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『剣崎黒乃/Past and Future』

 彼の名前は剣崎(けんざき)黒乃(くろの)桐木町(きりぎちょう)に住む大学二年生だ。

 誕生日は三月二十日。歳は二十歳。身長は百七十五センチで、体重は六十五キロ。髪と眼は黒色。髪型は風に吹かれた爽やかな感じ、と前に言われたことがある。服装の好みは特にないが、古着屋で買ったものが多い。

 理由は簡単。お金がないからだ。


 家は、町が一望できて商店街にも近い――ボロいという点に目を瞑ればかなり良い立地をした『東木荘(とうぼくそう)』という小さなアパートで、一人暮らしをしている。


 今日は久々の帰宅だった。ある事が一段落したのでこの町に戻ってきたのと、溜まった家賃を美人大家さんに渡しに来たのが目的。そしてそれも完了して、再び出かけるつもりだった。

 ――だったのだが。


 外から車のエンジン音と、タイヤと砂利の擦れる音が聞こえた。黒乃が確認のために外へ出ると、正面には黒いセダンが停められているのが確認できた。乱暴に停められていることから随分と急いでいるのだろうか。


「なんだ……?」


 何か、嫌な予感がした。黒乃の姿を確認した運転手が何かを呟き、ドアを乱暴に開けて数人の男が出てくる。

 全員が身長百八十センチを超えるガタイのいい男で、上質なブラックスーツを着ている。

 一目で分かる。素人ではない、と。


「――お前ら何者だ!」


 男たちは素早く黒乃を取り囲み、そのうちの一人が死角から迫ってくる。それに音で反応した黒乃は、即座に態勢を変えて防御の構えに移ろうとするが、それを狙っていたと言わんばかりに別の男が視界の端で蹴りを放った。

 避けようもなく、それは黒乃の横腹を直撃する。


「ぐッ……⁉」


 あまりに正確で強烈な痛み。再び立ち上がるのに五秒の時間を要する。無論その隙を男たちが逃すはずもなく、うつぶせになった黒乃の背中に、全体重を載せたシューズの踵が振り下ろされた。


 ――電流が奔る。


 男の一人が手際よく黒乃の両手に手錠をかけ、そのまま首根っこを掴み上げた。多勢に無勢。成す術などなく、黒乃の体は男たちによってセダンの後部座席に放り込まれる。

 素早く全員が乗り込み、車はそのまま走り出す。運転は意外にも丁寧だが、リラックスできるはずもない。


 右隣に座った男が黒乃を鋭く睨みつけて言う。


「恨むなら、『組織(アセンブリー)』に手を出したお前の兄貴を恨むんだな」


 恐ろしく冷徹な声音だった。心の底から黒乃を殺したくて殺したくてたまらないと思っているような声。しかしその言葉の意味を黒乃は理解できなかった。考えようとしても先ほどの攻撃が効いているのか、頭に(もや)がかかったように思考が続かない。


 だが、黒乃は誘拐され、これからどこかへと連れていかれる。この事実だけははっきりとしている。おそらくはこの先、ただ殺されるよりも酷い地獄のような体験をすることになるのだろう。


「――――」


 意識が朦朧とする。間違いなく、この場から逃げることはできない。

 今はただ、いつか仲間が助けに来てくれることを信じて、精神を保つことしかできなかった。


「おい、歩道橋の上を見ろ」


 運転手の男が言った。どうやら黒乃に対して放った言葉ではないようで、助手席の男がその言葉に反応した。黒乃も、窓の外へ視線を投げる。


 ――そこには一人の女性がいた。


 遠く、表情は見えないが――風に舞う雪のような、白く長い髪が見える。


「エルネストの女――、か。クソ野郎のお見送りに相応しい」


 左隣の男は予備動作なく、怒りを込めて黒乃の腹を思い切り殴った。


 いつからかは分からないけれど、彼の意識は覚醒へと向かっていた。何秒前に意識が戻ったのか。あとどれくらいすればこの目蓋を開けることができるのか。すべてが曖昧だ。

 思考はまだ穏やかな波のように揺れ動いている。呼吸はゆったりと水面の上に浮かんでいる。

 しかし自分が『そうである』と自覚した途端、心が置いていかれた。


 ――真っ黒だった。


 目に映る景色のことを言うのなら、それは目蓋を閉じているから当たり前のことだ。けれど『それ』は景色のことではない。

 何も見えないという点では同じなのだが、目蓋を閉じて想いを馳せると、その性質はむしろ真逆なのではないかと思った。つまり黒ではなく白。


 人生を真白のキャンパスだとして――他人と触れ合い思い出を育み生きることで、鮮やかな色を足していくとする。人生豊かな人は多彩な色を持っているだろうし、たとえ人と関わることが少なく孤独に生きている人であったとしても、多少は『色』を持つはずだ。


 しかし、だとすれば、今の彼はどうしようもないほどに――純白で、白無垢だ。

 だから真っ黒なのではない。真逆だ。真白なのだ。


 ――何も、思い出せない。


 今ならば夢の中に戻れる気がした。開こうとしている目蓋を固く閉じ、光のない海の中へ飛び込むように意識を堕としていけば、きっといい夢を見られるはず。


 ――ああ、きっと、それがいい。


 そうして安楽死と見間違うような、安らかで穏やかな眠りに入ろうとした瞬間のこと。

 とても優しい風が吹いた。

 肌に当たる風はとても爽やかで、まるで大きな木の下で優しい木漏れ日に当たっているような気分だ。


 次にカーテンが揺れる音が聞こえた。窓が開いている。

 そこから入ってきた風がカーテンを揺らし、そして少しだけ、何かが風を遮った。思考は未だに揺れている。波のように。カーテンのように。

 だが、結論は最初から出ていた。


 ――彼の意識は覚醒へと向かっている。


 だったら目蓋を開ける理由はあれ、これ以上に閉じておく理由などないのだ。


「――――」


 差し込む光を眩しく思いながら彼は、目蓋を開けた。目の前に広がる世界は、白。白い天井、白いシーツ、白いカーテン、そして――白い髪の女の子。


 窓を閉めようとしていたのか、カーテンを端にまとめようとしている彼女がそこにいたのだ。


 白いワンピースを着たその姿に天使を思い浮かべ、綺麗だ、と彼は彼女に見惚れた。

 可愛らしいとかではなく、神々しく、どこまでも美しい。


 肌の色に合わせたような真白の髪。神秘的な輝きを放つ紫色の瞳。顔は計算し尽くされたように整っており、まるで人形のよう。

 そのような、およそこの世のものとは思えない容姿に、当然と視線を釘付けにされた。


 彼女はその切れ長の目を大きく瞬かせ、まるで涙をこらえているような笑みを浮かべる。笑っているのにどこか儚い、寂しさを帯びた表情。


「……起きたんだね、黒乃。待ってて。誰か呼んでくる」


 直後だ。部屋の扉が何度か不規則にノックされた。何かの合図だろうか。


「ッ――――」


 それに反応した彼女は何かに動揺したのか椅子に足を引っかけ、危うく転びそうになる。

 彼女は無事だったが、しかし椅子の上に置いていたカバンが落ちて中身が散らばった音が聞こえた。

 彼は荷物を拾うことを手伝おうと思ったが、しかし体が動かない。大丈夫かと訊こうと思ったが声が出ない。


 彼女は素早く床に散らばった荷物をカバンにしまい込むと、そのまま部屋を出ていこうとする。待ってくれ、と手を伸ばすが音のないその行動に彼女は気づかない。


「……ごめんね。さよなら」


 どうしようもないもどかしさを残し、あっけなく彼女はどこかへ行ってしまった。


 ――彼女が消えた空間。

 

 周囲を見回しここが病院の一室であることを理解する。途方もない喪失感に襲われ、彼はすべてを諦めるように再び目蓋を閉じた。


「――――」


 先ほどの出来事を何回も反芻する。それだけが自分の内にあるモノなのだ。あの白い髪、あの紫色の瞳、あの悲哀に満ちた笑顔。彼女は何を想い、何が目的で、この場に居たのだろう。


 そういえば――この病室の扉をノックをした人物は誰だ。


 彼女はそれに動揺してカバンを落とした。ノックした人物に心当たりはあったようだが、その行動は予想外だった。ということだろうか。


 重い体を何とか、時間をかけて動かして、ベッドの下を覗き込む。なんてことのない思い付きだ。彼女の手掛かりになるような何かが、落ちていることはないだろうか。


「――――っ」


 藁にもすがる思いで視界を広げると、ベッドの真下にそれらしきものを見つけた。それは名札。丁度、彼女から死角になるような位置に落ちていた。これでは気づかないのも無理はない。

 名札にはこう書かれている。


『喫茶店『B(ブラック)W(ホワイト)』従業員――アリサ』


 アリサ――それが彼女の名前。なんだろうか、この気持ちは。まるで鍵の掛かった扉に手を掛けているようなこの感覚は。


「君は――そして自分は、誰……なんだ……」


 ようやく取り戻した声で、彼は呟いたのだった。


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