『内なる衝動/is artificial respiration a kiss?』
★
空から降り注ぐ濁雨。雷鳴は既に走り去ったが、大きな雨粒を体に打ちつける突風の勢いは弱まらない。
崖下に落ちて激流に飲まれた剣崎黒乃と、白髪紫眼の『彼女』は、どことも知れぬ下流に流れ着いた。
山の中。あるのは視界を遮る木々のみ。当然周囲に明かりはなく、月も雲に隠れて期待できそうにないので、『彼女』は仕方なく胸に明かりを灯した。
とても変則的な使い方だが、悪くはない。
「…………」
体に張り付いた服が絶え間なく不快感を与え、木の葉に当たる雨粒の音、増水した川、慟哭のような音を鳴らす風が酷く精神を削る。
濡れた前髪が鬱陶しく手で払いのけると、すぐ隣にスーツ姿の男が倒れているのが見えた。
黒乃だ。『彼女』は恐る恐る、彼の口元に手を添える。
(……呼吸、してない)
僅かに、このまま見捨てる、という選択肢が脳裏をよぎる。おそらく数日前までの自分ならば迷いなくそうしていた。
けれどきっかけは『モノクローム』での一件――それが『彼女』の内側に影響を与えたのだ。それきっとまだ芽吹く前の種のように小さな可能性だが、充分だ。
『彼女』はため息を吐いて、気道を確保してから、心臓マッサージと人工呼吸をし始めた。
経験なんてない。所詮はドラマの見様見真似。普通ならば絶対にやってはいけない危険な行為だ。
だがこの『起源選定』は正義など介在しない異常事態。異常事態には異常手段。それにこのまま何もしなければ黒乃は死ぬ。
だったら『彼女』は――見殺しよりも人殺しを選びたかった。
そうして少しの時が経つ。
蘇生は成功した。奇跡に近い結果だが、きっと、黒乃が生きようとした証拠だろう。胸に手を当てて、黒乃の鼓動が再開したのを確認する。
とりあえずは一安心。張り詰めた糸は僅かに緩み、それによりせき止められていた何かが心に流れてくる。
「……なに、これ」
唇に指を当てた。
――人工呼吸はキスに入るのだろうか。と、『彼女』は思う。
(……いや、きっと入らない。だってキスは嫌悪を覚えるものだ。……だから嫌悪とは違うこれは、きっと別の……)
『彼女』は息を吹き返した黒乃を引きずりながら、胸の光を懐中電灯代わりにして森の中へ入った。
黒乃の体は重い。正直、運ぶことを諦めてあのまま下流に留まることも考えたが、これ以上雨が強くなれば、水流は強くなり救助を待つどころの話ではない。
体力の消耗も激しい。とにかく雨だけでも凌げる場所が欲しかった。
すると、胸に灯った光が導いてくれたのか、しばらく使われていない様子の小屋を見つけた。
小屋の中は荒れていたが雨風は凌げる。
『彼女』は胸の光を、蝋燭の火を吹き消すように静かに消した。
砂埃塗れの床に黒乃を寝かせた『彼女』は部屋の隅に、静かに座る。
「――――」
あの日、『モノクローム』で『K』というエルネストと対峙した時、忘れかけていたアレを思い出した。
さっきもそうだ。フィーネを殺され、『ダーカー』というあの機械兵を目にしたとき、心には確かに炎が灯った。
――『破滅願望』。それは『彼女』に与えられた『祝福』。
『破壊衝動』とも言い換えられるそれは、いつの日からかさも当然のように『彼女』の心の片隅に居座っていた。
――あれから二年。時の流れは残酷であり、場合によっては優しくもある。
最近は不思議と破滅願望を忘れることのできる瞬間があった。
『彼女』は、黒乃の、その水に濡れた綺麗な顔を見つめた。
(……そうだ。私の内にある『破滅願望』は、どうしてかこいつの顔を見ていると忘れられるんだ)
不自然な思考を振り払うように、『彼女』は黒乃の服を漁りポケットに入っていた端末を取り出す。これを使えば助けを呼べる。そう思った。しかし端末は案の定ロックされている。これを使うには黒乃の生体認証が必要だ。
まあ、壊れていないだけマシか。今はとにかく黒乃が目覚めるのを待つだけ――、
「……っ、う……。はっ、ここは――⁉」
――飛び起きるように黒乃は目を覚ました。
薄暗い小屋の中で『彼女』の姿を見つけた黒乃は安心したように息を吐き、再び周囲を見回した。
「ここはどこ?」
「……分からない。偶然見つけた山小屋」
黒乃は立ち上がり、水を吸って纏わりつく服を観察しながら納得したように呟いた。
「そうか、崖の下に落ちて流されたんだ。……僕の端末は?」
『彼女』は言葉もなく手に持っていた端末を渡した。
「フレアの話じゃあ防水機能もあるって話だけど、変だ。使えない。……これは参ったな」
画面をのぞき込むと、生体認証によるロックは解除できたようだが、何かのデータをダウンロードしているようで画面が一切動かない様子だ。
「何にせよ君が無事でよかったよ。ちょっと待ってて、火を起こして暖を取れるようにする。このままじゃまた風邪引いちゃいそうだし」
「……できるの?」
「ああ――昔、訓練で習ったんだ。外に落ちてる枯れ木は濡れて使えないけど、小屋の中にあるものは使えると思う」
黒乃は『彼女』を安心させるために、優しい笑顔を向けた。
それから少しして、小屋の中に落ちていた葉っぱや枝なんかを集めて、器用に火を起こしてみせる。
油断すれば消えてしまうような小さな温もりだが、少しずつ燃料を足してやればしばらくは持つだろう。
暖の確保をしてくれた黒乃に『彼女』は心の内でお礼をする。口には出さない。
「あれからどのくらい経ったんだろう。蓮が救助に来てくれればいいけど……」
「――――」
『彼女』は肌に纏わりつく水、というか液体が嫌で仕方がなく服を脱ぎ始めた。人前で肌を晒すことには人並みの抵抗があるが背に腹は代えられない。
万が一にも夜代蓮らが殺されていた場合、『彼女』は自力で体勢を立て直さなくてはならない。そのためには濡れた服を着たままで体力を失うのは避けたい。
やれることはやるというスタンスだ。
「とりあえず端末が使えるようになるか、雨が止むまで待って――てっ、え、ちょっと⁉」
服を脱ぎ始めた『彼女』を見て、黒乃が驚きの声をあげる。無論すぐに背を向ける。
「……服、濡れたままじゃダメだから。あなたも脱いで構わない」
「へっくし! あー……それじゃあ、お言葉に甘えて。でも不思議だな。君を知れば知るほど、どういう人なのか分からなくなるよ」
二人は下着姿になり、お互い背中を合わせるようにして焚火の傍で体を温める。
ばちばちと焚火から聞こえる気持ちが落ち着く音と、外から聞こえる不安を煽るような雨の音。
下着姿の男女が一つ屋根の下。山の中で遭難中。助けが来るかも分からないこの状況。人によっては良い方に解釈するかもしれないが、脳裏によぎるのはフィーネ・ヴィレ・エルネストの死。
口には出さないが不安は募るばかりだ。
(……そういえば、あの日も雨だった)
雨は嫌いだ。肌を流れる水滴がまるで焼けるように熱くて。全身を蝕むおびただしい液体と、それを拒絶するために渦巻く吐き気と、後悔と、憎悪と、死んでしまいという気持ち。それでももう何もできない、したくないと思う、心が空っぽになってしまった重さ。
喉元までせり上がってきたものを必死に飲み込み、『彼女』は震える手足を大事に抱えた。
「――ねえ、訊いてもいいかな」
その時の『彼女』は酷い吐き気に襲われており、他人と会話をする余裕なんてなかった。
だから無視した。しかし黒乃は続けた。『彼女』が他人と会話できない状況であろうと、黒乃は言ったのだ。
「――君は誰? 僕の知っているアリサじゃないよな」
焚火の火花が散った。
「……気付いて、いたのね」
思い返せば、黒乃は焚火を起こす前に言っていた。――『昔訓練で習った』と。つまりあの時既に、黒乃は失われていた記憶を取り戻していたのだろう。
過去の記憶を手繰り寄せた先にあったアリサ・ヴィレ・エルネストの姿と『彼女』の姿を重ねて――そして、別人だという結論に至った。
しかし『彼女』はその事実に言及されても狼狽えなかった。何故なら予測していたからだ。黒乃が記憶を取り戻すことを。そして自らの存在が『アリサ』ではなくなることを。
「……フィーネよ。あの女があなたの記憶を封印していた。だから、あの女が死んで、その封印が解かれた」
もう隠す義理もないだろうと、『彼女』は語る。
「そう――だったのか。フィーネさんが……」
すべてはアリサから黒乃を遠ざけるため。とはいえその努力はあの日――病院の屋上で黒乃が、翼を広げたことで水泡に帰したわけだが。
「……記憶を失くしていた間は、君は戦いに巻き込まれたショックで、別人のように変わったんだって思ってた。でも今は違う。記憶が戻ったから分かるよ。昔のアリサと今の君は明らかに違う。別人だ。それに君は、僕のことを黒乃って名前で呼ばないだろ?」
「……そう、私とあの女は別人」
「だけど分からないんだ。君とアリサは似すぎてる。フィーネさんも同じ髪と目を持っていたけど、もちろんアリサと顔は違った。でも君は……そうじゃない。それにフィーネさんが亡くなった時、心の底から悲しんでいたよね。アリサとは別人だけど、そうじゃない気もする。教えてくれ、君は誰なんだ?」
「――――」
どこから話すべきだろうか。どこまで話すべきだろうか。
アリサ・ヴィレ・エルネストは黒乃が過去を取り戻し『起源選定』に関わることを拒んだ。
だがそれ以上に拒んだのはヴォイドだ。それは契約の一つでもあった。『彼女』と、アリサと、ヴォイドと、フィーネで結んだ契約。
――剣崎黒乃を戦いから遠ざける。それはアリサの意志であり、ヴォイドとフィーネはその意志を汲んだ。しかし結局のところ、状況は都合良くは進まなかった。
黒乃はカードを覚醒させている。――いや、半分覚醒させている。
(……エルネストの覚醒は『己の起源を知る』ことが必要。けれど彼はまだ……いや、契約は破棄された。もはや彼を守る必要も、アリサを演じる必要も、ない)
『彼女』はゆっくりと長い白髪を一房に纏め、それを肩に置いた。なんてことのない、心の準備のための動作。
「……一つ、間違いがある。確かに私はあなたの知るアリサじゃない。でも私は紛れもなく――アリサ・ヴィレ・エルネスト」
正確には『だったもの』と、心の中で付け加える。
「それは……どういうこと?」
「……世界は、上位世界と下位世界の二つだけじゃない。下位世界はもう一つ存在する。この世界と同じ景色を持ちながら多少の差異がある、並行世界とも言うべき、もう一つの世界が……あるのよ」
黒乃は息を呑み、不安を感じたのか身を守るように腕を組んだ。
一つの上位世界に二つの下位世界。
これが世界の構造。――世界の、真実。