える――カード。……イレギュラーの一枚って、もしかして僕の『ブランクカード』のこと?」
『彼女』は小さくかぶりを振る。
「……イレギュラーは『十四番目』。エルネストの始祖であるアダムとイヴの子供、ヴィレが人と交わったことによって生み出されたカード。ブランクとは、違う」
言葉がでなかった。自身のブランクカードが未知の十五番目であることもそうだったが、話のスケールがアダムとイヴなんていう生命の原初にまで遡ることで、実感が湧かなくなってしまったのだ。
「ヴィレ――そういや、アリサやフィーネさんの名前にはその言葉が入ってたけど」
「……血筋。家名みたいなもの。アダム・エルネストも、イヴ・エルネストもいる。ヴィレは人と交わったから、長い間迫害される血筋だったらしい。そして『十四番目』はヴィレの血筋にしか宿らない」
「なら僕の『ブランクカード』は……」
「……知らない」
情報は増えた、が黒乃にとって一番重要であることは結局謎のままだ。
少しの間、沈黙が流れる。
ここで悩んでも話が進まない。答えは出ない。そう割り切った『彼女』は話を続けた。
「……この世界に来た私はヴォイド、フィーネと契約をした。こちらのアリサと入れ替わり、おとりとなる契約。この世界のアリサを守る契約」
「僕の知ってるアリサの行方は?」
「……エルネストは残りの一人を除いて、ヴォイドとフィーネによって保護されてる。『箱庭』と呼ばれる施設でね」
もっとも無事な保証はない。フィーネは死に、ヴォイドは姿を消したのだから。
まだ所在の掴めていない最後のエルネスト――最初にアリサを襲撃したエルネストはおそらく『K』の手駒となっている。
もしまたあの仮面の男が動くのだとすれば、戦う気のない四人は簡単にカード諸共、命を奪われてしまうだろう。
そうとも知らず黒乃はひとまずの安堵を得た。知らないとは、幸せなことなのだ。
「そっか……。鏡合わせの世界、か。合流したら蓮に伝えないとな。――なんだかスケールが大きい話だ。でも、今は今だ」
そう言って黒乃は立ち上がった。
「……どうするつもり?」
黒乃は再び服から端末を取り出すと、どうにかこうにかできないかと試行錯誤を始めた。
「これが使えるようになれば――もしくは『ヘヴンズプログラム』を使うことができれば、助けを呼べるかもしれない。……でもそうなると、やっぱりあの資料、僕も見ておけばよかったなぁー……」
意気込んだと思えばすぐに落ち込む。不思議なヤツだ――と『彼女』は思った。
それと同時に、『資料』という単語に連想したものがある。
「――――」
『彼女』は立ち上がり、近くに広げていたずぶ濡れになった服のポケットから紙きれを取り出す。
それは『彼女』が万が一の場合の『交渉材料』として、床に散らばっていたものをこっそりとくすねていたものだ。
「なにそ――ぐッ――!」
と、黒乃は目で追おうとするが、『彼女』が下着姿なことを思い出して、無理やり首を曲げる。
「……何をやってるの。これは、あの二人が燃やしてしまった『資料』の一部。でも、水に濡れてもう読めない」
「そ、そっか。ま、そう上手くはいかないね」
「……まるでそういう運命だと、言われてるみたいにね」
「かもね。――でも、僕はそういうの、好きじゃないんだ。決められた道しか生きることのできない運命なんて、なんか生きてる気がしない。そうは思わない?」
「……そうね」
「それ、貸してくれる? そこの火で乾かしたら、読めるようになるかもしれない」
そう言って、視線を明後日の方向に向けたまま資料を受け取った黒乃。
「……燃えるだけだと思うけど」
刹那――資料は火花が飛び散って焚火の燃料となった。
あまりにも一瞬の出来事で、黒乃は驚くことすらできなかった。
「あー……、いや、でも服を早く乾かせば、早く助けを呼びに行けるはずだよ」
そう言って今度は、シャツを火に近づけて乾かし始めた。
それが燃料にならないことを『彼女』が祈っていると、ふとズボンを取りに行った黒乃が何かを拾い上げたのを見る。
それは『資料』と同じように『ダーカー』による爆発と水流によって、ほとんど原型を保っていない手帳型の何か。
「……ッ」
即座に『彼女』は立ち上がる。
「これは――」
『彼女』はそれを素早く黒乃の手から取り上げた。黒乃にそれが何なのかを悟られたくなかったからだ。そしてすぐに、それが何なのかを判断できるような自分にとって致命的な部分はないかと、手帳に視線を向ける。
「…………」
――悔しいことに手帳には、先ほどの資料よりもずっと鮮明に文字が残っていた。
『母子健康手帳』――そう、記されていたのだ。
「その……ごめん、勝手に」
黒乃は目に見えるほどに動揺していた。それは『彼女』も同じだ。これは『彼女』がどんな時もずっと肌身離さず持っていた、ある種のお守り。そんな自らの秘めたる部分を見られた羞恥心が、鼓動を早くする。
しかし次の瞬間、不思議と思考は冷静になっていた。すべてを失った自分がいったい何を恐れると言うのだろうか。これ以上失うものがないはずなのに、何を恐れているのだろうか。
そう思った瞬間に何かがすっと引いていった気がした。
再び背中を合わせるようにして座り込んだ二人。ふと――『彼女』が問いかける。
「……知りたい? これが何なのか」
黒乃はどう答えるべきかを悩んだ。断るべきか受け入れるべきか。彼はたっぷりと時間を使って答えたのだ。
「ああ、――聞かせてくれる? 僕は今後、アリサだけじゃなく君も守るつもりだ。病院の屋上であの時の僕が守ると誓ったのは、君だから。だから僕は、君のことをもっと理解するべきだと思う」
よくそんなことを真顔で言えるものだ、と率直に思った。正直で、真っすぐで、なんて眩しい人。この人ならば自分の抱える闇を照らしてくれるのではないか、そう思った。
けれど『彼女』は、そんな気持ちでは決して話さない。
何故ならば、『彼女』は救われたいわけでは、ないのだから。そうして『彼女』は語り部となり、自らに与えられた『祝福』を、その始まりから終わりまでを晒すことにした。
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これから語られるのは、これまで見てきた世界とは少し枝の別れた世界での、もう一人のアリサ・ヴィレ・エルネストの人生。
まず二人のアリサを比較した場合、真っ先に思い浮かぶ違いと言えば、周囲の人間だろうか。
私にはフィーネのような母親も、ヴォイドのような兄も、剣崎黒乃のような存在もなかった。幼い頃に私は施設に預けられ、ヴォイドに引き取られることなくそのまま幼少期を過ごした。
別に誰かのせいにするつもりはない。でも私はいつも一人で、そして、何かに苦しめられて生きてきた。
誰とも関わることなく施設で育った私は、ほんの少しお金を持っている人の支援を受けて、小学校、中学校、高等学校と進学していった。
その間、特に変わったことはなかった。強いて言うなら中学生の時の夏、とある出会いを果たしたのだが、結局その出会いがその後の人生に大きな影響を与えることはない。
ある意味平和だった。しかし頼れる家族がいない日々や、白い髪に紫色の瞳という容姿は奇異の視線に晒されることもあり、平穏な日々とは程遠かった気もする。
学校ではいじめられていた。小学校、中学校は暴力や嫌がらせを中心に。そして子供から大人へ変わりゆく過程の高校時代。
――曰く、私の容姿は男から見れば色欲を煽り、女から見れば虫唾が走るそうで。女からはごみのような扱いを受け、男からは人形として扱われた。
ごみのような扱いとは、まあ小中学校で受けたものと同じものだ。今となっては別に気にすることもない。
しかし問題は男からの扱いだ。自分で言うことではないが、どうやら私は男から、薄幸そうでいてどこか色気のある、ある種の理想を体現した『魔性の女』らしかったのだ。
勝手に男が寄ってきて、勝手に勘違いをして、勝手に理想を押し付ける。そしてどうにもその理想を体現してしまうのが、私の悪癖だと、いつかこっぴどく言われたものだ。そう言った女は、私に入れ込んでいた男によって穢され、それがまた新たな火種となった。
逃げることはきっとできた。でもそうすることはなかった。もしいずれ自分が普通に生きていくのだとすれば、高校は出ておく必要があったし、何より施設を追い出される恐れもあった。
そして高校を卒業してからも場所と人が変わるだけでそれは続いた。むしろ薬を使われることもあり状況は悪化していったと言えるだろう。抜け出したくても抜け出せない泥沼。それに足を取られた私は身動きも取れないまま、ただただ穢されるだけだった。
でもある日、ついに私はこれを――この手帳を手にする機会がやってきた。相手は、誰だったかなんて覚えてない。
無理やりだった。私は自分の身を守るために拒まなかった。もし感情のままに相手を殴ってしまえばそれが問題になって、天涯孤独のまま残酷な世界に放り出されてしまう。
生きるために感情を殺して、心を殺して、そうして私は生命を宿した。むしろこれまで一度もなかったこともあって、生命の奇跡というものを最悪の意味で思い知った。
母子健康手帳に書かれる予定だった名前は――『フィア』。
絶望と恐怖の中で生まれる子。生まれる前に――という考えが脳裏をよぎったし、施設の大人からもそれを進められた。
でも毎日を抜け殻のように過ごし、何も選べずにいると。私は徐々にこの命を育てたい、育てなくてはならないという使命感を覚えた。
だから過去を捨てて一からやり直そうと思った。でもそうはならなかった。
あと出産予定日まであと三ヶ月。うまくやっていけるかな、なんて思いながら何とかアルバイトをして少ないお金でベビーカーを買って、玩具を買って、服を買って、何度も育児本を読んだ。
すべてにおいて、自分よりも我が子を優先した。
たくさん、たくさん想像した。毎晩眠る前に、子供と二人で幸せになることを考えた。あの公園に行こうとか。たくさん優しくしてあげようとか。春にはお花見をして、夏には山とか海に行って、秋には紅葉やお月見をして、冬にはクリスマスにお正月があって、できる限り多くプレゼントやお年玉をあげようとか。
眠りにつく前のささやかな妄想。それだけで、これまでの人生が嘘のように笑顔が溢れていた。
でも――始まってしまったのだ。
正義など介在しないエルネストに課せられた宿命――『起源選定』。
ある日、私は記憶を取り戻した。それは、いつか自分がエルネストとして覚醒した時の記憶。
きっと今はもう顔も思い出せない誰かによって封じられていたのだろう。
そうして私はカードを宿し、剣を手にしてしまった。
それから数日。あるエルネストが私のカードを奪うために襲ってきた。結果から言えば私は傷を負いながらも相手を撃退した。自分の命は助かった。だが、失った命があった。
やり直そうと前を向き始めた私に突きつけられた現実――それが流産。
泣いた。涙が出なくなっても心が泣いた。それまでの人生で幾度となく絶望に塗れた私はもうこれ以上の底はないと思っていた。けどそれ以上に深い闇の中に堕ちた。
その結果芽生えたのが――『破滅願望』。
私はこの戦いを生き残り、こんな残酷な運命を創り上げた神を殺すためだ――世界を超えた。
いや――本当は少し違う。世界とか神がどうこうなんて大きな話ではないのだ。
そこまでしなくたっていい。
ただこの願望をすべて戦いの中に吐き出して、全部の感情が消えて、空っぽになって、それで死ねたらなんだってよかった。
そして私はこの世界に来て、自分とは正反対の道を歩んだ『アリサ・ヴィレ・エルネスト』の存在を知った。知って、なら自分は『アリサ』で在ってはいけないのだと思った。こんな穢れた体で、泥に塗れた心で、無限の孤独を抱えた自分はもう自分で在って欲しくはなかった。
私は『ソフィ』と名乗り、ヴォイドたちと契約を結んだ。彼らはアリサを、最愛の存在を守るために。そして私は戦いの中で命を使い切るために。
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黒乃は黙って『彼女』の話を聞いていた。彼が何を思っているのか、背中合わせでは表情も読めず判るはずもない。
話が終わって、束の間の静寂が流れ、そうして黒乃は口を開く。
「話してくれてありがとう。これで僕のやるべきことは決まったよ」
珍しく低い声音で静かな声だった。しかしそれでいて、強い意志を込められた言葉。
「――僕がこの戦いを終わらせる」
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耳を疑った。剣崎黒乃は言ったのだ。確実に果たしてみせるとでも言うようにはっきりと、強い意志を込めて――戦いを終わらせる、と。
「……無理。エルネストは戦う運命にある。そしてあなたは誰も殺せない。何ができると言うの?」
声に力が入る。これまで何も知らなかったくせに、そんなに簡単に言ってしまう黒乃に腹が立って仕方なかった。エルネスト同士が殺し合う『起源選定』の歴史は、個人の意思で変えられるようなものじゃない。
だと言うのに、黒乃はそれでも言葉を紡ぐ。声音に迷いはない。
「――ああ、誰も殺さない。君もアリサも死なせない。そして、二人が生きることのできる未来を掴んでみせる。僕に宿った『ブランクカード』はそのためにある気がするんだ」
「……やめて、軽々しくそんなこと言わないで!」
「運命が好きじゃないのは、君もだろ? だから僕は――運命を超えてみせる」
何故だろう。彼の言葉には予感がするのだ。根拠なんてない。何一つ具体的な案などない。それでも彼ならなんとかしてくれるのではないか、という予感。
もしかしたらそれは無意識のうちに自分がそう思いたいという心の表れなのかもしれない。だからこそ、身も蓋もない理想にすがりたくなってしまう。
だとすればそんなのはごめんだ。
――これ以上、希望なんて持ちたくない。どうせまた奪われるのだから。光なんていらない。
すぐに反論しようとした。けれど――『彼女』は言葉に詰まった。何も言えなかった。
「……」
そしてすぐに、まだ乾いていない服を着始める。何故か、どうしてか、黒乃に肌を晒しているのが恥ずかしくなったのだ。
黒乃は当然のようにその光景から目を逸らし、そのまま声を掛ける。
「あのさ、これから君のことなんて呼べばいい? もう一つの世界のことは話さざるを得ないとしても、僕は君の事情までみんなに話すつもりはない。だから、つまり、二人の時の呼び名……ってやつ?」
アリサ・ヴィレ・エルネストという名前は『彼女』にとって呪いだ。アリサだった人生に、良かったことなど一つもないから。だからその名は使わない。
「……私はもうアリサを捨てた。――ソフィ、それで、いい」
だから『彼女』は自らに名前を付けたのだ。かつて母が聞かせてくれたはずの、曲の名前を。
「ソフィ、か。うん、良い名前だ。――本当の君が知れてよかったよ、ありがとう」
その時、ソフィは何の意図もなく自然に振り返って、黒乃の横顔を覗いた。
そして思ってしまった。剣崎黒乃という男の優しい笑顔を見て、思ってしまったのだ。
――ああ。彼がいるなんて、こっちのアリサは羨ましいな。
「――ん? なんだか焦げ臭くない?」
黒乃の言葉に、ソフィは周囲を見る。
まあ、予感はあった。
焚火の近くに置いたままだった黒乃の服に見事に火が移っていたのだ。スーツは特別製だが、シャツは違う。そして広げられたシャツの端から火が小屋の床に移動し――、
「え」
「……あ」
火は瞬く間に小屋の中に広がる。
「かかかか火事⁉ と、とにかく逃げよう‼ これは流石にまずいって!」
黒乃は防火加工のしてあるスーツのジャケットをソフィに被せ、その手を掴み、小屋からの脱出を図る。
「……、これも一種の破滅」
ソフィは手を引かれながらに思った。小さな小屋のちょっとしたボヤ騒ぎ。いつの間にか、雨は止んでいた。でもきっとそのうちまた降り始めて火は鎮火するだろう。
それでも、これも自分の望む破滅に違いない。だからだろうか。ほんの少しだけ何かが満たされたような気分なのは。
(……その答えは――今の私には出せない)
幸か不幸か、そのボヤが山火事に広がる手前で、消防隊と共に蓮とルドフレアが救援に駆け付けた。
そうして履く暇もなくスラックスを抱えたまま下着姿の黒乃と、ちゃんと服を着ているソフィは無事救助されたのだった。