『過去からの鎖/Enigmatic Feeling』
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翌日の午前六時。起床した黒乃は朝日を浴びるためにカーテンを開けた。そこから見える景色はまさに絶景の一言。昨日は既に遅い時間だったので気づかなかったが、なんとこの館は海岸線に沿うように建てられていたのだ。
つまり、見えているのは一面の海。朝から清々しい気持ちになった黒乃は軽く汗を掻く程度に体を動かし、大浴場へと向かった。
実は入院していた時から察していたことだが、黒乃の体はかなり鍛えられている。いわゆる細マッチョを目指したのか、全体的にスリムに抑えられているが、腹筋は割れてるし腕はムキムキだしで我ながら頼もしく思える。
蓮の動きに反応できたのもこの体があってこそだろうし、以前はジムに通っていたのだろうか、と考察する。しかし黒乃の唯一の所持品である財布には、特に会員カードなどは無かった。
入っていたのは少々の小銭と一万円札。免許証と無数のポイントカードくらいで、他にめぼしいものはどこかの家の鍵だけだ。
大浴場に入るとオレンジ色のカウンターチェアに衣服が置かれていた。先客だ。中に入ると、広い湯船にオレンジ色の髪が見えた。ヴォイドだ。
「――おや、黒乃君か。朝風呂とは気が合うな」
「どうも」
ささっと体を洗い終えて黒乃も湯船に浸かる。
ふとヴォイドが垂れた前髪をかき上げながら言った。水音が広い浴場に響く。
「やはり体は覚えているんだな。昨夜、君の動きを見た時に確信したよ」
「……あの、教えてくれませんか? 以前の、僕のことを」
水音が響く。ヴォイドはしばらくしてから、その話を始めた。
「……君は小学校四年生から高校へ進学するまでの間に、いくつかの場所を転々として特殊な訓練を積んでいたらしい。家のコネや使えるものは何でも使って、様々な格闘術や生きるための術を覚えたと君は言っていたよ。実際、その実力はかなりのモノだった」
「特殊な……訓練……どうりで」
それにしても家のコネ、か。自分を疎んでいた家の名前まで利用するなんて、よほどの理由がない限りできることではないだろう。
「君とオレが初めて会ったのは、君が高校一年生の時だった。些細な誤解から模擬戦をすることになったんだがその時のことはよく覚えているよ。なにせ、昔の自分を見ているようだったからな。君と同じく、オレも小さい時から戦う術を身に着けてきた。……いや、一緒にするのは失礼かな」
自分の力は誰かを傷つけるためのものであり、君の力は誰かを守るためのものであると、ヴォイドは天井を見上げながら呟いた。
ヴォイドの体は黒乃以上に鍛え抜かれている。それに傷も多い。切り傷や火傷の痕、それは彼の言葉通り誰かを傷つけたがために負った咎なのだろうか。それとも黒乃との『覚悟の差』なのだろうか。
「でも、どうして僕はそこまで……」
「さあな、君は昔のことをあまり話したがらなかった。しかし裏を返せばそれは君の家が関係しているからだろう。オレから見た君は随分と過去を気にしているようだった」
過去。それは失くしてしまった剣崎黒乃の人生。そっと目蓋を閉じると、暗闇の中に白髪紫眼の彼女――アリサの姿が浮かんだ。
「僕とアリサは……友達だったんですか?」
「ああ。とても仲が良かった」
「その、こんなことを訊くのもどうかと思うんですけど。恋愛的な方は……?」
「あったよ。ま、妹の恋路に関してオレが口を出すことはない。オレの知らないところで君とアリサが何をしていたかどうかなんて、知る由もないさ」
「――うっ」
何かが喉奥に詰まった気がして、黒乃は思わず咽てしまう。その様子を見たヴォイドは歯を見せて意外に豪快に笑った。やられたと思った黒乃は半目で抗議の視線を送るのだが、彼は再びそのエメラルド色の瞳を天井に向けて言った。
「だが……こんなことを言うのもどうかと思うが、まあおあいこだ。君とアリサの仲は、少し複雑なものだったとオレは思っている。君は幼少期に実家から疎まれ、アリサも幼少期から両親がいなかった。二人とも愛に飢えていたのさ。だから……うまく言えないが、共依存的――だったかもしれない」
ヴォイドの目はどこかを見ていた。天井ではなくもっとずっと遠くの、何かを。
「余計なことを言ったな。忘れてくれ」
「いえ昔の話が聞けて良かったです」
「……そうか。オレはもう出るよ。あと三十分もすれば女湯になるから鉢合わせないようにな」
「気を付けます」
笑って返事をした黒乃は、あと三十分待機するという選択肢を浮かべる。
……いやいや、それはさすがに駄目だろう。卑怯だし男らしくないし。
冗談として水に――いやお湯に流し、ヴォイドのあとを追うように立ち上がった。
「――ん?」
不意に、何かの違和感を覚えた。原因は背中だ。空気に触れた肌がどうにもムズムズする。昨日は無かった感覚だ。昨日と今日の違いは、強いて言うなら運動をしたあとに汗を流しているという点だが。
「もしかして昨日どこかにぶつけたか……?」
治りかけの傷などが、血行が良くなったことをきっかけに痒くなるなんてこともある。
他の可能性も考えたがそれしか浮かばなかった。黒乃はどうしてもそれが気になったので近くの鏡で背中を確認する。
すると――そこには左下から右上にかけて斬り上げられたような古い傷跡が在った。
★
午前十時。全員集まっての朝食を終えてから二時間が経過した頃。黒乃はふらりとリビングにやってきた。
キッチンにいたスズカに片手を上げて挨拶をし、それに合わせてスズカも手を止めて返事をする。
「やあ、スズカ。ん、蓮も一緒か」
「おう」
椅子に座って新聞を読んでいる。まるで休日のお父さんじみた姿だ。最もその恰好は昨日のクールなブラックスーツ姿ではなく、これから東京の街に繰り出すためのパンクファッションだった。
「何か御用ですか、黒乃くん?」
「いやあ、なんだかいい匂いがしたから釣られてきちゃった。お邪魔しちゃったかな?」
黒乃はそう言ってリビングを出ていこうとする。昨夜、蓮の妹である澪からは『兄貴がスズカを大切にしている。だからちょっかい出すな』と忠告をされたこともある。
変に二人の邪魔するのも本意じゃないのだが。
「そんなことはない。丁度スズカがクッキーを焼いていたからご相伴に預かろうと思っただけだ。黒乃もどうだ?」
「なら、お言葉に甘えて少しだけ。丁度、ラーメン屋の件もあったし」
席に着いた黒乃は、向かいに座った蓮と談笑を始める。二人はこの後、『モノクローム』周辺の地形情報の入手を行いつつラーメン屋を巡る予定だ。今話しているのはその相談。どの店を回るか、どの時間を見計らっていくか、この計画には意外な緻密性が求められていた。
オーブンの過熱が終わるまで、あと四分。
「どうぞ。黒乃くん」
キッチンでの仕事を終えたスズカが、後片付けを終えて黒乃に紅茶を出した後、同じく席に着く。
「ありがとう。いい匂いだね」
スズカに向けられた表情は屈託のない笑顔。嫌味の無い無邪気なそれに、スズカは関心した。モテそうだな、と。
紅茶に口を付ける。
「――で麺の硬さがなんだって?」
「ああ、麺には店にもよるが柔らかいもの、普通のもの、硬いもののほかに、バリカタや針金、粉落としと呼ばれるものもあってだな――」
ふとスズカは、出会って間もない黒乃の印象について考えていた。これから共に過ごす仲間ということもあり、単純に興味があった。
やはり最初に思い付くのは気が利くところだろうか。さっきも蓮と一緒にいるところを見てすぐに部屋から出ていこうとしていた。
(……まあそれはいつも通り、澪ちゃんが何か脅しをかけたから、かもしれないですけど)
それでも昨夜はお茶を入れる時に手伝ってくれたし、常にフレンドリーなルドフレアはともかく、人付き合いが得意でないタイプのセラとも打ち解けた様子だった。
黒乃がアリサ一筋で彼女を守るために身を挺するその姿も、やはり好感が持てる。
次は爽やかさだろうか。凛々しく整った顔なのに『僕』という一人称で、少し伸びた髪が風に靡いたような髪型。そんな見た目も相まって見事な好青年だと、素直に思う。
オーブンの過熱が終わるまで、あと二分。
「なるほど。ラーメンも奥が深いなぁ。にしても蓮がここまで詳しいなんて思わなかった。もしかして妹さんもラーメン好きだったり?」
「いやあいつはカップ麺派だ」
「あ……その溝は深いね……。スズカは?」
「私も好きですよ。何せ今の私が目覚めて初めて食べたものがラーメンだったんです」
「……ん?」
耳を疑ったような反応だ。逡巡――けれどその言葉の意味を、黒乃は理解できない。
「もしかして、冗談で言ってたり……?」
随分と混乱している様子だった。
「いいえ、事実ですよ」
変に振り回すのも可哀想なので種明かしをするべきだろう。スズカがそう思ったところで、心配そうに蓮は視線を向ける。
「黒乃くんはもう仲間ですからね、知っておいてもらった方がいいと思うんです」
「……?」
「えっとですね、現在の私と過去の私は違うんですよ」
具体的にどう違うのかと言えば、分岐点は二〇一七年の十二月九日のこと。
遠静鈴華はその日、過去の自分からその一切を切り離されて、新しくこの世に生まれた。
まあ――つまるところはこういうことだ。
「――私も記憶喪失なんです」
オーブンの過熱が、終了した。