『無痛の喪失/Goodbye my whereabouts』
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「――フィーネさんはオレが殺した。黒乃君、頼む……これ以上、エルネストに関わるな」
その言葉を聞いた時、眼前の景色すべてが止まったような気がした。雨粒は果てしないほど存在し、その一つ一つが全て空中で静止している。風の音も自らの呼吸の音も聞こえない。
その永遠にも等しい一瞬は容赦なく過ぎ去り、次に絶望がやってくる。
動悸が激しい。うまく息が吸えない。黒乃の心を支配したのは恐怖だ。まったくの未知。理解ができない状況に遭遇してしまった黒乃はただただ恐怖した。
あの時、病室の窓から世界へ向けて翼を広げたことを酷く後悔するほどに、それほどまでにこの光景は黒乃の心を深く抉った。
そんな精神状態で、それでも必死に言葉を絞り出す。
「なんで……どうしてッ⁉」
「……これがエルネストの宿命なんだよ」
抑揚のない言葉だった。感情を奪われたように、失ったように何も無い空虚な音の連なり。しかし次の瞬間には、青白い粒子を解くようにしてヴォイドの手にそれは在った。
――『在った』のだ。
「カード…………」
書かれた数字は十一番目――『Ⅺ』。
何故だ――という思考が咄嗟に生まれる。ヴォイドはエルネストの名前を持っているとはいえ、それはあくまでも形式上の、戸籍上のものだ。白髪紫眼のエルネストに対し、オレンジ色の髪とエメラルド色の眼。ヴォイドは――エルネストではない。はず、だというのに。
「どうして……それが……?」
「ああ――そうだ、それしかない。オレには『責任』しかないんだ。――ッ、ソフィ! 契約はこれで終わりだ! オレはアリサを守り抜くぞ! 次にあった時、お前が刃を向けるのなら容赦はしない‼」
誰に向けての言葉なのかも理解できないまま、ヴォイドは脇目も振らずこの場を去った。
ヴォイドが居なくなってから数秒して、アリサは立ち上がりフィーネの側による。黒乃は雨に濡れるその華奢な体に、なんて声をかけていいか迷っている。
そうして一秒、二秒と時が流れて、立ち尽くした。
突如――それを咎めるように脳に激痛が奔る。
「くッ……な、頭が……割れ…………ッ⁉」
遠雷。その瞬間、黒乃は冷静な思考を取り戻した。乱れた呼吸を必死に整えることに意識を集中させる。
しかし相も変わらずフィーネが死んだという事実は黒乃の心を空にしていく。
「――――」
知らなかった。死が、こんなにもあっけなく。こんなにも悲しいものだなんて。しかし、何度考えたって今の黒乃に理解できるはずないのだ。
――だってまだ、生きているから。
「……アリサ、行こう……!」
フィーネの体を抱きしめるようにして顔を伏せるアリサ。
「ここで僕らまで死んでしまったら、何も救われない!」
フィーネは望んだはずだ。アリサが生きることを。そして黒乃もアリサに生きて欲しい。
この世に絶対というものはある。それは死だ。命の終わりは、絶対に訪れるものだ。
だからこそ、来るべき彼女の死は突如として降りかかるものではなく、自ら死を受け入れ天寿を全うしたと言えるものであって欲しい。
それが一番の幸せだと信じているから――だから。
黒乃は、なおも前を向く。
「ごめん……!」
白く冷たい、既に死に直面しているような手を掴み、引き寄せ、無理やりにでも歩かせる。
アリサは抵抗することなく歩いてくれる。ゆっくりではあるが進んでくれる。
そうしてフィーネの遺体を置き去りにしながら、少しずつ歩みを進め始めた直後のことだった。
――数メートル先。
すぐ側の崖下から激しい水流が聞こえる場所で、『ダーカー』と遭遇した。
「ッ……こんなときに……」
咄嗟に草陰に隠れたおかげで『ダーカー』はまだ二人に気付いていない。ここはうまくやり過ごして、戦うことはせずにここを切り抜ける。そう考えたが、しかしその思惑は失敗に終わった。
――光が灯る。
黒乃はすぐに振り向いた。その光には見覚えがあった。ヴォイドが、『K』が、なにより黒乃自身が胸に宿した光と全く同じ輝きを放っていたから。
「――――」
アリサの眼は据わっていた。平静さを失くし、呼吸を乱し、そして己が抱くありったけの悪感情をぶつけるに相応しい相手として『ダーカー』を見据えていたのだ。
その表情に圧倒された黒乃は一瞬。たった刹那。アリサを止めるのが遅れた。
「ダメだッ、アリ――――、サ――」
アリサは弾丸の如く飛び出した。その手には胸の光から引き抜いた漆黒の剣が握られている。『ダーカー』はすぐさまアリサを捕らえ、迎撃態勢に入る。
しかし『ダーカー』の内部機構が切り替わるほんの僅かな時間で、アリサはまるで制御を失った猟犬のように力強く、素早く、苦しそうに唸り声をあげて黒機兵の四肢をバラバラに切り裂いていった。
その後、アリサは四肢を失った『ダーカー』の体に馬乗りになり、何度も、何度もその剣を振りかざした。もはやどちらが死神なのか判別がつかないほどの所業だ。
「うぅ――ああああああッ、ァァァ――――‼」
十数箇所を滅多刺しにされた『ダーカー』は完全に機能を停止――――、
(――いや。待て、待て、待て、フレアが言っていたじゃないか。アレのコアは首を切断するか、冷却して機能を低下させなければ止まらないって。つまりあれは『ダーカー』を倒したんじゃない。――コア爆発のスイッチが入ったんだ‼)
既にアリサは、それを判断するだけの思考を放棄している。
「ッ……はぁ……はぁ……ァ……‼」
――直感で黒乃の体は動き始めていた。
「アリサ、離れるんだ――‼」
ぬかるんだ道をこれでもかというくらいに踏みしめ、止まることを考えずに全力で、アリサめがけて飛び込む。
そうして背後の『ダーカー』が爆発したことに気付いたのは、加速した浮遊が落下に変わり、崖下の激流に飲まれてからのことだった。
★
爆発音が聞こえてからも、夜代蓮とジェイルズ・ブラッドの戦いは続いていた。
「――――ッ!」
基本的に蓮の戦法はカウンターだ。だからこそ、自分から積極的にジェイルズに向かって行くことはない。これがあくまでも黒乃たちが逃げるまでの時間稼ぎの戦いということもあるが、ジェイルズ・ブラッドという気の抜けない相手に対しては、やはり自分から攻めるという賭けには出られないのだ。
「そろそろ潮時かな?」
ジェイルズはそんな蓮の意図を知ってか知らずか、果敢に攻め続ける。右ストレート、蓮はそれを右手でいなし、左手でジェイルズの首元に手刀を浴びせる。攻撃は終わらない。
いかにカウンター戦法とはいえ、これだけではダメージにもならない。
手刀を再び首元に――しかしジェイルズはもう片方の手でそれを受け止め、そのまま流れるように関節を決めるようにして、投げ技に移行する。カウンターに対するカウンター。しかし蓮はそれをさらにカウンターする。
わざとそのまま投げられた蓮は、咄嗟に腕を組み替え、ジェイルズの右腕をあと少し力を入れれば折れるところまでもっていく。
「――――」
だが、その拘束は解かれる。
強引に、力任せに、ジェイルズは蓮の脚を蹴り、怯んだ隙を狙って回し蹴り。
「ぐッ――――かッあ――⁉」
それをモロにくらった蓮の体は近くの木に叩きつけられる。まだまだ止まらぬジェイルズの連撃。
蓮は即座に意識を取り戻し、再び来たジェイルズの強力な蹴りを避ける。
「――――」
その一撃は木の表面を抉る。一撃一撃がとにかく強力なジェイルズ。人を殺すための格闘術に、大きな体躯、俊敏な動き、とにかく洗練されつくしたその存在に、蓮は舌打ちしそうになる。
これまで蓮は魔術の世界で戦ってきた。スズカの『共鳴歌』を介しての身体強化の魔術を使い、体術対魔術の変則的勝負で勝利を収めてきたことが多い。
知能派の魔術師を、武闘派の自分という、意外性――ある意味、相性で倒してきたのだ。
だが今回は違う。相性などは存在せず、蓮とジェイルズの間に存在するのは絶対的な力の差だ。シンプルであるがゆえに、その差は絶対的に埋まらない。埋められない。
(そろそろ――引き時か)
稼げるだけの時間は稼いだ。これ以上はジリ貧だ。
降り注ぐ雨によって垂れる前髪をかき上げ、蓮はジェイルズを睨んだ。
その瞬間――この場に新たな人影が現れた。
それは遠くで対峙しているルドフレアとジョイではない。黒乃でもアリサでも、神丘でもない。
――それは、気を失ったレベッカを抱えたスズカだった。
「――――」
一瞬、その姿を見たジェイルズが眉を潜め、懐から拳銃を取り出そうとする。僅かに見せた本物の殺意。刺さるほどのどす黒い感情ではなく、とても透明で誰も目にも留まらないような、巧妙に隠された刃。
スズカはそっと、呟いた。
「気を失っているだけです。少し精神的ショックを与えました。ですが命に別状はありません。ジェイルズ・ブラッドさん、あなたは『モノクローム』で私たちを見逃してくれました。ですので――今回はこれ以上この子に危害を加えるつもりはありません。なので、撤退してください」
スズカは丁寧にレベッカをその場に寝かせ、蓮とルドフレアに目線を送った。
しかし、ジェイルズはなおも懐の拳銃から手を離さない。もし一手でも何かが噛み合わなければ、ジェイルズは三人を即座に殺すだろう。おそらくは、何の躊躇も苦労もなく。
「――――」
雨音に紛れ、携帯の着信音が鳴る。ジェイルズのものだ。開かれたメール。画面にはこう表示されていた。
『目的は達成した』――と。
「……理由はできたな。いいだろう。ふっ、やはりユーとレベッカの相性は良くないようだな。ジョイ! 撤退だ! ――シーユー、レイターアリゲーター」
ジェイルズはレベッカを抱えて、ジョイと共にその場を去る。敗北を噛み締めた蓮は、大人しくその後ろ姿を見届けた後に口を開いた。
「――フレア、すぐに黒乃の位置を特定してくれ」
「オーケー」
「スズカ、キャラバンはどうなった。『月夜野館』は?」
蓮にはとある可能性が浮かんでいた。何故ジェイルズたちがこの場所を特定できたのか――その理由が。
スズカは静かに、首を横に振った。遠くに見える、黒雲を上らせるキャラバンの残骸。周囲に渦巻く炎は、きっと、キャラバンのオイルが漏れ出て引火しただけのものではないだろう。
――内側から溢れ、流れ。
「私たちの、居場所……」
スズカは今にも泣きそうな、悲しい目で炎を見つめていた。降り注ぐ雨。雷雲。空へ上っていく黒煙。
――この日、大切なものをまた一つ、失った。