三人称視点8:イレギュラーたる由縁
1917年5月18日、ドイツ軍占領下であったトロアは奪還された。
トロアに立てこもっていた残存ドイツ軍はそれから三日後に連合国軍に投降し、連合国軍は大規模な反撃作戦を展開するようになる。
ドイツ軍もそれに対抗するために新兵器を導入したが、ここでドイツ軍に追い打ちをかける出来事が起こる。
中央同盟国であるオスマン帝国が勝手に連合国に対して単独和平を行ったのだ。
オスマン帝国はガリポリの戦いで連合国軍が上陸して橋頭堡を築くことに成功し、国内ではイスラム主義者によるアラブの大反乱が発生、アラブ地域の一斉蜂起に国内の治安部隊では対応できず、さらに北部と国境を接していたロシア帝国の総攻撃を受けて総崩れ状態となり、オスマン帝国は終焉を迎える。
事実上の降伏宣言を行ったオスマン帝国の行動はドイツをはじめとする中央同盟国にとって大きな打撃となった。
東部戦線でドイツ軍が有利であった戦況も、オスマン帝国降伏を受けてオスマン帝国方面に軍を回していたロシア帝国軍が数十万人単位で東部戦線に軍を送り込んで前線に投入することを決定し、ロシア帝国は決して降伏しないとニコライ二世が国民に向けて宣言を行うほどであった。
アルプス戦線ではイタリア王国軍がオーストリア・ハンガリー帝国軍を撃退して逆侵攻を開始した。
優勢を保っていた筈の戦線が各所で一斉に決壊してしまったのだ。
辛うじてドイツ軍は防衛線を構築していたものの、すでにオスマン帝国が降伏し、残された国家は防衛戦を強いられることが確定しまったのだ。
アメリカはまだ参戦していないものの、大量の義勇軍や物資などを送っており、実質的に参戦しているようなものであった。
ドイツが講和を行うとしたらこのタイミングがベストであった。
しかし、ドイツ帝国は講和を拒否した。
なぜならドイツ国内の世論が講和など論外であるという論調が強く、また本国には200万人の予備兵力と優れた航空戦力が温存されていたからだ。
さらにドイツ帝国はフランスの重要な都市であるパリを占領している。
パリ市内は塹壕が掘られて、あちこちに重機関銃や野砲、地雷などが配備されて連合国軍の侵攻に備えている。
占領から僅か一か月足らずでパリ市内を要塞化しているドイツ軍からパリ解放を行うには連合国軍は多大な損害を覚悟しなくてはならない。
その一方で、連合国軍の一員である日本帝国国内では史実では無かったある新興企業が国内で急成長を遂げていた。
その新興企業は歴史上重要な人物が移籍をしたことで知られている。
僅か20年で名だたる三菱財閥や住友財閥に並ぶ国内有数企業に成長し、さらに空軍への創設や資金援助を積極的に行っていたりと、浅川が見れば一発で史実との相違点に気付くであろう企業だ。
その企業の名前は「変則株式会社」
変則財閥や変則成金と揶揄されるのはその多岐にわたる活動である。
1890年に一人の無名の青年によって設立された変則株式会社は、その年にアメリカのある天才発明家を招き入れて様々な発明と特許を取得したのをきっかけに、通信・船舶・食品・工業・航空の5つに力を入れて大規模な開発や支援を行い、1917年現在では六大財閥の一つとさえ謳われるほどに巨大成長した。
因みに日本製の戦闘機や軍用無線などの大半はこの変則株式会社が製造したものである。
日本帝国国内だけでも6万人を超える労働者がおり、朝鮮半島や台湾を含めると9万人以上の労働者を抱えている大企業だ、第一次世界大戦が勃発してからは通信・工業・航空の三点を重点的に開発を行っている。
政界や軍部の中枢に多くのコネクションを持ち、日本空軍の創設には変則株式会社が深く関わっている。
その変則株式会社の社長は阿南豊一郎という。
横浜の商家の三男坊として生まれた彼は独学で勉強を行い、14歳の時に低価格で誰もが食べれる筒状の味付き製菓菓子「1銭菓子」を考案し、店頭で販売するとこれが大人気となり、16歳の時には横浜だけで5店舗もの直売店を構えるやり手のオーナーとなり、20歳の時に変則株式会社を創設した経歴を持つ。
巷では次々と彼が投資する企業は成功すると言われており「先が見える企業家」「彼の後に付いていけば問題なく成功する」とさえ言われた。
そう、彼は未来がある程度見えていたからできたのである。
早い話が彼もまた転生者であったのだ。