第1章(2)
村田は、美香とのことがばれたと直感した。
村田「おいおい、隣近所に聞こえるだろう」
彩夏「あんたが悪いんじゃないの。
みんなに聞こえるように怒鳴っているのよ。
バイキン、インキン。
聞かれて恥ずかしいでしょ。
風俗大好き野郎のボケナスが」
村田は、隣近所に聞かれないように玄関の
ドアをすばやく閉めると、彩夏の脇をすり
抜けて寝室に逃げ込んだ。
ただ、どうやら美香のことではないようだ。
彩夏がすかさず携帯電話を持って追ってきた。
村田「アツ、それ俺の携帯だろう」
彩夏「そうよ。今朝充電していて、
持って行くのを忘れたでしょう。
綾乃って誰なのよ。
『また、お会いしたいわ。
明日からゆかた祭りなの。
ノーブラなのよ。
うふふふふ』だって。
バカみたい。
それに対して何よ。
『綾乃ちゃんのゆかた姿
すてきだろーな。
あなたのおチチうえに
面会できるのを楽しみに
しています』だって。
なにこれ。
それにハートのマークを三つもつけて。
あなたって極めつけの大バカヤローだわ。
よく恥ずかしげもなく
『あなたのおチチうえに会いたい』
など言えるわね。変態」
村田「なんで俺の携帯なんか見るんだよ」
彩夏「なにも悪いことをしていないなら
見られたっていいじゃないの。
見られて困るようなことをしているから、
見られたくないんでしょ」
村田「こんなメールなんか半分お遊びなんだから」
彩夏「半分お遊びなら、半分本気なのね。
おチチうえに会って、ミルクをご馳走に
なってきたんじゃないの」
村田「実際には行かなかった。
だから、その証拠に早く帰ってきただろう」
彩夏「メールだけじゃないのよ。
知らない電話番号があるから、
応募の方ですかって聞かれて。
どこですかって訊いたら
ファッションヘルスですよって」
村田「その電話は、俺がかけたんじゃないよ。
いつか、友達に携帯を貸したことがあって、
多分そいつがかけたんだよ。
俺は知らない。
とにかく、他人の個人情報を勝手
に見るなよ」
彩夏「私たち他人なのね。
夫婦は法律上ゼロ親等なのよ。
他人になりたいのなら、
あした市役所にいって離婚届を
とってくるわ」
村田「そんなことは言っていないだろう」
彩夏「もうなにを言ってもだめよ。
いまあなたのパソコンの検索記録を
調べているんだから。
風俗のホームページにアクセスして
いるに決まっているわ」
村田「おいおい、おれのパソコンを勝手にさわるなよ」
彩夏「心にやましいところがあるからそう言うんでしょ」
村田「別にやましいところなんてないよ」
彩夏「じゃあ、調べたっていいじゃないの」
村田「おれのパスワードがよく判ったな」
彩夏「バッカじゃないの。
手帳に書いてあるじゃないの」
村田「なに、手帳まで見たのか」
彩夏「そこらへんにほっておくのが悪いのよ」
彩夏は、携帯電話を村田に向かって投げつけると、
部屋の外に出てドアを思いっきりバタンと閉めた。
すると、その勢いで頭上の壁にかかっていた絵画
が落ちてきて、その額縁の角が
彩夏の額にまともに当たった。
彩夏の額から血がぱっと噴出した。
彩夏は、落ちた絵画を拾い上げると、
また、ドアを開けて、それを村田に向かって
投げつけた。
村田は、すばやく下にしゃがんで
その飛来してくる絵画をかろうじて
かわした。
彩夏は、キッチンにもどると、
そこにあったイスを思い切りひざで
蹴飛ばした。
すねがイスの角にまともに当たった。
彼女は、あまりの痛さに「ウツ」とうめいて、
その場にうずくまった。
腹立たしいのと
あまりの痛さで涙が出てきた。
彩夏「チキショウ。あのオオバカヤローめが。
地獄に落ちろ」
彩夏は、のろいの言葉をはきながら
しばらく足をさすっていたが、
片足でどうにか立ち上がると
イスに腰を下ろした。
村田は、彩夏がキッチンに戻ったので
すこしほっとした。
(やれやれ)
村田は、このピンチをどう切り抜けるか
重大な局面に立たされていた。
今日の昼間に起こった
事件を彩夏に話してなぐさめて
もらうという甘い考えなど、
どこか遠くに飛んでしまっていた。
村田は、床から携帯電話を取り上げると、ボタン
を操作して、綾乃からきたメールと自分の送った
メールをすばやく削除した。
しかし、もうすでに読まれてしまったのだから
まさに後の祭りだ。
(今日は、なぜ携帯電話を持っていくのを忘れた
のだろう)
村田は、舌打ちした。メールを削除しておかな
かったことを含めて自分のドジさかげんに腹が
たった。
(それにしても、彩夏が俺の携帯電話をのぞき
見するような女だとは思わなかった。すっかり、
油断していた。夫婦といえどもこれからは、
個人情報の管理に十分な注意を払わなくては
ならない)
村田は、きもに銘じた。
村田は、とりあえず落ちている絵画を拾って
棚の上においた。幸いガラスはわれていない。
ただ、角に血がついている。
彼は、(大丈夫だろうか)とすこし心配したが
(ざまあみろ)という気持ちも少なからずあって
後ろめたい気持ちになった。
村田は、洋服ダンスに背広とネクタイをしまって
部屋を見回すとベッドに羽毛ふとんがないことに
気がついた。
彼が、窓の外を見ると狭い庭にふとんが
投げ捨てられている。
彼は、ガラス戸を開けて庭に出ると庭土で汚れた
ふとんを抱えて部屋に戻って、それをベッドの
うえに敷いた。
それから、ガラス戸を閉めるときちんと鍵をかけて、
厚いカーテンをひいた。彩夏が、また怒鳴った時に
隣近所に聞こえないようにする用心だ。
村田が、ドアをそっと音のしないように開けて
キッチンのほうをうかがうと、彩夏はテーブルの
上においたパソコンに向かってしきりにマウスを
操作している。
村田が、インターネットでアクセス
した履歴をチェックしているのだろう。
村田は、自分がアクセスした先を思い出そうと
した。
もしかすると、アダルトがあったかもしれない。
彼は、アクセスの履歴を削除しておかなかった
ことを後悔したが、もう今となってはどうにもならない。
(余計な機能が多すぎる)とOSのメーカーを恨む。
(もうどうにでもなれ)
村田は、まな板のコイに徹することに決めた。
村田が、腕時計を見るともう8時に近い。
彩夏の様子から、シャワーを浴びてさっぱりして、
ビールを飲むというわけにはいかないだろう。
しかし、腹はすいてきた。
村田は、部屋を出て彩夏の後ろから恐る恐る訊ねた。
村田「食事は、できてる?」
彩夏が、振り返って射るような目で彼を見た。
額から出た血が顔中に川のような筋を何本も
作っていて、すごい形相になっている。
まるで、怪談にでてくる幽霊女のようだ。
村田は、背筋にぞっとするような
寒気を感じてニ、三歩あとすざった。
彩夏「アホ、そんなもんあるわけないでしょ。
ウワキ男に食わせるものなんかないのよ」
そう言いながら、初めて気付いたように
彩夏は、村田の顔をしげしげと見つめた。
彩夏「なに、その顔?」
村田「引っかかれたんだ」
彩夏「誰に?」
村田「美香だ」
彩夏「あんた、美香と寝ていたのね!」
村田「バカ、そんなことあるわけないだろう。
会社で喧嘩したんだ」
彩夏「仕事のうえで喧嘩したぐらいで、顔なんか
ひっかく?」
村田「あのバカ女、なんでもやるんだ」
彩夏「女が男をひっかく時は、別れ話の痴話ゲンカ
と相場が決まっているのよ!」
村田は、これ以上何か言うと危険だと察知した。
(さわらぬ神にたたりなしだ)
彼は、廊下に散らばっている衣類を避けながら、
すばやく玄関に移動すると靴をはいた。
彩夏が追いかけてくる。
彩夏「どこに逃げるのよ」
村田「おなかが空いたから、ちょっと外で
食べてくる」
彩夏「ふん、大方おチチうえのミルク
でも飲みにいくんでしょう」
村田は、必死で話題を変えた。
村田「おい、額から血が出ているぞ」
村田は、ポケットからハンカチを取り出すと
彩夏に渡した。
しかし、そのハンカチは彼の顔の
ミミズ腫れからでた血を拭いたあとで、
すでに赤く染まっている。
彩夏「ふん、早く死ねばいいと思っているんでしょ」
彩夏は、ハンカチを床に投げ捨てると、床から
村田のワイシャツを取り上げて、それで顔を
ぬぐった。
ワイシャツに、血がべっとりと付いた。
彩夏の顔は、自動車の衝突事故で死にかかった人
のように見える。
村田は、その隙にすばやく玄関からでたが、
そこで、60代の初老の夫婦とはちあわせしそうに
なって驚いた。
隣の家の田中夫妻がさわぎを聞きつけて、玄関の
外から、様子をうかがっていたに違いない。
好子「大声で怒鳴る声が聞こえたものですから、
心配になって。何かあったんですか?」
田中夫妻の妻の好子が、村田の顔の血がにじんだ
ひっかき傷を見ながら、好奇心の塊のような表情を
浮かべて訊いた。
村田「いえいえ、ちょっとテレビの音を大きく
しすぎちゃいまして。ご迷惑をおかけしました」
その時、彩夏が玄関から、片足をびっこに引きずり
ながらすごい剣幕で出てきた。
額から、血がまだポタポタと滴っている。
彩夏は、田中夫妻にはかまわず血だらけの形相で
村田に向かって怒鳴った。
彩夏「もう帰ってこないでね。あなたのおかげで
身も心もずたずたに切り裂かれたわ。
覚えていらっしゃい。もう死んで化けてでてきて
やるから!」
田中夫妻は、片足をギクシャクさせながら、顔中
血だらけになってヒステリックに叫ぶ、彩夏の
鬼気迫る異様な姿に、目と口を一杯
に開いて声も出せない様子で驚いている。
村田は、田中夫妻に軽く会釈すると、脱兎
のごとく逃げ出した。
そんな村田の背中に向かって、彩夏が大声で叫ぶ。
彩夏「人殺し!」
彩夏は、玄関の中に戻るとドアを力まかせに閉めた。
−バタンー という家を揺るがすような音が静かな
住宅街に響き渡った。
続く