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獣ノ王

               〈獣ノ王〉

 かつて存在していた獣たちの王を我々人類はこう呼び表した。

 諸悪の根源。獣を率いる怪物。人類の絶対敵。一般に通用するこの王の印象というのは全くその通りで、人類の歴史はこの王との闘争の歴史といっても過言ではない。


 しかしそもそも獣ノ王とは何者か。どこから現れたのか。なぜ人間を攻め滅ぼそうとするのか。かの存在は脅威でありながら何もかもが謎のまま、誰もそれらの疑問を追求してはこなかった。


 自分たちの命を脅かす者たちのことを考えて何になる。というのはもっぱらの意見だろう。これに否定の意見を述べるつもりはない。それも一つの正解であることは間違いがない。


 しかしこの未知によって私の探究心は大いに刺激され、この獣ノ王という災害に立ち向かうべく情熱を注いできたのだ。もしこの書籍をとったあなたが他の著書をご覧になったのであれば、私の情熱がいかほどであるかご理解いただけることだろう。


 だが、この名もなき王の存在は調べていけども、闇の中を足掻くが如く正体が判然としないのだ。数ある伝承を紐解いても獣ノ王という言葉はあれど、時に四足歩行の獣であったり、時に悪魔のような風貌であったり、また時に魔女をかたどった姿であったりと、一致する姿形というのは何一つない。


 この王の真の姿を知る者はただ一人。そう、かの誉れ高き救国の英雄その人である。


 十五年前。獣ノ王は一人の男の手によって打ち倒された。読者諸君にも記憶に新しいことだろう。彼の功績は今でも語り継がれるが、彼こそが真にかの王の姿を目撃した最初で最期の人間であるのだ。


 獣ノ王とは何か。そしてその正体とは何か。この本を書いた私や長年この正体不明の王の研究に携わってきた研究者諸氏もずっとこの答えを探し求めている。しかし、その答えを手にしている英雄は獣ノ王討伐を果たした後、忽然と姿を消してしまった。彼の行方は今も探ってはいるが、今日になってもなお定かになっていない。


 この書籍は獣ノ王という災害へ新たなアプローチを試みるものであり、獣ノ王という生き物に対する新たな見解を示すものである。どうかこの本を手に取った読者諸君は今一度立ち止まって、<獣ノ王>という存在について考えていただきたい。この本がそのきっかけとなってくれたのならば、作者として何よりの幸福である。


 最後に。もしもこの書籍をかの英雄が手に取ってくれたのなら、私の方へ一報をいただきたい。貴殿の証言は獣ノ王の研究に役立つだけでなく、ヴェスパニア邦国の歴史に新たな一石を投じうるものなのだから。貴殿のためならば時間をいくらでも作ろう。どうか惜しまず連絡をくれる事を願っている。


                     フィリップ・J・レズフォンスキ


 

 『獣ノ王 その存在と起源について』。その前書きに目を通したところで、エマ・ロリンズは本を閉じた。

 椅子を引いて立ち上がり、手提げ鞄を手に持って仕事部屋を抜ける。腕につけた時計を見れば午後二時十五分。余暇にと買ってきた本を読んでいたのだが、汽車の発車時刻まではまだ少しの余裕があった。


 「お出かけになるので?」


 自室から顔を出すと秘書のターナー・ノックスに声をかけられた。細いフレームの奥から切れ長の青い目がのぞいていて、上目遣いにエマを見つめてくる。まだ三十そこそこだというのに、短く切り揃えた金髪には若白髪がちらほらほらと散らばっていて、そのせいか実年齢よりも老けて見えた。


 「ああ。二週間ほど休養を取ってくる。それまでの間はよろしく頼むよ」

 「またいつもの(・・・・)、ですか?」

 「まあ……そうだ」

 「精が出ますね。くれぐれも体を壊さないように気をつけてください。帰ってきてもまだ仕事は残っているんですから」

 「言われなくても分かってるさ。それじゃ、あとは頼むぞ」

 「お気をつけて。お帰りはお早めにお願いしますよ」


 ターナーのつぶやきを背中で聞きながら、エマは部屋を出て階段を降る。それから正面入り口から外へと出る。すると、玄関を出てすぐのところに一台の馬車が乗り付けてきた。


 「お待ちしておりました。将軍閣下」


 御者台から兵士が一人降りてきた。まだ若い。二十歳そこそこといった様子で垢抜けない顔をエマに向けてくる。度の強そうな丸めがねからクリクリとした黒目が見つめていた。


 「すまない、待たせたか」

 「いえ、そんなことは。閣下はお気になさらずに」


 背筋をピンと伸ばして敬礼する手には力が込められる。そばかすまみれの頬を少し紅潮させて、鼻息もどこか荒げている。初めてお使いに出る子供のようだ。ただの送迎にそこまでやる気にならなくともいいだろうに。と苦笑を漏らしながらエマは敬礼を返し馬車に乗り込んだ。

 

 石。煉瓦。コンクリート。

 人。人。人。

 馬車の車窓からはヴェスパニアの街並みとそこを闊歩する人々の姿があった。

 あれから十五年、もう十五年だ。十歳だった子供達は大人へと代わり、親たちは老いて気づけば腰が曲がっていく。十五年とはそれだけの年月なのだが、エマにとってはつい昨日の出来事のように思えてならなかった。


 人類の栄華の象徴。復活の都。今でこそそんな華々しい異名が似合うこの街も、かつては獣ノ王が率いる獣の軍勢に攻め込まれた。建物という建物は全て瓦礫とかし、道々を彩る花々は死体の山に姿を変える。男も女も子供も関係ない。奴らの目に付いたものは食われ、犯され、殺された。街のあちこちから悲鳴と怒号、それに魔者たちの卑しい笑い声が響き渡る。地獄をひっくり返したような惨状がそこには広がっていたのだ。今のこの美しい街並みからは想像できないが。


 剣に弓に。各々が武器を手に取り兵士たちは果敢に獣たちと戦った。一時は押し戻すまでしたものの、日に日に戦況は悪くなっていった。勝利の見込みは立たないまま、無限に湧き出る数の暴力の前に、軍人たちは疲弊と絶望の沼に沈んでいく。いつ終わるともしれない悪夢の日々が何日も続いたのだ。


 しかし状況が一転したのは一人の名もなき男が現れてからだった。


 彼の強さはそこらの一兵卒など目にならず、一人戦場へと降り立てば次々に獣たちの首を切り落としていった。それはまさに一騎当千の戦働きで獣たちはどよめき、兵士たちは驚愕の渦に飲み込まれた。血と汗で肌を濡らしながら、鬼神の如く戦う男の後ろ姿は、今もエマの目に焼き付いて離れない。


 そしてその男の登場からまるで息を吹き返し、軍は獣たちへ一挙に攻勢を仕掛け、見事獣ノ王を打ち倒すまでの偉業を成し遂げた。その男を皆は<英雄>と呼び讃えた。


 だが英雄の行方は獣ノ王を打ち倒したところで突然途絶えた。まるで煙にでもなったかのように。忽然と。


 時代とともに皆は彼を忘れ、彼の英雄譚だけが一人歩きするようになった。けれど、彼を忘れられずに今も探し回っているバカな奴がいる。フィリップという学者もそのバカの部類に入るのだが、エマもまた同じ穴の狢だった。


 噴水広場を抜けて街の大通りを進んでいく。煉瓦で作られたアパートが両側に並び、それに見下ろされながら石造りの門扉を潜る。それから数十分ほど道なりに進んでいくとヴェスパニアの駅舎が見えてくる。


 その正面に馬車が止まり、エマはタラップを踏んで荷物と一緒に馬車から降りる。


 「ではお気をつけて」


 御者台から兵士が敬礼を送ってくると、鞭をしならせ馬車を前へと進ませる。引き返していく馬車を見送りながら、手提げ鞄を持って駅舎の中へとエマは入った。


 木造の駅舎は街中の建物に比べればみすぼらしい出来ではあるが、屋根とそれに時計にベンチと食堂等々必要なものは一通り揃っている。時計をみれば午後二時四十七分。汽車まではあと十分ほど時間がある。だが突っ立ったまま乗り過ごしてもつまらないから、早めに構内へと入ることにした。


 構内にはすでに東行きの汽車が止まっていた。黒々とした蒸気機関車の後ろには客車が四つと貨物車が三つ繋がっている。今はちょうど燃料の補給中らしく機関車に水を供給するパイプが繋げられていて、轟々と音を立てて水が流れ込んでいる。車掌は駅員と時計とにらめっこをしながらあれやこれやと言葉を交わしていた。お勤めご苦労様。労いの言葉を心中でつぶやきながら、エマは客車へと乗り込む。


 座席に座りなんとなく外を眺める。灰色の煙が黙々と構内を覆い隠し、汽笛の音が鳴り響く。どうやらそろそろ出発のようだ。はやる気持ちは年をとるごとに制御が効くようになった。けれど、この出発という瞬間に関しては幾つになってもどうにもワクワクする。どこかへと旅立つ瞬間というのはどうしてか心が踊るものだ。


 だが、ただ旅行をするために遠出をするのではない。

 英雄を見つけてこのヴェスパニアに連れ戻す。そのために旅立つのだ。


 それは何もエマ個人の思いからではない。いやこれまでは彼女個の意地だけだったのだが、今回は王の密命を受けている。肩の重りはこれまでよりもずっと重い。


 『私が死ぬ前にあの男を、英雄を連れてこい。次代の王は彼以外にいない』


 王の寝所にてエマに託された言葉はきっと王から受け取る最後の勅命になるだろう。そんなことはエマにも理解している。理解しているからこそ、王が存命である僅かな時間の間に、かの英雄の、未だおぼろげに浮かぶあの男の姿を王に見せなければならない。


 車輪が廻る。音を立てて、走り出す。


 この線路の向こうに英雄がいることを、いてくれることを、エマは願って止まなかった。

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