30:ノールコール
私は雲の中で機体を動かしている。
雲の重たい空気が機体に振動を与え、私の身体も揺れている。
ヴェルトハイム級軍用飛行船から逃げるためとはいえ、雲の中にジッといたくないものだ。
F-15戦闘機に乗っている時は、雲の中に入ってもウィンドシールドとキャノピーに守られているので高速で飛ばすことが出来る。
それに機体のヘッドアップディスプレイ(HUD)を見て、速度と高度がどのくらいなのか確認ができるから雲など殆ど恐ろしいと感じたことは無かった。
それがウィンドシールドとキャノピーが無い、状態だとこんなにも雨が痛いと思うぐらいに強く当たりつける。
速度計は時速140キロと表示されている。
この機体の最高速は160キロなのでかなりスピードを出しているだろう。
雲の大きさはそこまで大きくない。
もうすぐ雲から抜け出せるはずだ…。
雲から抜けるまでの時間が永遠の時のように感じることがある。
どこまでを終わりがない白い空間。
機体を上向きにして突き進めば雲を突き抜けて青空が待っているはずだ。
しかし、そんな青空が広がっている場所に敵の戦闘機部隊と鉢合わせするのは非常にマズイ。
残念だが、それは別の機会で体感したいものだ。
「マルガレーテ少尉、雲に入ってどのくらい経ちました?」
「ちょうど120秒です!あとどのくらい雲の中に潜っていますか?」
「もう60秒ほどしたら雲の下に出ますよ!また50秒過ぎたら声を出して数えてください!」
操縦桿が振動している。
さっきよりも風と雨が強くなってきた。
大粒の雨がゴーグル越しに降りかかる。
左手で拭き払ってもすぐに濡れてしまう。
全く…せめてウィンドシールドを取り付けるべきだな…。
帰還したら整備兵に依頼しておこう。
「50…51…52…53…54…55…56…57…58…59…60!!!」
合図と共に、雲の下にゆっくりと降下していく。
速度計も下がっていくにつれて速度がどんどん早くなってくる。
少しずつ雲が薄くなっていく。
下には緑豊かなフランスの田園風景が広がってきた。
所々クレーターのような穴が開いている場所があるが、あれは連合国軍が撤退する際にドイツ軍に物資を渡されないように補給所を爆破した痕だろう。
他にも黒焦げた爆撃機や戦闘機の残骸があちこちに散らばっている。
田園風景の中に溶け込んでいる戦争の生々しい痕跡。
それは前線に近づくにつれて多くなる。
「マルガレーテ少尉、後ろに敵機は見当たりませんか?」
「そうですね…後ろからは敵機らしき航空機は見当たりません。また後ろから敵機が見えたら直ぐに知らせます」
「よろしくお願いします、もうこの辺りは連合国軍の領域なので大丈夫だとは思いますが、念のため着陸するまで後方を警戒していてください」
「はい!後ろは任せてください!」
マルガレーテ少尉ははきはきした声で応える。
ドイツ軍の軍歴剥奪と家族から絶縁という重すぎる宣告をされて、正直なところ立ち直れないのではないかと私は思った。
だが、今の彼女は生き生きとしているように見える。
コックピットから少し顔を後ろに向けると双眼鏡で周囲に敵がいないか見つめている。
その見つめている目は狩人のようだ。
今のマルガレーテ少尉なら私の背中を任せてもらっても大丈夫だ。
少なくともサボるようなタイプの人間ではない。
真面目で几帳面な人だ、今回の偵察ではマルガレーテ少尉は与えられた仕事をきちんとこなしている。
実に優等生といったところだ。
私は気を取り直して前方の方を、マルガレーテ少尉が後方から敵が来ないか警戒しつつ、プレリー空軍基地に戻ったのであった。