141 ゲン担ぎ
今日は朝からそわそわが止まらない。
なんてったって、入学式で新入生達を前に野球部を代表してスピーチをするんだから。
自分らしく、自分の言葉で――といっても、本番が始まるまでは緊張して当たり前だ。
野球だってそうだ。
試合が始まるまではとても緊張するが、いざ試合が始まると集中することができる。
今は試合前と同じ。ちょっと緊張しているだけだ。本番が始まると、驚くぐらいするすると言葉が浮かんで、滝のように流れ出す……はず。
滝のように流れるのは言葉であって、決して冷や汗ではありませんように。
なんて、イヤでも頭に浮かんでしまう。寝坊なんてしていられない。
オレは少し早めに起きて、リビングのドアを開けた。
えーっと。
食卓テーブルの上にはなにやら朝ご飯とは思えぬようなメニューが。
とりあえず、まあ。
「おはよう」
「あら、おはよう。空、今日は早いのね」
いつになく上機嫌の母親の姿。
センバツが終わってから、毎日朝から晩まで部活で汗を流していたが、授業がある時と違い、今は春休み。朝練はなく、いつもよりゆっくり学校へと向かっていた。だが今日は。
「うん。入学式があるから、ちょっと早く行こうかなと思って」
「まあ、珍しい」
そう言いながらニコニコ顔を向ける母。
これは朝食メニューと関係があるのだろうか。
「てか、今日の朝ご飯。めちゃ美味しそうだけど、トンカツってちょっと夕飯みたいだね」
「そお?」
「量多くない?」
「あら、いやなの?」
「そういうわけじゃないよ。朝から豪華だなぁって」
せっかく作ってくれた料理に文句を言いたいわけじゃないんだ。
ちょっとばかり驚いただけ。
「早起きして頑張ったのよ」
鼻歌交じりに次々と並べられるトンカツたち。
と、そこへ兄貴の登場だ。
「おお! 今日はトンカツか。やっぱゲン担ぎ?」
「あ、わかる?」
ふふふと笑う母は嬉しそう。
「ゲン担ぎって? 今日、何かあるの?」
オレは尋ねてみた。
「頑張ってね」
笑顔に少しばかり圧を感じるのは、気のせいだろうか。
「え、何を?」
ま、まさか。
「ふふふ。聞いたわよ~」
「聞いたって何を、誰から」
「あら、愛優ちゃんからスピーチのことを」
やっぱり。
「頑張れよー」
兄貴まで知っていたとは……。
オレは苦笑いで答える。
「でも、なんでトンカツなんだよ」
スピーチとの繋がりが解んないんだよな。
「勝つから?」
いやいやお母様。勝つって試合じゃあるまいし。
「ただのスピーチに勝つもなにも」
「試合にもスピーチにも、とことん勝つ」
「とことん勝つって、ダジャレじゃん」
不覚にも笑ってしまった。
「せっかくの厚意を、ありがたく受ければいいんだよ」
笑いながら言う兄に「そうだな」と答える。
「大事なスピーチに空が選ばれたのが、嬉しいのよ」
「わわ、泣くなって」
オレが焦って言うと、母は顔を上げて満面の笑みを浮かべる。
「なんてね」
「なんだよ、泣き真似かよ」
笑いが起こる。
「なんだか朝から楽しそうだな」
父親もオレたちの様子を見て、嬉しそうに言う。
「ありがとな」
トンカツ。勝つから……とことん勝つ。緊張に勝つ、っていう意味もあるかもしれないな。
楽しく朝の時間を過ごすことができて、緊張もほぐれてきた。
「どういたしまして」
「おかげで緊張に勝ったよ。あとは本番で自分に勝つ!」
「おおー、言ったな」
オレはガッツポーズで言い放つ。
「とことん勝つっ!」
って、カッコよく決まったかな? なんて。
「空のスピーチ、こっそり聴きに行こうかな」
イタズラっぽく兄が言う。
「兄貴ー、それはやめてー」
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