疑惑二…についての検証
波の音がする。
ざざん、ざざんと繰り返し聞こえるそれが波の音なのだと、ジーンは気づいた。むしろ一人になってようやく聞こえたともいえる。
ジーンが神殿内の一室に通されて、椅子に腰を落ち着けてから、すでに二十分ほど待たされている。
あの後、青年の大声に楽しくなってしまったらしい子ども達が『カクシゴ!カクシゴ!』と連呼したため、神殿からわらわらと人が出てきた。
そして、ジーンは中年の女性に、旅装をといたり顔や手を洗わせて貰ったりと世話を焼かれてから、こちらで休んでいるようにと連れてこられた。
青年は別の中年男性に、子ども達は年長の少年たちに連れて行かれた。
ジーンは部屋の中を眺める。小綺麗な布張りの椅子に、艶のある木のテーブル。壁際には背の低飾り棚があり、いくつかの壺や置物が置かれている。廊下の壁は白い石そのままだったが、この部屋の壁にはクリーム色の壁紙が貼られていた。華美ではないが、粗末でもない。客に失礼のないように整えられた部屋、といったところか。
つまり、自分は今、客として扱われているのだとジーンは考えた。
エレナの太陽神殿から送り込まれた面倒な視察役だとはばれていなくても、押しつけられた婚約者だなんて、あからさまに邪険にされてもおかしくないのだ。しかし先ほどの女性は大変親切で、ジーンがまるで自分の子どもであるかのように面倒を見ようとした。そしてこの客間だ。
婚約者として歓迎されている、ということか。
それはそれで、ジーンとしては困る。けれど、視察は続けなくてはならないから、そこが悩ましい。
どちらにしろ、一人ではどうしようもないが。
そう思ったとき、がちゃりと扉が開いた。
「お待たせ」
「…本当に神官長だったんですね」
「まだ疑ってたの?」
眉を下げて笑いながら、青年は濃藍のローブを翻してジーンの対面に座る。
その胸には三叉の武器が描かれた銀の紋章。
紋章は神殿ごとに違う。けれど、銀は大神官にしか許されない。
ジーンはすでに立ち上がっていたが、もう一度姿勢を正した。
「改めまして、太陽神殿から参りました、第二位文官のジーン・エレナンです」
「へえ、二位文官なんだ」
ええ、と肯定しつつ、ジーンは緊張した。
文官と名乗れば視察はばれやすくなる。けれど、名乗らなければ、婚約者という位置づけをはねのけることは難しい。それこそ何をしに来たのだという話になってしまうからだ。
ちなみに二位というのは、文官として下から数えた方が早い地位だが、ぎりぎり単独での報告や一定の手続きの資格をもつ。叩き上げの人間が二十そこそこで就いていれば、十分に優秀なことの証明になる。もちろん神官長には及ぶはずもないが。
新しく入れ直された茶を飲みながら、とりとめもなく確認作業をしていく。
「先代が二年前に死んだでしょ、それで、ここの神官長は俺になったんだ。太陽神殿にもそのとき報告上げたはずなんだけど」
「申し訳ありません、こちらには氏名しか知らされていないものですから」
文官は地位によって照会できる情報が異なる。申し開きながら、ジーンは背筋を伸ばし直した。
目の前の青年はその辺の下町育ちの若者といった態度なのだが、ローブのせいか部屋のせいか、どこか威圧感を感じるのだ。それに負けてはならないと、ジーンも気合いを入れる。
「それは上官の怠慢だ。災難だったね…というか、わざとか。だって、婚約者のことも聞いてなかったんでしょ?」
「!…はい…」
突然話が核心に触れたので、ジーンは机の下でぎゅっとスカートを握り込んだ。
ユーリオ・リトナの目が半ば哀れむように、半ば面白がるように細められるのを、営業用の笑顔で受け止める。
「どうしよっか?」
「どうしようとは、どのような意味でしょうか」
相手の出方を窺うために質問を返す。文官の常套手段を出してきたジーンに、ユーリオは笑った。
「どうもこうも婚約だよ。俺としては、このまま本決まりでもいいんだけど、君は知らなかったわけでしょ?困るんじゃないの?」
「困る…というか、そのような予定でいなかったため非常に困惑していると言いますか…」
もちろん、このまま本決まりなんてジーンとしては大問題だが、ただの文官が格上の神官長相手に『婚約なんて困ります』だなど失礼極まりないため、言葉を濁す。
「そうだよね」
ユーリオは気を悪くしなかったようだ。ジーンが密かにほっとしたところで、彼はあ、と呟いた。
「でもじゃあ何をリトナでする予定だったの?」
ジーンは呼吸を止めないように細心の注意を払わねばならなかった。
ユーリオは肘掛けにだらしなく頬杖をついているが、その底の見えない深海めいた濃藍の目は、じいっとこちらを見つめている。
――こいつ、人を油断させてひっかかるのを待っているのか。
自分を手のひらで転がそうとするユーリオに対して、ジーンの中で対抗心が湧きあがる。
格上の神官長相手に、上等だ受けて立ってやると思ってしまうのは、彼女の良くない癖だ。自覚はあるのだ。けれど、我慢が出来るかは別の問題だ。そして、ジーンは最も許せないものへと鉾先を向けた。
「…その前に、不躾ながらいくつかご質問させていただいてもよろしいでしょうか」