3 自宅
「それじゃあお先に失礼します」
私は六時になると、早々に片付けを始め、職場を後にした。自動車に乗り、暗くなった道を走る。道沿いの建物はほとんど明かりが灯ってない。全部空き家なのだ。
A市は研究センターを誘致したおかげで財政再建団体から脱却したものの、大量の人口流出を招いていた。
〈蛹センターは出て行け〉赤ペンキで描かれた大型の看板が、信号で止るポイントごとに設置されていて、夜道でも目に入ってくる。
市街を抜け、千歳空港の駐車場へ自動車を停め、あらかじめ車へ入れてあった荷物を持って予約した飛行機に乗り込んだ、羽田で降り、更に電車に乗って東京の郊外に着いた。所々畑が広がる中、一軒家に着いた頃はすでに深夜だった。合い鍵でドアを開ける。
靴を脱いで上がるとすぐ目の前にドアがあり、エアシャワーが設置されている。壁に設置された吹き出し口から出てくる風を浴びた。
風が止んで奥のドアを開け、ようやくリビングが見えてくる。ほっと息を吐いた。
「お帰りなさい」
妻の祐美恵が振り返った。柔らかな照明の光が照らす中、パジャマ姿でソファに寝そべりテレビを見ていた。
「まだ起きてたのか」
「録りだめしてた番組を見ていたのよ。ご飯は食べたの」
「ああ。飛行機に乗る前に食べた。それよりウイスキーはあるか」
「ちょっと待ってて」
祐美恵はテレビを一時停止させて台所へ行った。
「おつまみはまたお漬け物?」
「うん。頼むよ」
しばらくして祐美恵がウイスキーと氷、それに漬け物を持ってきた。ロックにしたウイスキーを一口飲み、きゅうりの漬け物を食べた。歯ごたえとぬかの風味とわずかな酸味を味わい、家に戻ってきたのを改めて実感した。祐美恵も水割りを作って飲み始めたが、おつまみはチーズだった。
「久斗はどうなんだ」
「このところ発作もないし、調子はいいみたい」
「そうか、よかった」
ほっと息を吐く。このままずっとよければいいのだが……。敵わぬ希望か。
「あっ、そうだ」
祐美恵は不意に立ち上がり、私の背後にあるパネルに駆け寄った。
「やっぱりそうだわ」
タッチパネルを操作した。ダクトから響く空調の音が心持ち大きくなった。
「基準値より、0.003PPM増えたままになっているわ。しばらく久斗の部屋には入らないでね」
「バカ、小五の息子の寝顔を見に行くオヤジなんていないぞ」
「一応言ってみただけ。この空調トロいんだから、基準値を超えても二十分くらいそのままなのよ」
「あんまり神経質になるなよ。基準値はあくまでも目安なんだから、多少越えたって発病するわけじゃない」
「でも、確実にリスクは高まるでしょ。発病してからじゃあ遅いのよ」
戻ってきた祐美恵はあからさまに不機嫌な顔をしていた。もう少しゆったり考えろよ。そういいたかったがやめた。この件に関しては、いくら私が専門家で知識があると主張しても聞かないのだ。
基準値を下回っていれば発病するリスクは減る。しかし逆に言えば、たとえ基準値を下回っていたとしても発病する可能性はゼロでない。実際ほぼ無菌状態で発病した事例はいくらでもあった。あくまでも証明されているのは、濃度が低ければ発病のリスクが低くなるということだけだ。
前にきっちりそういう話をしたが、むしろ不安がってしまっただけだった。それなら妻が納得するようにやらせた方が精神的にもいい。
今、リビングのドアを隔てた向こうで眠っている久斗は、幼い頃から重度のぜんそくを患っていた。病人は一般人より蛹化する率が高い。
ぜんそくなど、呼吸器系の病気については更に高かった。空気中を漂うカビが、呼吸によって体内へ取り込まれるからだ。
カビの繁殖は、呼吸器系から始まることが知られている。気管支の機能が低下すれば、それだけ発病のリスクは高まる。
自宅にエアシャワーを設置したり、空気中のカビ濃度を調整する機能のついた空調を設置したりしたのも、すべて久斗の感染を恐れたからだ。
グラスに入ったウイスキーを飲み干すと、急に酔いが回ってきた。やはり疲れているのだろう。ストーリーがわからないテレビドラマを見ながら、まぶたが閉じていく。
「そんなところで寝ないでよ。風邪引いちゃうでしょ」
「ごめんごめん」
妻の叱責で目を開け、立ち上がる。
「風邪なんか引いたら家から追い出すわよ。それと寝る前は必ずシャワーを浴びてね」
「わかってるさ」
大きくのびをしてから浴室へ向かった。
翌日の朝、久斗が起きてきた。目を擦りながらちらりとテーブルで新聞を読んでいる私を見て、リビングを横切ろうとする。
「久斗、一週間ぶりなんだから、お父さんに挨拶しなさい」
「ああ。おはよう」
母親の叱責にたいして、久斗はぶっきらぼうに言ってトイレに入っていく。一年前に比べて明らかに私への態度は素っ気なくなっていた。これで思春期に入ったら、ほとんど口をきいてくれなくなるだろう。男の子なんだから仕方ないと思う反面、寂しさも感じる。
今日は山梨にある遊園地へ行く予定だった。正直、北海道から飛行機に乗って深夜に帰ってきた身としては少々つらいものがある。
ただ、今朝の久斗の態度からわかるとおり、家族三人で旅行に出かけられるのもそう長くないだろう。無理をしてでも行っておかないと、後で後悔することにもなりかねない。
まだ眠気が抜けない久斗をせき立てて朝食を食べさせ、車へ乗り込んだ。
中央道に入り、西へ向けて車を走らせ、二時間ほどで遊園地へ着いた。運転していた私はすでに疲労が肩にのしかかっていたが、久斗の子供らしいきらきらした目を見ると、行ってよかったと思う。
帰ってきたのは夕方六時過ぎで、近くのファミレスで食事を済ませ、家に着いたのは七時近かった。このまま眠ってしまいたかったが、今から発たないと翌日の出勤に間に合わない。あらかじめ買っておいた栄養ドリンクを飲み干し、荷物を抱えて家を出た。