『日常/transfusion』
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夜代蓮の手引きで病院を脱出した剣崎黒乃は、案内されるままに近くの路地裏に入った。
そこには一度に十人は乗れそうな黒塗りのキャラバンが停車しており、長身にオレンジ髪が目立つ男――ヴォイド・ヴィレ・エルネストが車体に背を預けて寄りかかっていた。
「……随分とスーツが汚れているようだが、何かあったか?」
ヴォイドは、蓮の着ているスーツが泥まみれになっているのを見て、不思議そうに訊いた。
「……」
黒乃は申し訳なさそうに、先ほど返したスーツを一瞥してから目線を泳がせる。
それはほんの数分前、病院から脱出する際に黒乃が土塗れにしたからなのだが。
「気にするな」
蓮がわざわざ説明することはなかった。それが気を使ってくれたからか、単に説明が面倒だったかは分からない。
「俺はこのまま運転席に。そのまま高速に向かい、オートドライブが可能になったら戻る。貴方は黒乃を案内してやってくれ。東京まではおよそ二時間、一時間後に黒乃を含め、改めてブリーフィングを行う」
「了解。行くぞ、黒乃君」
「え……あ、はい」
案内、という言葉にちょっとした疑問を覚えた黒乃だったが、それ以上気にする間もなくヴォイドの後ろについていく。向かう先は目前の運転席側。ではなく、わざわざ反対の助手席側の後部座席。
何か特殊な理由があるのだろうか。
「さ、入ってくれ」
ヴォイドが開けた扉から、車内を見る。
「――んんっ⁉」
どういうことかと軽くパニックを起こし、キャラバンの車体に目を向け、もう一度車内を見回した。
なんだ、この光景は。
――車内には空間が広がっていた。
いや車の構造上、後部座席に空間が広がっているのは当たり前なのだが、問題は規模だ。明らかに十人乗りのキャラバンに納まるような大きさじゃない。
「な、なんじゃこりゃ……」
そこには、まるで貴族でも住んでいそうな――豪華絢爛な館のエントランスが広がっていた。
ここからでは全体の詳細な面積は測れないものの、床には道を示すために十字の形でレッドカーペットが敷かれており、正面は吹き抜けになっていて二階へ繋がる螺旋階段が見えた。
それだけでも充分に広いことが窺える。暖色の明かりが落ち着いた雰囲気を醸し出す――いかにもな館だ。
「何を戸惑う必要がある。行くぞ」
まるで子供のように手を引かれ、黒乃はキャラバンの内側に広がっている館へと足を踏み入れた。黒乃の履いたサンダルとヴォイドの履くブーツが、フローリングの床を鳴らす。
(……果たして僕は、こんな格好でここにいていいのだろうか。でも、だけど……)
あまりにも場違いだと思う。けれど、しかと踏みしめた床がこの場所にいる黒乃の存在を証明する。
病院の外へ、箱庭の外へ――自由を求めて羽撃いたことで手に入れたこの光景は、決して幻などではない。
その事実は黒乃に大きな喜びを与えた。
「――――」
その場で一回りして周囲を見渡す。二メートル弱はある大きな古時計、観葉植物、絵画、天井にシャンデリア。どれもこれもが映画の中から出てきたような幻想的な雰囲気を纏っている。
「すごい……まるで魔法だ」
感嘆の声が漏れる。
「魔法ではない。魔術だ。もっとも、空間を繋げるなんて高度な芸当ができる者は世界でも数人しか存在しないがな」
超常の力であることは否定しないんだな、と黒乃は心の中で呟いた。
「あのヴォイドさん、ここはどこなんですか?」
「ここは『月夜野館』。魔術の世界ではその名前を知らない者はいないとされるほど偉大な人物――『久遠遥』が所有している物件の一つだ。許可を得て、オレたちはここを借りている。先ほどのキャラバンの左側扉がこの月夜野館の入り口と繋がっているんだよ。ちなみにカモフラージュのために、右側からはちゃんと車内に入れるぞ」
「だからわざわざ左側に……。ってことは、この仕組みがさっき言っていた魔術っていうので?」
「そうだ。空間の歪曲技術が使われている。我々はこの『走る館』を拠点とし、各地へ移動するというわけだな」
空間の歪曲なんてものは理解の範疇を超えているので触れないでおくが、確かに車内で長時間を移動に割く代わりにこの大きな館で過ごせるというなら、それは確かに画期的だ。
螺旋階段を上り、二階へ向かう。階段を上り切ると、その正面に大きなテラスが見えた。夜なので照明の光が反射して外の景色を見ることはかなわないが、きっといい景色を眺められるのだろう。
右側の通路に進む。通路にはいくつか絵画が飾ってあったが、その中に一つだけ額縁ではなく画鋲で雑に留められた絵を見つけた。どこかの海岸の絵だ。
淡い水彩画で描かれており、右下の隅のほうに小さく『M・Y』と書かれている。
(それにしても、広い……)
これは館内を探索するだけで結構な体力が付きそうだ。
「ところで……あの、魔法と魔術って何か違いがあるんですか?」
長い廊下なだけあってまだ目的地まで時間が掛かるとふんだ黒乃は、先ほどの会話で気になった点を訊く。
ヴォイドは少しだけ、どう説明したものかと考えてから口を開いた。
「……魔術は人の領域。魔法は神の領域だ。どちらも現実を侵食する現象に変わりはないが、魔術はプロセスを踏むのに対し、魔法はそれを無視する」
あ、これ聞いても理解できないかも、と黒乃は口をへの字に曲げた。とはいえ訊いたのはこちらだ。一応最後まで聞いて精一杯理解に努めるのが義務だろう。気合いを入れてヴォイドの話に耳を傾ける。
「例えば目的地まで徒歩十分掛かる場所へ歩いていくとしよう。そうすると当然、到着には十分掛かるな? で、魔術はそれを短縮して五分で到着できる。対して魔法はワープでもして一瞬で到着できるというわけだ。魔術は一を二に増やし、魔法はゼロから一を創り出す」
既に存在しているものを増幅させるのが魔術。そして無から有を構築するのが魔法、ということか。
創作の話で例えるなら一次創作が魔法、二次創作が魔術――なるほど、要点は判った。
「――あれ、でもそれ、ワープはともかくとして。歩いて十分って部分は、例えば走って目的地に移動すれば、魔術を使わなくても魔術を使った時と同じ五分で到着できませんか?」
つまり努力次第で魔術を使った場合と同じ結果を獲得できるのではないか、という疑問なのだが、ヴォイドはあっさりとそれを肯定した。
「そうだ。だから魔術はあくまでも人の領域なんだよ。魔法は結果にそのまま手を伸ばせる。魔術はただ、結果に至る過程を操れるだけだ。だから前提が狂えば、魔術は簡単に崩壊する」
ヴォイドの説明は意外にもすんなり受け入れることができた。最初に言った『魔術は人の領域』、『魔法は神の領域』という言葉がすべてだ。
おそらく、魔術で行えることのすべては――たとえ今は不可能でもいずれは――科学や個人の努力で実行できるようになるのだろう。
しかしそうなると、疑問が一つ。
「……ってことはやっぱり、この館とキャラバンの仕組みは魔法なんじゃ?」
原理的には恐らく、車からこの館までワープしていることになるはずだ。
「確かに魔法に片足を突っ込んでいることは認めるよ。だが……あくまでも魔術だ、これは」
結局、今は詳しく説明しても理解できないと考えたのか、それ以上は教えてくれることはなかった。
確かに、未だ魔術なるものに実感を掴めていない黒乃からすればその判断は正しいだろう。
黒乃は改めてヴォイドの説明を反芻しながら歩みを進める。
「それにしても、まるでフィクションの世界ですね。魔法使いや魔術使いが実在するなんて」
「それは誤解だよ、黒乃君。魔法使いはもういない。魔法を使えるものはもう……この世には存在しないんだ」
再び簡単な説明がされると思った黒乃だが、その後に続く言葉はなかった。
眼前には通路の中間地点にある部屋の扉。どうやら目的地に到着したようだ。
大きな焦げ茶色の扉。先ほどの絵画の画鋲と同じように、やけに場の雰囲気に似合わないディスカウントショップで買ったようなプレートが張り付けられている。
書いてある文字は『リビング』。しかも油性ペンで随分雑に書かれている。
ヴォイドはそれを気にする素振りもなく扉を開けた。
すると通路を照らしていた暖色の明かりとは違う、冷たく青白い、月光のような光が目に入る。
「――――」
四十から五十畳近くはありそうな部屋だ。館内の一室というよりは何かの施設かドラマなどのセットに見える。一瞬、何かの錯覚かとも思ってしまったが、しかしまあこの館にしてこの広さありと言ったところだろう。
入ってすぐ正面には八人で囲めそうな大きなテーブルに五人分の椅子が並べられ、左側に進むと床が二段ほど下げられてソファー、大型テレビ、ダーツやビリヤードに使う台が置かれているのが見えた。娯楽施設も兼ねているのだろうか。
しかし高価な美術品のような館にしては、この一室は人情に溢れているというか、もっというと生活感が滲み出ている。
ソファーや椅子の背もたれにかけられたシャツやジーンズ、食べかけのお菓子の袋がテーブルに散らかっており、掃除機やらフロアワイパーやらの清掃用具まで散乱している。
驚嘆の声が出そうになるほど、見事にお洒落な部屋の雰囲気を台無しにしていた。
「――?」
テレビの手前にあるソファーの端から細く白い足が見えた。誰かが横になってテレビを観ているようだ。
他に誰かいないかと部屋を見渡すと、右側の奥のキッチンダイニングに眼鏡を掛けた女がいた。
女は黒髪を後頭部で纏めてポニーテールにした髪型で、サイズが一つか二つ上ほど大きなグレーのTシャツに、下はフェルト生地の白い短パンを履いている。極めてラフな格好だ。身長は黒乃の肩くらいだろう。
丁度洗浄が終わったところなのか、上の棚に食器を戻していた。両腕を挙げ少し背伸びをしているせいか、顎下の――二つの丘が強調されている。
「夢が大きいな……」
黒乃は腕を組みやけに真面目な顔をして呟いた。しかしそれも一瞬。莫迦な考えは頭の隅に追いやり、キッチンへ向かう。
「手伝おうか?」
いきなり声をかけると驚かせてしまうかもと心配したが、彼女は黒乃とヴォイドの存在に気付いていたのか、慌てることなく返事をした。
「いえ、大丈夫です。でも大きいと困っちゃいますよね」
「へ⁉」
「ほら、大きな食器って割らないようにと思って普通の食器より気を遣っちゃうので」
食器を入れ終わり棚の戸を閉めた。
「ああ……そっちね」
「そっち?」
「や、こっちの話」
「こっち?」
首を傾げる彼女に、なんでもない、と黒乃は話を誤魔化した。一通りキッチンの掃除を終えた彼女は、姿勢よく歩いて黒乃の目の前にやってきた。近くで見るとやはりその大きな胸――ではなく長い髪が強調される。
アリサも腰のあたりまで髪を伸ばしており、それでも充分長いと感じた黒乃だが、しかし彼女は髪を留めてその位置。髪留めを解けば、実際の長さはもっとだろう。
「――初めまして、私の名前は遠静鈴華と言います。気軽にスズカと呼んでください。貴方のお名前は?」
「分かったよ、スズカ。僕は剣崎黒乃、好きに呼んで。――ところで、随分長い髪だね。何かの願掛けとか?」
スズカは小さく頷いた。長い髪がその振動に揺られる。光の反射が鮮やかなところを見るに、きちんと丁寧に手入れされた髪であることが窺えた。
「まあそんなところです。――それで、こちらが」
スズカが案内するように手を向けた先には、いつの間にか背の高い女が立っていた。どうやら先ほどテレビを観ていたのは彼女のようだ。
黒乃より少し低いが女性としては充分高い身長に、肩にかかるくらいの青色がかった黒髪。右耳の少し上のあたりを三日月の形をしたヘアピンで留めており、それによって露出した部分が妙な艶めかしさを醸し出している。
服装は白いタンクトップに紫色の短パンといった具合で、スズカと同じ部屋着姿。全体的に細身だが、長身に健康的な肌の色、すらりと伸びる足がまるでモデルのような印象を抱く。
「確か兄貴の話じゃあ同行するのはアリサとヴォイドだけだって話だったけど、もしかして飛び入りってわけ?」
一応認められたとはいえ、ほとんど無理やりついてきたようなものだ。どう説明したものかと一瞬戸惑った黒乃だが、まあ飛び入りという表現に間違いはない。
「……まあ、そんなところ。剣崎黒乃――よろしく」
「ふーん。ま、いいや。アタシは夜代澪。澪でいいぜ」
「夜代……?」
妙に似合った男らしい口調にも驚いたが、それ以上に驚いたのが苗字だ。
「もしかして君、蓮の妹さん?」
「まーね。それで? いかにも病院から抜け出してきたって格好してるけど?」
「か、勘がいいね……」
つま先から頭までをじーっと見つめる視線に、黒乃がどこから説明したらいいのかと困っていると、ヴォイドが口を開く。
「詳しくは後だ。一時間後にブリーフィングをする。とりあえず今は彼を着替えさせたいんだが、生憎オレはサイズの合う着替えの用意がないんだ」
「なるほどね、兄貴の服が借りたいのか。背丈も同じくらいだしな。オッケー、んじゃアタシが案内するよ。どうせあんたもまだ『月夜野館』のこと、把握しきれてないだろ?」
「ああ、助かる。ではオレはここの掃除を済ませるとしよう。失礼を承知で言わせてもらうが昨日掃除したのにどうしてこんなに散らかっているのか不思議で仕方ない……」
そう言ってヴォイドはスーツの上着を脱いでから、部屋の奥の方へと向かった。
先ほどまでずっと黙っていたのは、この散らかった部屋を見て、何かしら思うところがあったのだろう。
「あ、私も手伝います、ヴォイドさん。ごめんなさい、何度言っても澪ちゃんやセラが片付けてくれなくて。折角昨日、片付けていただいたのに」
申し訳なさそうについていくスズカを尻目に、黒乃は茶化すように告げる。
「だってさ、澪ちゃん」
「ぶん殴るぞ。ほら、行くぜ」
どこか気まずそうに、澪はそそくさと外へ出た。黒乃もそのあとを追う。
「――――」
館の通路に出ると、不意に音を失ったような錯覚を感じた。いや、実際そうなのだろう。リビングにはテレビから流れてくる音や、話し声が響いていたが、扉一枚隔てたこの広い館の通路にかかれば、音など吸い込まれるようにどこかに消えていく。
その中で――澪の声ははっきりと届いた。
「一応説明しておくと、一階には客間、トレーニングルーム、シアタールーム、大浴場なんかの施設がある。で、二階はアタシらが生活している部屋。ヴォイドやアリサ、黒乃の部屋を入れても空室があるくらい広いから、迷わないようにな。あ、そこは書斎ね。下にも似たようなものがあるが、あっちは地下への入り口だ。はい、ここまでで質問は?」
今後ここで生活するのだとすれば、施設などは徐々に覚えられるだろう。ならとりあえず、主要な施設だけ覚えておけばいい。一階に大浴場。二階に自分らの部屋、そしてリビング。今のところはそれで充分だ。
「大丈夫」
と、返事をしたところで不意に思い出したことがあった。一つだけ、どうしても訊いておきたいこと。
「あ、待って。アリサの部屋ってどこかな。時間があったら少し話したいことがあってさ」
「あっち」
澪は通路の奥を指差す。
「あっち?」
「こっち」
今度は通路の反対側。もしや冗談を振られているのか、という疑問を覚えながら、素直に確認する。
「こっち?」
「――そっち」
次の指先は、澪の胸元を示していた。スズカのものと比べれば豊かとは言えないのだが、しかし協調するように胸を張られてはやはり視線が吸い寄せられる。
しかし何の意図があってこんなことを、と思ったところで澪からは少しトーンを落とし、かつ少し呆れるような声音が飛んでくる。
「先に言っておくけどさ、スズカにちょっかいは出すなよ。女からすれば、男の視線なんざ手に取るように分かるもんだぜ?」
どこか蠱惑的な表情を浮かべて、澪は白く細い人差し指を向ける。
どうやらスズカの胸の一件は筒抜けだったようだ。というか、澪はあの時テレビを見ていたはずだが後ろにも目がついているのだろうか。それともよほど勘が鋭いのか。
「い、いやあれは男なら不可抗力……って言いたいけど……ああ、分かったよ。あとで彼女にはお詫びをする」
じっと、黒乃の言葉の真偽を見極めるように視線が重なる。そして微かな明かりの中で澪と向き合って、黒乃は初めて『それ』に気が付いた。
――彼女の瞳は黒だ。しかし、僅かに青い光を帯びているように見える。
「……なら良し。ま、あとでアニメ談義にでも付き合ってあげな」
その瞳はまるで吸い込まれるような、深淵。存在そのものを見透かされているような、吸い込まれそうな眼だ。
「あ、アニメ?」
スズカの趣味だろうか。そういえば蓮もそんなことを口にしていた気がする。
「……それにしても、君は随分と彼女のことを大切にしてるんだね」
一度――何かを秘めるその瞳が閉じられる。そして澪はそっと背を向けて歩き始めた。
「兄貴だよ、スズカを大切にしてんのは。兄の恋路を応援するのは、妹として当然だろ?」
「……それは確かに、言えてる」
リビングへ向かう途中の通路、絵画が飾られた場所で黒乃は再び足を止めた。周りの絵がきちんと金縁の額に入れられているのに対し、この海岸を描いた『M・Y』なる人物の作品だけは、画鋲で雑に留められているのだ。
澪は黒乃の足音が聞こえなくなったからか、立ち止まって背後を確認する。
「どした?」
「や――この絵ってもしかして君の? 『M・Y』って……夜代澪、だろ?」
なんてことのない思い付きを黒乃は口にする。そして澪は片目を瞑って、うなじの辺りを掻いた。どうやら当たりのようだ。
「まあね。暇な時は絵を書いてんだよ。でもそんな大層なモンじゃない。だから書いた絵のほとんどは燃やすか紙飛行機にして飛ばすんだけど、それはどうしてもってセラが言ってな」
セラ――先ほどスズカも言っていた。澪と一緒になって部屋を散らかす人物だ。名前からして女、なのだろうが、黒乃の中ではガサツなタイプの澪と同じイメージが付いてしまった。
「あー、セラ、まだ知らないか。ま、そのうち会うよ。薄い緑色の髪で、目がオッドアイのヤツ。身長はアタシより低いけど、アタシよりも尖ってるヤツさ」
どうやらイメージ通りの人物のようだ。澪は絵の話なんてどうでもいいと言わんばかりに、すたすたと歩き始めた。しかしその足は意外にも早く止まることになる。
テラスへ繋がる二階のホール、一階へ繋がる螺旋階段の入り口。
「どうかした?」
今度は黒乃が訊く。
「思ったんだけどさ、やっぱ一度風呂入っといた方がいいよな。見た感じ、結構泥まみれだし」
言われてみて気付いた、ということもない。むしろそれは黒乃がずっと思っていて何となく口に出せなかったことだ。着ている病院服は見事に泥まみれだし、髪や足なんかも当然汚れてるだろう。
これで服を借りるのは黒乃としても申し訳ないところだ。
「実はそれ、僕も思ってた」
困ったように笑い、本心を吐露した黒乃。澪も鼻を鳴らし、だよなと頷く。
「アタシらに同行する以上、遠慮する必要はないぜ。下に降りて左の通路、進んで三番目の扉が大浴場だから。着替えは後で置いておくよ。タオルは備え付けがあるからそれを使えばオッケー。今は男湯だ。多少長湯してもいいぜ」
「ああ、ホントにありがとう、澪」
「だから気にすんなって」
ため息を吐きながらも笑みを見せる澪。何となく付き合いやすいというか、フィーリングの合う子だ。
どこか、前のアリサと同じような感じの――。
「んじゃ、また後でな」
「あ、ねえ――」
一足先に蓮の部屋へ向かおうとする澪に、咄嗟に声をかける。最後にもう一つだけ、訊いておきたいことがあった。
「ん?」
「君はさっき、兄の恋路を応援するのは妹として当然って言ったけど。逆に――妹の恋路を応援してくれるお兄さんっていうのは、当然としていると思う?」
「は? ――まあ、そうだな」
腕を組み真面目に考え始めた澪は、それなりの時間をかけて一通り試行錯誤を繰り返す。
時には唸るような声を出し、時には探偵のように顎に手を添え、時にはストレッチをして体と一緒に頭を柔らかくしている。
嫌な質問したかなぁと思い、適当に話を濁し大浴場に向かおうかと黒乃が考え始めた――その時、閉じられていた澪の目がぱっと見開かれた。
「分からん!」