『準備/I can't sing well』
★
四半刻ほど経過し、現在の状況確認と今後の方針を共有するブリーフィングは終わった。黒乃は改めて、先ほど頭に入れた情報を整理する。
世界は『イノセント・エゴ』という原初の創造神によって創られた。
その神様は進化するために『起源選定』というシステムを構築し、エルネストという一族がそれを実行している。
そしてこのまま『起源選定』が終わってしまえばこの世界は神様から用済みだと見捨てられ、二〇二〇年にあっけなく滅んでしまうらしい。
そんな最悪の結末を回避するため。過去を改変し、未来を取り戻すため――蓮たちは未来からやってきた。
とまあ噛み砕くとこんなものだ。
「大体理解できたか?」
隣を歩く蓮が聞いてきたので、ぼちぼちと返す。まだいろいろと不明な部分はあるが、しかしかといって蓮たちが情報を出し渋っているというわけでもない。とにかくまだ、情報が足りないのだ。
とりあえず今は最低限の基礎を覚えて、そして来るべき時にまた考えればいい。
ところで、何故ブリーフィングが終わった後に用意された自室に戻ることなく、蓮と館の通路を歩いているのかと言えば。実は、蓮の案内で図書館へと向かうことになったのだ。
理由は秘密とのこと。
ならばと特に話すことなく無言で歩く二人。別に気まずさなどはないが、しかしこの広い館内の一階と二階を往復するのは気持ち的にきついものがある。以前に体力がつきそうだと思ったが、しかし今は別のことが気がかりだった。
――ぐー。黒乃のお腹が鳴った。
「……やー、病院の食事ってやけに簡素だよな」
そう、ただ歩くだけとはいえ今日は緊張状態になることも多く、なんなら少しではあるが格闘戦もした。病院で出てくる食事ではエネルギーが足りなくなるというものだ。
「何の言い訳だ。……すまないがこれで我慢してくれ」
蓮はポケットからカロリーメイトを取り出し、それをぽいと投げた。一般的なココア味。
「おー、まさに神の恵み! ホントにいいの? あとでお金取られたりしない?」
「取るはずないだろ……だが、そうだな。黒乃、明日少し付き合え」
「何かするの?」
黒乃はカロリーメイトを口に放り込みながら、蓮に尋ねる。明日の予定は、例のキャラバンで東京を、特に『モノクローム』の周辺を重点的に走り回り、地形データを入手すること。それと『モノクローム』の下見だ。
後者は少人数の方が動きやすいとのことでヴォイドの担当。そして前者は――、
「地形データのマッピングはキャラバンで大まかに行うが、さらに俺たちが細かいところを埋めていくことになる。この端末を持ってな」
蓮は内ポケットから例の黒い板のような物を取り出した。
「出た、謎の機械」
「端末を持って歩くことで周囲のデータを収集できる。データを取って置けばいざという時のルート割り出しも苦労しないしな。つまり明日の昼間は東京の観光をすることになる。俺は明日、ラーメン屋を巡ろうと思ってな」
「ラーメンか。今はこってり系が食べたいなぁ……。ラーメン好きなんだ?」
そういえば蓮のスーツの内ポケットには、ラーメン屋のクーポン券が入っていた。
「人の受け売りではあるんだが、今では俺のソウルフードというやつだ。と、その話はまたあとでいい。着いたぞ」
蓮が扉を開ける。中に入ると、そこはかなり広くてリビングの数倍の大きさはある図書館だ。いくつもの本棚が規則的に並べてあって、整頓され尽くしたその光景は逆に不安を覚える。なんというか触れてはいけない神聖な場所のような……。
蓮は迷うことなく手前から九番目の本棚へと向かい、中心の段の左から十二番目に置かれた緑色の背表紙の本を奥に押し込んだ。
がこんと床下で何かが作動した音が聞こえ、本棚が奥へと移動していく。本棚があった場所には地下へと続く階段が現れた。
「お、男のロマンだ……!」
「行くぞ。下は研究施設になっている。半ばここに住み着いてるフレアがいるから、用があるときはここに来るといい。ああ、お土産があるとあいつが良い物をくれるぞ」
「へー。ちなみに今回のお土産は?」
良い物、というワードが気になったのと、もしかしたらすぐに拝めるかもと期待を込めたのだが返ってきた答えはあまりにも無常だった。
「お前の腹の中だ」
「……それは残念」
黒乃は自分の空腹を満たしたカロリーメイトに感謝しつつ、明日はルドフレアにお土産を買おうと決心したのだった。
ちなみにお金の心配はない。黒乃の財布には一万円札が一枚だけ入っていたのだ。さすがに貯金はあるだろうし、景気よく使っても大丈夫だろう。
図書館の照明が届かなくなってきた頃、前方から白い光が流れ込んでくる。
「……おぉー、ザ・ラボラトリー……ロマンの塊だねえ」
広がった景色を眺め、黒乃はそう言った。白い床、白い壁、白い窓枠のガラス、白い棚、白い机、薬品や見知らぬ器具、隔離実験場、山積みになっている資料。
一見散らかっているようですべてが定位置だと言わんばかりに置かれたそれらを見て、つい感嘆の息が漏れる。
「おや。キミとは気が合うようだ、クーロノ!」
どこからともなく声が聞こえてきた。明るく活発的なこの声はルドフレアだ。黒乃が周囲を見渡すと、部屋の角に設置されたパーテーションから鮮やかな赤い髪がひょいと出てきた。
ご機嫌な足取りで姿を見せたフレアは、黒乃に向かってお辞儀をする。
「我がラボへ、ようこそー! お目当てのモノは調整済みだよ!」
そう言ってルドフレアは机の上を指差した。見ると蓮が持っていた黒い端末が置いてある。繋げられたコードを引っこ抜き、ルドフレアは満面の笑みでそれを黒乃に差し出す。
「え、これ僕に?」
「ああ、お前に持たせるのがいいと判断した。予備はないから失くすなよ」
蓮が得意げに笑みを漏らす。ルドフレアも盛り上げるようにいえーいと左手をぶんぶん振り回している。端末を受け取ると、指が触れた画面が発光した。すごい。
「この時代ではまだそれほど浸透していないが、スマートフォンと言われるものをフレアが改造したものだ。特殊回線を使ったインターネットへの接続や、通話、メッセージ送受信の暗号化、緊急時にGPS情報を俺たちに送る『エマージェンシーコール機能』も搭載されている。望遠機能に地形情報、入れられる機能はすべて詰め込んである」
「ちゃんと防水で、海水とか熱湯もオッケーだよ!」
「すっげー……」
黒乃は驚きすぎて、逆に大きなリアクションが取れなかった。明らかにオーバーテクノロジー、SF映画やスパイ映画に出てきそうだ。
「具体的な使い方は中に説明書のデータが入っている。あとで自分の指紋、声紋、網膜、パスワードを設定しておけ。それで完全に黒乃専用になる」
「僕専用って、返さなくていいの?」
「ああ。だが売買や技術を流通させるのはダメだ。いいな?」
二度頷いた。
「それとこれもプレゼントしよう」
蓮は机の横に置かれていた乳白色のトランクを手に取り、それを開けて黒乃に見せた。中身はブラックスーツだ。丁寧に折り畳まれて収納されたそれを優しく手に取る。
クッションになるよう空気を多めに入れた袋に包まれたスーツ。他にはワイシャツとネクタイ、それに手入れ用のブラシなども入っているようだった。
「本来ならオーダーメイドだが、サイズは間違ってないはずだ。潜入にはそれを使ってもらう。試着を済ませておけよ」
「ああ、ありがとう!」
おかげで気が引き締まった。
「それもモチ、特別製だよ! 防水、防火、防弾、耐久性も文字通り格が違うんだー。ま、手入れをちゃんと怠らなければ、だけどねー」
「スーツは現代の鎧だ。靴も用意してある」
黒乃がスーツに見惚れている間、蓮は艶のある黒いオックスフォードシューズを用意していた。
だがしかし、そこで一つ引っかかった。
「なんで僕のスーツや靴のサイズ知ってるわけ?」
蓮はきょとんとした表情を見せ、横にいるルドフレアに顔を向けた。対するルドフレアは満面の笑みを崩すことなくこう言った。
「――企業秘密♡」
その笑顔がなんだか深夜の鏡に映ったピエロの顔のように思え、それ以上深く考えないことにした。
「さて、これで用事は終わりだ。部屋に戻って構わないぞ。明日に備えてゆっくり休むといい――お疲れ、黒乃」
「お疲れ様ー」
「――ああ。ありがと」
端末をポケットに入れ、スーツとシューズの入ったケースを手に、黒乃は軽く頭を下げた。
「礼ならもう聞いた」
「言いたい気分なんだ。……それじゃあ部屋に戻るよ。おやすみ」
「おやすみー!」
研究室、そして図書館を出て、そのまま螺旋階段を上がる。その足取りは緊張の糸が切れたようにゆったりとしている。そこそこいい時間だ。疲れもある。早く部屋に戻って横になりたかった。
ふと、のんびりと階段を上りきった先に、人影が見えた。白い髪――アリサだ。黒乃は緩みかけてた意識を叩き起こし、小走りで彼女に近づく。
「――アリサ!」
どこか悲しそうな小さい背中――アリサは黒乃を一瞥し、そのまま歩みを進める。
「待ってくれ! さっき聞きそびれたことがあるんだ。君が変わってしまった理由を――思い出の中の君はもっと明るくて元気だった。でも今の君は違う、何があったのさ?」
矢継ぎ早に伝えた言葉に、アリサは間を置いて返事をした。
「……別に、変わってなんかない」
「とてもそうは見えないよ」
そこで、アリサは急に立ち止まった。
「…………」
彼女は静かに振り返り、黒乃の目を見つめる。その目の色は紫色。しかし、やはり以前のアリサとは別人のようだ。泣きそうな目ではなく、既に涙を枯らした目。
「ぁ――その……」
黒乃はそれ以上の言葉を発することができなかった。頭の中が真っ白になり、どの言葉も彼女にかける言葉として不適切のように思えた。
何も、言えなかった。
「……記憶、ないんでしょ。そうやって取り繕っても結局は偽物。だから分かったようなこと言わないで」
何かが突き刺さったように全身の血が引いていくのが分かる。アリサはそれ以上何も言わず、部屋へと戻っていった。黒乃も、数秒して歩き出す。
――そうやって取り繕っても結局は偽物。その言葉は的を射ているかもしれない。黒乃の今の人格、キャラ、被っている仮面は所詮、彼女の携帯に保存されていた動画から拾い集めたものだ。
今の黒乃は過去の黒乃を演じているだけに過ぎない。その事実は揺るがない。
だが、彼女がその事実をこうも突きつけてくるというのは、正直予想外だった。
(――何が彼女をあそこまで変えたんだ)
人をあれだけ変えてしまうということは、よほど大きな出来事があったのだろうか。
アリサは命を狙われた。黒乃は良くも悪くもその記憶を持っていないから事実として受け止めているが、アリサはそうじゃないのかもしれない。死を直感したストレスから、とか。
(だとすれば僕はどうしてあげれば――)
ポケットの中で端末が震えた。何事かと慌てて画面を見てみると『ダウンロード中』の文字が表示されていた。ダウンロード、何かのデータだろうか。
「――自分の気持ちを機械的に表すことができれば、楽なのかな」
……いや、きっと虚しいだけだ。
★
その夢を見るのは、三年前からの日課だった。
――遠くで泣き声がする。
赤ん坊の声だ。
力強く生きようとする生命の叫びはどこまでも彼女の内側に響き渡り、いつまでも残り続ける。
残響。
周囲の景色は暗い。自分を見失うほどに。
幸せな夢を見ることもあった。
彼女は知らない町で、知らない人たちに囲まれて、その大きなお腹を褒められ愛でられ、恥ずかしくなり思わず顔を伏せてしまうほど他人に優しくされるという夢。
周囲の景色は明るい。眩いほどに。
――それは叶うことのない、まごうことなき夢。
結局その夢も階段を踏み外すように、堕ちていった。
次にその夢を見た時――誰と会話をしていても、どこを歩いていても、町中に響き渡る鐘の音のように延々と泣き声が響き渡っていた。赤子の泣き声。
彼女が、聴くことのできなかった――産声を。
ステージの照明が落ちる。水面へと落下する。カードが反転する。
――雨の音。
ぼんやりとする視界に映るのはカーテンの隙間から差し込む日差しと、自分自身の細い腕。
どうやら寝ている間に、汗を拭おうとしたらしい。
改めて額の脂汗を拭い立ち上がりカーテンの隙間に手を入れて、昨日のうちに開けていた窓を閉めた。
雨の音だと思っていたのは波の音だったようだ。
彼女は机に置きっぱなしだった飲料水と薬を胃に流し込んだ。
ふと――今飲んだ飲料水が冷たかったのか、それとも温かったのか。それを目覚めきっていない頭で考えようとしたが、結局どうでも良くなって再びベッドに潜り込んだ。