10 蛹化(2)
「あなた……やっときてくれたのね。待ってたのよ」
祐美恵がなじるような目で見たので、思わず文句が出かかったがやめた。彼女は蒼白な顔をしており、暖房が効いているというのに、腕を組み体を小刻みに振るわせていた。すでにぎりぎりの精神状態なのだ。
「久斗の様子はどうだ」
「まだ起きてこないのよ」祐美恵の目からどっと涙が溢れ始め、ぽろぽろ頬を伝った。「あの子、かかっちゃったの?」
「待て、俺が診るから」
私は納戸へ言って診療用具の入ったバッグを取ってきて、久斗の部屋に入った。
几帳面な母親に影響されたのだろう、私が同じくらいだった年に比べれば、かなり整頓された室内だ。
カーペットには散らばっているものはなく、本棚の本は、きっちりと種類ごとに整理されていた。壁にアニメのポスターが貼ってあり、机には教科書とノートが開いてあった。
久斗は普段着のままベッドに横たわっている。まるで、勉強の合間にちょっと疲れて横になったという感じた。
私はベッドの傍らに膝をつき、久斗の脈を測った。きわめて弱いが確かに規則正しい鼓動を感じた。次にシャツのボタンを外して聴診器を当てる。
呼吸音と心音は、脈と同様に弱いが確かに聞こえる。だが、腸蠕動音は聞こえてこない。腸が活動を停止しているのだ。
進行性皮膚甲殻化症診断マニュアルを思い出す。深い昏睡状態、体温の低下、脈拍及び呼吸の低下。そして腸の活動停止。
確認された身体状況は、すべて久斗が進行性皮膚甲殻化症であることを示していた。
バックから箱を一つ取り出す。何かがあった時のため、一応用意しておいた進行性皮膚甲殻化症検査キットだ。
無菌パックを破って採血用の針と血液ホルダーを取り出し、久斗の肘裏の静脈に刺した。赤黒い血液がホルダーに溜っていく。針を抜き、ホルダーを開けてスポイトで血液を吸い取り、試薬へ一滴垂らした。
試薬が黄色く変色する。事実に圧倒され、めまいを起こした。
「どうなの」
傍らで息を呑んで、私の様子を食い入るようにしてみいた祐美恵が、更ににじり寄った。
「間違いない。久斗は〈蛹化現象〉を起こしている」
「ねえ、嘘でしょ。もう一回試験をしてみてよ。こんな薬ですぐにわかるはずないわ」
「無駄だ。今のところ再検査で覆ったという事例はないんだよ。たとえ病院で精密検査を受けたとしても、新たにわかるのは血液中のカビ菌の濃度ぐらいだ」
「嘘っ。ねえ久斗、起きてったら……。早く」
金切り声になりながら体を揺すり始めた祐美恵の肩を掴み、引き離そうとするが、更に大声を上げて振り払おうとした。私はため息をついてポケットから携帯を取り出した。
「ちょっと待って、どこへ連絡するの」
「市立病院の進行性皮膚甲殻化症対策課だ。〈蛹化〉の疑いのある患者は、速やかに指定医療機関へ通報する義務があるんだ」
「やめて、そんなことしたら、久斗はあなたが勤めるセンターへ収容されちゃうんでしょ」
「……そうだ」
「嫌よっ、絶対嫌」
「そんなこと言ったって、他に選択肢はないんだ」
「久斗を助ける方法はないの」
一瞬、骨髄実験を思い浮かべたが、すぐに打ち消した。まさか自分の息子を実験台になんて推薦はできないし、通るはずもない。仮にもしそれを行ってばれたら、大変な批判に晒されるのは間違いない。
「ないんだ……」
センターのラックにずらりと並ぶ〈蛹〉。あの中に久斗も並ぶというのか。足に力が入らなくなり、その場へへたり込んだ。
いつの間にか、開いたままのドアの向こうから、携帯の着信音が聞こえていた。祐美恵が立ち上がり、力ない足取りでリビングに向かう。
「もしもし……。先生……。ああ、ちょうど良かった。実は相談したいことがあったんです。久斗の様子がおかしくなって……。そうなんですよ」
祐美恵が戻ってきた。真剣な表情で、携帯を耳に押しつけている。
「主人ですか。ここにおります。え? お知り合いなんですか」
俺の知り合いだって。しかも先生と呼ばれる人で、俺知っていて、祐美恵が知らない人なんて……。誰なんだ
「あなた、橋山先生がお話しになりたいそうよ」
「橋山……。先生……」
携帯を受け取り、耳に当てる。
「もしもし」
「松木先生、お久しぶりです」
四角い顔と、口元は緩んでも、決して笑わない目が浮かび上がってくる。
一月前、ススキノで出会った橋山だった。