三人称視点5:炙り出し作戦
1917年5月3日、午後9時19分、ヴェルサイユ宮殿に最後まで立て籠っていたフランス陸軍第8師団第15小隊が降伏してヴェルサイユ宮殿はドイツ軍の手に落ちた。
ドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世は、ヴェルサイユ宮殿を支配下に置いた報を聞くと上機嫌でホッと胸をなで下ろした。
フランスの象徴でもあるパリ、そしてヴェルサイユ宮殿をドイツ軍が占領すればフランスの交戦の意志は砕けるだろうと踏んでいたからである。
事実、ヴェルサイユ宮殿が陥落したという報道が伝わると、ロンドンやナントではドイツが提案してきた休戦協定を受け入れようとする動きが出てきた。
その休戦協定の内容は、パリから撤収する代わりにグラン・テスト地域圏の割譲、イギリスへの海軍軍縮要請、アジア地域の英仏植民地地域の割譲などが盛り込まれていた。
この休戦協定は「プロセイン協定」とも「ヴィルヘルム二世の意志」とも呼ばれているが、ドイツ帝国政府では「十二か条欧州協定」という名称で連合国に伝達される。
フランス政府は休戦協定を行おうとしたが、反対する軍部によって阻止された。
ヴィルヘルム二世が描いていた連合国への有利な休戦協定は脆くも崩れ去ってしまった。
フランスはすでにドイツ帝国に対して徹底抗戦を呼びかけており、降伏は有り得ないと返答したほどであった。
この時フランス軍は既に戦死者60万人以上、重軽傷者200万人を出しているが予備戦力として温存している500万人がまだ動員できるからである。
その500万人のうち300万人は徴兵を受けたことのある30歳から55歳の成人男性であるが、残りの200万人は婦人や15歳以上の少年少女が後方支援として割り当てられた。
フランス軍総司令官であるジョゼフ・ジョフル元帥やヴェルサイユ撤退作戦を指示して、友軍の脱出に成功させたフィリップ・ペタン中将らは、パリ方面の防衛線を20キロ後退させた上で、急造して作らせた塹壕防衛線…シャルトル・エタンプ防衛線でドイツ軍を迎え撃つことを決定。
フランスは学生や主婦といった非戦闘員でも軍事関連の仕事を行うように通達を出して、国民の根こそぎ動員を行い、軍を底上げしようと目論んでいる。
ナントに首都を遷都したフランス軍は第一次世界大戦に参戦していないアメリカ合衆国からの5万人に及ぶ『義勇軍』を受け入れており、また日本陸軍から新たに陸軍4個師団、日本海軍からは軍艦40隻からなる欧州派遣第三艦隊、日本空軍からは航空兵力250機の動員を決定し、既に制海権が確保されているアジア地域からの援軍を受け入れていた。
ドイツ帝国が有利に戦況に立っている中で、フランス戦線は新たな局面を迎えようとしていた。