わたしをママって呼んでくるおねえさんは困った人です
わたしの隣の部屋に住んでいる由紀乃さんは少し変だ。
「あ、おはようございます由紀乃さん」
毎朝、示し合わせたわけでもないのに同じような時間に部屋を出て、ばったりと出会った時に挨拶を交わす。
この時からちょっと―――ううん。
「おはよう、ママ~」
だいぶ変わった人だと言うことが誰の目にも分かってもらえると思う。
「あの、」
わたしは由紀乃さんの顔を見上げ、じとっとした視線を斜め下から送って。
「その・・・ママって言うの、やめてください」
「えぇ~!? なんでーーー?」
由紀乃さんは信じられない、ショックだと言わんばかりに目を真ん丸にして驚く。
だけど、考えてみて欲しい。
「おかしいじゃないですか」
「何が?」
「だから、」
わたし―――真白。
「高校生が小学生にママはおかしいですよ!」
小学、4年生。
由紀乃さん・・・高校2年生。
たまたま同じ方角に小学校・中学校・高校が併設されているから毎朝一緒に登校しているけれど、マンションから一歩出れば通学路なのに、平然とこの人はわたしの事を。
「ママ~」
と、呼んでくる。
最初は『仲が良い』の延長線なのかなって思っていたけれど、友達に話したら。
「年上の人がママなんて呼んでくるの、普通じゃないよ!」
と言われ、そこでわたしも初めて、それがおかしいことだと認識した。
「なんでママなんですか」
そもそもの疑問を、由紀乃さんにぶつけてみる。
「んー。なんかこう・・・"ママ!"ってオーラが真白ちゃんから出てるっていうか」
「わたし、由紀乃さんの感覚、たまに分かんないです」
「うぅー、ママのいじわるー」
話してて面白いし、気が合うおねえさんだし、すごく良い人だとは思うけれど・・・。
("ママ"が変だって聞いてからは・・・)
ちょっと由紀乃さんのこと、どういう人なんだろうって考えちゃう。
「ほら、由紀乃さん」
だから。
「行きますよ」
―――手を差し出し、一歩、踏み出す
わたしが由紀乃さんをまともな女の人にしてあげなきゃ!って。
そう思うんだ。
「きゅうぅぅ~・・・」
「ゆ、由紀乃さん!?」
途端、由紀乃さんが顔を真っ赤にしてへなへなと全身から力が抜けていったかのようにその場に座り込む。
「ご、ごめん。なんか」
「何やってるんですか、もう」
「圧倒的な母性に身体の芯が溶けちゃった」
「怒りますよ!?」
わたしと由紀乃さんの毎日は、ここから始まる。
大変だけど、でも・・・楽しい。
(だって)
大好きな由紀乃さんと、一緒に居られるなら―――
こんなに嬉しいことは他にないんだ。
「ママ~、おんぶ~」
「いい加減にしてください」
◆
学校終わりに、由紀乃さんの部屋に遊びに行くのが決まりのようなものだった。
高校の宿題をやっている由紀乃さんの隣で、何をするでもなく座っているだけ。
それでも、わたしには到底分からない問題を解いている由紀乃さんはカッコよくて、少しだけ尊敬しちゃうような目線でこの人を見られる、唯一の場だなって思うと、その時間もどこか愛おしかった。
「終わった~~~ああちかれたー」
シャープペンとノートを放り出して、由紀乃さんは机に突っ伏す。
「お疲れ様です。お茶でも淹れましょうか」
わたしがその場を立とうとすると。
「いい」
由紀乃さんは首を横に振って。
「ママ、膝枕して~」
涙目になりながら、懇願してくる。
「うぅ」
さっきまで見ていたカッコいい由紀乃さんが頭の中で重なって見えて、なんか断れない。
わたしはカーペットの上にぺたんと座り込むと。
ぽんぽんと膝の上を軽くたたいて。
「どうぞ・・・」
「わーい」
由紀乃さんの頭が、膝の上に乗る。
ふわっとしたセミロングの髪と、シャンプーの匂いが鼻を掠めた。
「ママの膝枕気持ちいい~」
「た、ただの膝枕ですよ」
「きゃー、ばぶばぶー」
「・・・」
完全にもう甘えモードに頭が切り替わっちゃったらしい。
悪ノリに加担するようで、少しだけ気が引けるけれど。
「~、よちよち・・・」
由紀乃さんの髪を梳いて、頭を撫でてあげる。
「ママ~、お菓子とってー」
「これですか?」
足元にあった、パッケージ内で小分けにされているチョコレート菓子をひょいと持ち上げ、渡そうとするが。
「あーん」
その言葉を聞いた瞬間、頭に電撃が走った。
「う、ウソでしょ!? 由紀乃さん・・・!」
「あーん」
「冗談・・・ですよね・・・?」
「あーん」
あ、これ冗談じゃないっぽい。
「うぅ」
ちょっと悩んで、やっぱり駄目なんじゃないかとも思ったけれど。
好きな人が膝の上で、キラキラに目を輝かせながら、わたしがお菓子をとってくれることを期待していてくれている。
しかも、他に頼る人なんて誰も居ない。
わたしがやってあげなきゃ、この人はきっと死んでしまうんじゃないか・・・そんな考えすら、頭の中に入ってきた。
チョコレートをひょいと1つ、摘まむと。
「あ、あーん」
「あ~ん」
彼女の口に、そのままチョコを入れる。
「ちゅ・・・」
由紀乃さんはわたしの指ごと、チョコを舌の上に乗せると。
「んちゅ」
親指と人差し指、その間にあるチョコレート。
それらを全てなめとるように、舌と口を使って吸い上げる。
「ちゅぅ」
「ん・・・」
指先に感じる湿った感覚と、やわらかい口内と少しざらっとした由紀乃さんの舌。
摘まんでいたチョコレートは段々と溶けていって、どろどろになって指の間を抜けていくけれど、すぐに舐めとられていって不思議と嫌な感じはしなかった。
それより、何より―――
(くすぐったい・・・!)
それを我慢する為に目を瞑って、使っていない左手で声が出ないように口を塞ぐ。
だけど。
(もう、限界―――)
ダメだ。
声が、出ちゃう。
「ぱっ」
一際大きな音が聞こえると、右手の先がすぽっと今まで感じていた湿ったものから解放される。
「ふぇ・・・?」
瞑っていた目を開くと、少しだけふやけた指が、わたしの目の前にはあって。
「チョコ、おいしかったー」
満足そうな由紀乃さんの顔が、眼下で笑っていた。
「美味しかったじゃないです!」
だけど、わたしは少しだけ怒っていたんだ。
「こ、こんな・・・」
えっち、という言葉を出そうとして、でもどうしても憚られた。
自分が今、えっちな事をしていたんじゃないかという罪悪感が、その言葉を止めていたのだ。
「こんなの、め、めっ、です!!」
なんて言ったら良いのか分からなかったから、分からないなりにわたしの気持ちが伝わるように、思いっきり由紀乃さんを叱る。
「だめなの・・・?」
「だめです! もうしませんからね!」
「いやだー。もっとママのお指ちゅぱちゅぱしたーい」
「~~~」
改めて言葉にされると、なんてわたしはダメなことをしていたんだろうと、恥ずかしくて顔が真っ赤になる。
「ゆ、由紀乃さんはおっきな赤ちゃんです!」
お菓子も1人で食べられない。
ママの指を吸う。
駄々をこねる。
身体は大きいけど、中身はただの赤ちゃんだ。
「えぇ? そのつもりだよ?」
だけど、この人は何の罪の意識も無く頭にハテナマークを浮かべるから。
「もう膝枕もしてあげませんっ」
「ええ、それはやだ~」
「由紀乃さんはもう高校生なんですから・・・」
「やだ~。赤ちゃんー。ばぶー!」
本当、もう。
「困った人ですね」
―――そう、困った人
わたしが居なかったら生きていけないんであろう、"困った人"だ。
そんな彼女が好きなわたしも多分、"困った人"で。
(お似合いなのかもしれません)
どうして、こんなに由紀乃さんのこと、放っておけないんだろう―――
◆
私のお母さんは、小学生の頃に亡くなった。
あまり優しい人ではなかったけれど、それでもあの人が私にとってのお母さんだったんだ。
悲しくないわけがない。
葬儀の日、私は人目もくれずに泣きじゃくった。
泣きわめて泣きわめて、会場から出されるくらいには大泣きをしたんだ。
お母さんの葬儀が終わった後、私は会場のエントランスロビーから出た玄関の軒先の柱にもたれ掛かりながら、まだ泣いていた。
(お母さん、なんで・・・。私、まだお母さんにしてもらいたいこと、たくさんあったのに・・・)
どうして、私を残して―――
痛い目を擦り、もう出てこないと思っていた大粒の涙をごしごしとふき取りながら、顔を上げると。
そこに居たのは。
「・・・?」
こちらを不思議そうに見つめる、まだ3歳くらいの女の子だった。
(どうせ、この子には分かんないよっ)
こんな小さな子だ。
どうしてここに連れてこられたのかも、どうせ分かってない。
そうだ。私の気持ちなんて誰にも分かんないんだ。
イヤだイヤだ。もう、泣くのだって疲れた。私も、お母さんと一緒に―――
「よちよち」
頭の上に置かれた、その手が。
「おねえちゃん、泣かないで」
目の前に居た女の子のものだって気づくのに、少しだけ時間がかかった。
―――その手のひらの温もりが、
―――病室のベッドで寝たきりの状態になった時、私の頭を撫でてくれたお母さんのものに
―――少しだけ、
(似てる・・・)
そう、思ったからだ。
「いいこいいこ。おねえちゃん、いいご・・・」
その言葉は後ろに行くほど、雲行き悪く濁っていって。
「う゛う゛ぅ。おねえぢゃん、泣かないで・・・」
「一緒に、泣いてくれるの?」
顔を歪ませて、大粒の涙を流す女の子。
その子のほっぺに手を当て、流れてくる涙をやさしくふき取る。
「うえぇ・・・んぐっ、」
彼女は顔を横に振り、決して泣くまいと鼻をすするけれど、ほとんど効果は無い。
そっか。
私の為にこの子は、こんなにも必死になって―――
そんな彼女を見ていた私は、ふと。
「あなたが、私のお母さんだったら良かったのにな」
小さく呟いたその言葉。
この子は大きくなった時、覚えてくれているだろうか。