『偶然か、必然か/Person against light』
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半日かけて行われたラーメン店巡りもいよいよ終盤。途中、ほどよく満腹になったので黒乃の服を揃えるために多少の寄り道などして、時間を潰し。そして再び地形情報の収集を名目に散策を再開。
眼前に構えるどこか時代に取り残されたような、古き良きを受け継いだ外観をしている小さなラーメン屋が、今日の締めだ。
時刻は日が暮れて四半刻が経過した頃合いだろうか。路地裏にひっそりと佇むこのお店は微かな温かさを放つ暖色の照明に、笑い声がこだまするような賑わいを見せていた。
「いらっしゃい! お好きな席へどうぞ!」
引き戸を開けると威勢のいい女の子の声が聞こえてきた。声の主は入って正面にあるカウンターの更に奥のキッチンに立っている、まだ中学生くらいの女の子だ。
「こんばんは。家のお手伝い?」
お冷を受け取った、黒乃は少女に訊く。その質問は黒乃の質問であるのと同時に、蓮の質問でもあった。店内を見回す限り、少女以外の従業員が一人もいない。蓮から見れば少女は家のお手伝いをしているというよりは、まるでたった一人で店を切り盛りしているようだ。
「やー、普段は両親もいるんですけどね。今日は風邪で寝込んじゃって」
それでも店は開けないといけないので、と少女は語る。どこかでこの子なりの信念を感じ取った二人は、それぞれ好みのラーメンを注文した。黒乃が醤油のチャーシュー麺で、蓮が豚骨のゆず塩ラーメンだ。
「……あの歳で一人で切り盛りするなんてすごいよね」
「おそらく常連の人にも支えられているんだろうな」
少女の手が空いていないときは、常連だと思われる親しげな老父が注文を取ったり、お冷を出したりしていた。客足は繁盛というほどではないが静かに盛り上がっている様子だ。
ふと、一人の男が来店した。外国人だ。
「――――」
蓮は危機感にも似た何かを感じ取り、その男に鋭い視線を送る。
男は金髪碧眼の白人で、身長はおそらくヴォイドと同じくらい。服装はライトグレーのスーツを見事に着こなし、オックスフォードシューズが人としての質をより高めているように見える。服の上からでも分かるほど体はがっちりと鍛え上げられていて、その表情はどこか紳士的で柔らかい。
とはいえ裏に何かを秘めている。ピアスや指輪はしていないが、ブランドものの時計を付けていた。
「――隣、よろしいかな?」
流暢な日本語だ。見た目や声の感じから予測して、年齢はおそらく三十代後半。
「ええ、もちろん」
そう言って男は、黒乃の隣に座った。男はメニューを眺め、どれも興味深そうに眺めている。
「注文いいかな?」
お冷を持ってきた少女に、男は優しい声音で声をかける。
「はい、大丈夫ですよ!」
「それじゃあ、これを頼むよ。ああ、これの持ち帰りもできるかな。丁度ユーと同じくらいの歳の友人がいるんだ。ユーのことを話したらきっと驚く」
「ならちょっとですがサービスしちゃいますよ! 貴方みたいなイケメンさん好きなので! その子にウチの宣伝もよろしくお願いします!」
イケメン――そう聞いて、蓮と黒乃は僅かに互いを見やり、互いに少し髪を整えたりした。
再び厨房へと戻っていく少女を尻目に、男は手首に付けた時計を外してポケットに入れた。スープが跳ねて汚れることを防ぐためか、それとも単に時計を外すことで時間を忘れるためか。
「――あのマスターは口が上手いな。あいつにも見習ってほしいものだ。しかし、いい雰囲気のお店だ。客がみな笑顔なのがとても良い。初めて訪れたがこれは期待できる。――ユーは、ここにはよく来るのかい?」
「いえ、僕も今日が初めてで。それにしても日本語が上手ですね」
「どうも。日本に来ることはあまり無いのだが、私はラーメンが好きでね。どれくらい好きかと言われればアメリカ人がハンバーガーを溺愛するのと同じくらいなのだが、ああ、もちろん私もハンバーガーは好きだぞ? だがそれとは別で、特にこの国のラーメンは上手い。だから必死に日本語を勉強したよ。スープの味を間違えてはたまらないからね」
なるほど、と黒乃は頷く。
「じゃあ、今は旅行か何かで?」
「仕事でね。ちょっとしたゴミ掃除の仕事をしている。ああ――いい靴だな。私と同じオックスフォードだ。やはりシューズは、ブローグよりオックスフォードだ。君とは気が合いそうだよ。服を合わせればもっと良い」
「はは、どうも」
男の視線は黒乃から蓮へと移る。蓮の履いている靴は、オックスフォードではなく、ブローグ。それを見て、男は困ったように少しだけ笑みを見せた。
「あー、はは。なに、紳士かぶれの戯言だと思ってくれて構わない。と、失礼、電話だ」
内ポケットから携帯を取り出した男はお手洗いへと向かっていった。この店には初めて来たと言っていたが、それにしては迷う様子もない。店に入ってすぐ、どこに何があるのかを把握したのだろうか。
「なんか、すごく話す人だったな」
「――黒乃、今の男には注意しろ。確証はないが、ただ者ではない」
「……ああ」
会話をしていた黒乃もあの男の放つ独特の雰囲気のようなものを感じ取っていたのか、蓮の言葉に驚くどころかあっさりと受け入れた。
二人はその後、ラーメンを食べながら適当に男と会話をして何事もなく店を出た。蛇に睨まれた蛙というか、台風に見舞われたというか。台風の目の中に入っているうちにそそくさと店を離れた黒乃と蓮は、道すがらにとりあえず一息ついた。
「……イメージ的にはあの人は殺し屋か何かだと思うんだよ。ゴミ掃除って言っていたし」
「どうかな。否定は出来ないが、本当の殺し屋ならあそこまであからさまだろうか」
それもそうだけどね、と黒乃。しかしプロは店に入る時は必ず遮蔽物や裏口の場所を確認する。アクション映画知識ではあるが、しかし今の黒乃にとっては妙に説得力のある描写と言える。
いずれにしても関わらなくていいのなら、無理に関わる必要はないだろう。
端末を確認すると地形データの収集は完了していた。すっかり日も暮れて、作戦開始まで二十四時間を切ろうとしている。明日の潜入任務の準備を整えるため、二人は帰路へとつくことにした。
夜――しかし相も変わらず東京の街は眠らず人で溢れている。変に気を消耗したのであまり込み合ったところは通りたくないと蓮が思っていたその時、不意に、背後からおかしな声が聞こえた。
「――――ヴぇ」
それは黒乃の声だったと思う。というか蓮のすぐ後ろを歩いていたのは黒乃だった。つまりは黒乃の声だ。財布を確認していたか何かで歩幅が落ちて、後ろをゆっくりと歩いていたのだ。
何事かと振り返るが、しかし――そこに黒乃の姿は無かった。
「黒乃……?」
周囲を見渡しながら素早く端末を取り出した蓮は、黒乃の姿を完全に見失ったことを確認し、彼の端末へと通信を送る。
どんな状況であれ、黒乃が画面に触れてさえくれれば通話状態になり周囲の様子が判断できる。
『――――』
繋がった。スピーカーからは布が擦れる音が激しいものの、テンポの速い足音が聞こえてきた。画面を追跡モードへと切り替え、黒乃の場所を調べる。
「路地裏、人通りの少ない道か」
黒乃を追って、蓮は駆け出した。端末が通話モードになったということは黒乃の意識はある。しかし抵抗せず声を発さないということは、何らかの拘束を受けたか刃物や拳銃で脅されている可能性が高い。
『――おい、早く出せ』
――声だ。渋い男の声。次にエンジンの音と扉が閉まる音。間違いない、車だ。
「チッ――」
この通話は切れない。ならば、と蓮はこの時代に来てから調達した折り畳みの携帯電話を使い、『月夜野館』で待機しているルドフレアに連絡を取る。
ワンコールもなく通話は繋がり、聞こえてくるのはいつも通りのハイテンションな声。
『ハロー!』
「フレア――黒乃が攫われた! GPS情報、捉えられるな! ナビゲートしてくれ! それとこの通話をそっちにも繋ぐ!」
まだ繋がったままの黒乃との通話を、端末を操作しルドフレアのもとへ。
『はいはーい、りょーかい!』
一分もせずすべての準備は完了した。蓮は折り畳みの携帯をポケットに、左手には通話の繋がった端末を。この状態であれば一種の盗聴器として使える。相手が何か情報を漏らしてくれればいいのだが。
『腐れ縁――とでも言うべきか? 三回目だな、剣崎黒乃。お前、随分と邪魔みたいだな。はは、この分じゃあお前が死ぬまでこいつは繰り返される。これがお前の運命、ってやつだな』
男の声だ。日本人――おそらく先ほどの外国人は関係ないだろう。だがそれが余計に蓮の考えを惑わせる。
(相手はいったい何者だ? ――黒乃の経歴は一通り調べてあるが、まさか訓練時代の……?)
いや――と、そこで蓮は、黒乃の経歴の一部に、財団の情報統制があったことを思い出す。
五年前、そして一年前――黒乃は何かに巻き込まれていた。だがその詳細は隠蔽されている。
(――とにかく、今は追うしかない!)
『……どんどん離れてるねー。そこを右に曲がって!』
言われた通りに曲がる。
「――ッ、ダメだ、人が多い! 別の道は⁉」
何かのイベントが開催してる最中なのか、この通りはやけに人が多い。これではまともに移動することはできないだろう。
『他は時間が掛かりすぎるよ! 逃げられる!』
すぐさま立ち止まり、別の手段を探す。目に入ったのは薄汚れたビルの裏手に取り付けられた非常用の階段。
「――――ッ!」
再び駆けだす。ルドフレアのナビによると車両は渋滞に引っかかったようで、しばらく止まっているようだった。好都合だ。
『ちょっと蓮! なんで同じ場所をグルグル回ってるのさ!』
上空からの2D表示ではそう見えるかも知れないが、しかし事実は少し違う。
「非常階段を登っているんだ!」
階段を登り終え、そこから壁やパイプを伝って、屋上に登り詰め――目標の車両向けて、ビルからビルへと走って渡り、障害物のない道を全速力で駆け抜けていく。これならルドフレアのナビ通りに道を進むことができる。
『車両が動き始めたよ! えっと――そこから左に百メートル進んで!』
「左だと!」
『そうだよ! 早く左方向に行くんだ!』
左方向にビルは続いていない。このまま進もうものなら、ビルの下に落ちるだけだ。
「チッ――――全く!」
蓮は覚悟を決め、屋上に設置された手摺を減速無しで超え、落下した。その際、手摺にはベルトの金具を取り付けていた。金具の先にはベルトに仕込まれたワイヤーが伸びており、これである程度の衝撃はカバーできる。
「きゃあ――⁉」
「なんだ⁉」
落下した先から悲鳴がこだまする。幸いにも落ちた先にはテントが張ってあり、それが落下の衝撃を和らげてくれた。
もちろんテントの下には雑貨のようなものが散らばったが、そんなことを気にしている場合ではない。
ワイヤーの巻取りが終わり、タイムロス無しで蓮は再び走り出す。
この通りの人波は先ほどに比べると落ち着いていた。順調に、追いつける可能性が見えてくる。
『えっとねーちょっと待ってー、そのまま直線で……』
『――チッ、また引っかかっちまった』
「渋滞か、助かる!」
――走る。勢いよく腕を振って、全身を機械のように正確に、無駄なく、自身の出せる最大の速度で追跡する。胃の中で今日一日分のモノがシェイクされているのがはっきりと分かるが、それは気持ちで耐えるしかない。
頬を流れる汗を風の中に捨てる。
「次はどこだ、フレア!」
『左の路地に入って! それで追いつけるかも!』
かも、ということは蓮の努力次第というわけだ。異臭のするゴミ箱、乱雑に置かれたガラス瓶などを超え、なおも全力で走り続けた蓮は、勢いよく路地のその先へと飛び出した。
「――――ッ」
――鈍い音がこの通り道全体に響き渡った。
視界が反転し、右腕から肩にかけて恐ろしく大きな痛みが走る。いや痛みは全身に万遍なく走った。ただ右腕が真っ先にその衝撃を受け止めたのだ。
そう――蓮は黒乃を拉致した車によって撥ねられたのだ。
「ッ、おいどこのどいつだ、クソッたれ!」
男は、車内からは一向に見当たらない撥ねた相手を探しに出てくる。当然だ。幸か不幸かここは通行人のいない通りではあるが、このまま撥ねた人間を放置していれば警察が動き、やがては追われることになる。それなら死体も黒乃と同じように誘拐してしまうべきだと考えるはずだ。
――それを待っていた。
蓮は撥ねられただけではない。正確には撥ねられ、車体に飛びついていたのだ。
「ふッ――!」
出てきた男に背後から一撃食らわせ、続けて足を折る。異変に気付いた車内の男らは蓮の存在に疑問を抱くより先に、警棒で武装して出てきた。しかし車内にはもう一人、いる。
「ッ、――蓮!」
車から転げ落ちるように、それでも男の一人を後ろから打撃を与えて出てきた黒乃。両腕は手錠によって拘束されていた。街頭の灯りで僅かに見たが、簡単に壊せるような代物ではない。
となると、次の選択は。
「黒乃! 逃げるぞ!」
「ああ――悪い、助かった!」
無我夢中で駆け出した黒乃と蓮ではあるが、相手が素人でないことは分かっていた。黒乃が手錠で拘束されている以上、ここまで詰めた距離を再び引き離すことは不可能だ。
だからこそ。
『この先に工事現場があるよ!』
絶対に邪魔の入らない場所で全員を再起不能にする。それしか方法はない。
ルドフレアの指示に従ってそこへ転がり込んだ二人は、ここで相手を迎え撃つことに決めた。工場現場よりも警察署が近くにあることを期待してみたが、そうはいかない。
周囲には大柄の男が数人。全員迷彩柄の服に目だし帽を被り、その手には各一人ずつ警棒が握られていた。使う様子がないことから魔術師でないことは確かだ。
「……魔術でどうにかならない?」
黒乃が小声で訪ねてくる。
「奴らは訓練されているが、『一般人』だ。できない。というかそもそも俺は、一定の条件がないと魔術を使えない……」
「ええ⁉ そういうことは先に言えよ! ぴ、ピンチが過ぎるでしょ……!」
ここにきての蓮のカミングアウトに黒乃は驚愕する。その声が震えていた。しかしその表情は恐怖に怯えているというよりは、この絶体絶命のピンチをどう乗り切るか、いや乗り切って見せようと不敵に笑っているようにも見える。
「――――やれ」
男の一人が指示を出した。それを皮切りに周囲を囲む男らが警棒を振りかざす。
蓮は最初の一撃を難なく躱す。そして間を置かずに繰り出された二人目の攻撃も何とか受け止める。しかし三人目の攻撃は避けることも受け止めることもできなかったので、体を捻り、受け止めている二人目の男の勢いを流すことで、何とか防御する。
あとはそれの繰り返しだ。一方で黒乃も敵と対峙していた。当然、余裕などあるわけない。
むしろ両手を封じられた状態で、すぐに制圧されないだけ健闘していると言える。
「くッ――」
おそらくルドフレアがセラたちに連絡をしているはず。そこまで耐えれば――と考えはじめたところで、蓮はそれを否定する。相手はプロで複数人。いかに自分や黒乃が鍛えていようと多勢に無勢。時間を稼ぐこともできないだろう。ジリ貧だ。
(このままでは……!)
――次の瞬間。
「がッ……ッ、く……!」
警棒で首を絞められ身動きが封じられた。腹に一発、二発と拳を入れられる。胃液が逆流し嘔吐する寸前のところで、それを察したのか男は拘束を解いた。
「……おい、こっちは終わったぞ」
見ると、黒乃は頭を地面に押さえつけられて動けなくなっている。こうなったら一度降伏して時間を稼ぎ、救援を――と、とにかく次の手を蓮が考え始めた束の間だった。
暗闇の中に――男が、いた。
「多勢に無勢か。なってないな」
聞き覚えのある声。月明かりに照らされるその姿は、ラーメン屋で出会った外国人だった。
埃っぽい工場現場に颯爽と現れ、ライトグレーのスーツに、丁寧に磨かれたオックスフォードシューズを履き、オールバックで整えられた金髪。その様は、まさしく英国紳士のようだった。
「邪魔すんなよ外人さん。それともあんたも怪我、したいかあ?」
「――邪魔、か。その人数差で男一人の邪魔を入れるほど、ユーたちの腕はなってないんだな」
男は煽る。その風貌に違和感を覚えるほど流暢な日本語で、明確に敵意を向けている。
「ラーメンが美味い国だから、あまりこういった感情は持ちたくないのだがね。しかしこのような面があるのもやはり国家、か」
「……メンだけに?」
場が凍った。言ったのは黒乃だ。黒乃は後悔していないと言わんばかりに真っすぐスーツの男を見つめた。
刹那、スーツの男は近くに居た男の顔面をノーモーションで殴った。攻撃はそれだけでは終わらず、男が殴られた顔の無事を確かめるように両手を挙げたところで、がら空きになった腹を一発殴り、足首に蹴りを入れる。
僅か一秒ほどで一人ノックダウンさせた彼は、続いて二人目もあっさりと倒してしまい、それに気を取られた三人目、四人目は黒乃と蓮で気絶させた。
「二人ともいい腕だ。それにユーは冗談のセンスもある」
男の衣服を漁り、手錠のカギを手に入れた彼はそれを黒乃に向けて放り投げた。
「では、私はこれで失礼するよ」
「待て、お前は――いや、貴方は何者だ」
黒乃が手錠を解いている間、去ろうとする彼を蓮は引き留めた。
「私はJB」
「JB?」
「――ジェームズ・ボンド」
「……は?」
蓮は明らかに偽名を名乗る男に、反射的に声を上げた。
「ならば、ジェイソン・ボーン」
「……」
「あー、だったら、ジャック・バウアーは?」
「ふざけてるのか?」
「はー……ユーはノリが悪いな。――ジェイルズ・ブラッド。それが私の名前だ。では、これで失礼するよ。シーユー、レイターアリゲーター」
ジェイルズ・ブラッドと名乗った男は、呆気に取られる蓮をよそに、鼻歌交じりにその場を去っていった。
しばらく黒乃と蓮は言葉を失っていたが、ルドフレアからの連絡でキャラバンがこちらへ向かっていることを知り、合流場所へと体を引きずっていった。
今日一日摂取したものがほどよくシェイクされ、気分は最悪だ。