シュレーディンガーの動物園
あるところに、ひどく怠惰な青年がいた。
これといった仕事にも就かず、毎日なにもせずに過ごしていた。しかし、ついに親の堪忍袋の緒が切れた。朝からしつこく小言を浴びせられ、青年はしぶしぶ家を出て職探しに向かう羽目になった。
向かった先は、街の職業案内所である。とはいえ、真面目に働く気など毛頭ない。窓口の席についた青年は、年配の職員に向かって、わざとふざけた条件を突きつけた。
「あのう、一日に二時間だけで、あとはただ座っているだけの仕事ってありませんかね」
常識的に考えれば、そんな都合のいい仕事があるはずがない。職員から呆れられ、少しばかりの説教でもされれば、「希望に合う仕事がなかった」と堂々と親に言い訳ができると考えたのだった。
しかし、端末の画面を眺めていた職員は、顔色ひとつ変えずに淡々と答えた。
「あるよ」
「えっ?」
「座ったままある場所を見ているだけの仕事だ。しかも勤務時間は二時間。条件にぴったりじゃないか」
青年は拍子抜けしたが、自分で条件を出した以上、ここで断るわけにもいかない。かくして青年は、その職場へと面接に向かうことになったのである。
ーー
紹介されたのは、「シュレーディンガーの動物園」という名の施設だった。
さっそく園長との面接になったが、拍子抜けするほどあっさりと採用が決まってしまった。
「なにしろ、一日二時間の勤務だからね。もっと稼ぎたいという人にはひどく不人気で、常に人手不足なのだよ」
園長は、そう言って青年を歓迎した。
「さて、それではさっそく職場を案内しよう。ついてきたまえ」
採用が決まるなり、園長は立ち上がり、青年を連れて部屋を出た。
「君は、ここへ来たことはあるかね?」
前を歩きながら、園長が尋ねた。
「いえ、初めてです」
「そうか。なら、ここがどんな動物園かも説明しよう」
オフィスを出た二人は、入り口から順路を辿りながら、動物園を見学することにした。
青年は並んだ檻の中を見た。しかし、そこにいるのは犬やネズミといった、どこにでもいるような生き物ばかりだった。青年は面白みのない展示に、退屈そうにあくびを噛み殺した。
檻には、順路に沿って番号が付けられていた。しばらく進み、十番の檻の前に差し掛かると、中には大きなゾウがいた。ようやく動物園らしい生き物が出てきたなと青年が眺めていると、園長が立ち止まって口を開いた。
「あそこにゾウがいるだろう。だが、明日はキリンになっているかもしれない。この動物園では、どんな動物が展示されるか、確率で決まるのだよ」
言っている意味が分からず、青年は首をかしげた。
園長はかまわず説明を続けた。
「この動物園の檻はね、誰かが観測するまで中身が決まらないのだ。誰も見ていない間、あそこにはゾウがいるかもしれないし、キリンがいるかもしれないというわけだ」
三十七番の檻の前まで来ると、アンバランスなほど大きな尾を持つ白いヒョウがうろうろと歩き回っていた。
「今、この檻は私たちが観測しているから、ユキヒョウがいる確率が百パーセントになっている」
園長は、まるで当たり前の事実のように語った。
「しかし、ここから目を離すと、ユキヒョウである確率が少しずつ下がり、ほかの動物である確率が上がっていくのだよ。そしてもう一度観測すれば、また何かしらの動物に確率が収束する。来るたびに違う動物が見られるから、うちの動物園は人気なのだ」
やがて七十五番の檻の前に来ると、凄まじい咆哮が響き渡った。巨大なティラノサウルスが牙を剥いて吠えていた。
「君は運が良い。恐竜は人気だからね」
立ちすくむ青年に、園長は平然と続けた。
「浅い番号の檻では一般的な動物が出るのだが、深い番号になるにつれ、より珍しい動物や、こうしたすでに絶滅した動物などが出る傾向にある」
やがて順路の最後にたどり着いた。そこは八十四番の檻だったが、中には大きな透明の球体が一つ転がっているだけだった。
青年は、はたしてこれも動物なのだろうかと不思議に思い、八十四番で終わりという中途半端な数字に違和感を覚えた。
ーー
すべての展示を見終えると、二人はオフィスへと戻った。
「どうだったかね、うちの動物園は」
園長に尋ねられ、青年は素直な感想を述べた。
「まあ、後半はスリリングで悪くなかったですね。ただ、確率で展示が変わるというのが、いまいちピンときません。動物園って、そういうものなんですか」
青年の問いに、園長はあいまいにうなずいた。
「普通の動物園は違うだろうね。だが、ここではそれがルールなのだよ」
「はあ、そんなもんですか」
青年が適当に相槌を打つと、園長は椅子に腰を下ろして言った。
「さて、ここからが君の仕事の話だ。まずは君の疑問について説明しよう」
園長にすすめられ、青年も椅子に掛けた。
「実は、この動物園の檻は全部で百個ある。園には、全体の質量や、生態系の関係性も含めて、いろいろな整合性を保つ仕組みが働いていてね。ある檻の中身が確定すると、それに応じて、ほかの檻の中身の確率も変化する。そして、同じ動物が同時に二つの檻に出現することはない」
園長はそこで言葉を区切り、青年が話を飲み込むのを待って説明を続けた。
「すべての檻が未確定のとき、最初に現れるのは一般的な動物ばかりだ。しかし、多くの檻の動物が次々と確定していくにつれて、園全体のつじつまを合わせるために、珍しい動物が出現し始める。そうして、八十番台くらいからは未知の生物が出現するようになる」
青年は、少しずつ園長の奇妙な話に引き込まれていった。
「未知の生物は、毒性や凶暴性など、脅威度の判断が難しくて、展示に向かないのだが、八十四番までを一般に公開している。理由の半分は、九十番くらいまでならその脅威を抑え込めると考えているからだが、もう半分は、単純にそのほうが動物園として面白いからだ」
園長が楽しそうに笑うので、青年は興味本位で尋ねた。
「八十五番以降には、どんな動物が出るんですか」
園長は少し考えてから話し始めた。
「例えば、空中で停止した状態から時速四十キロへ急加速する飛行性能を持ち、獲物を噛み砕く顎に、強靭な装甲も備えている。しかも、神経毒と溶血毒をブレンドした毒は、単体で人を死に追いやる。そのうえ、数ヶ月で数百倍に数を増やし、巣に近付く相手には群れ全体で襲い掛かるほど凶暴。こんな奴だ」
「この世のものとは思えない、ふざけた生物ですね」
「君も知っている生物だよ。昔、九十二番の檻に現れたこの生物は、園から逃げ出し、そのまま外の生態系に入り込んでしまった。今ではオオスズメバチと呼ばれている」
青年は、意外な事実に息を呑んだ。
「まあ、必ずしも危険な生物が現れるわけではないのだがね。もしかしたら、人類を絶滅させるウイルスが現れないとも限らない。だから、八十五番以降のエリアについては、今は立ち入り禁止にしてある。どんなに危険な生物であっても、誰も観測しなければ、収束することはないのだよ」
園長はそこでふっと表情を緩め、もとの温和な顔に戻った。
「さて、この施設の事情もわかってもらったところで、具体的な仕事の話をしよう。君には、ある檻の動物を一日二時間、ただじっと見つめる仕事を頼みたいのだ」
ーー
青年は園長に連れられ、一般の順路からは隠された展示へと案内された。
そこには六番の檻があり、中には全裸の男がいた。焦点の定まらない目で虚空を見つめ、部屋の隅でじっとうずくまっている。
「君に監視してほしいのは、この檻だ。この動物を二十四時間の交代制で絶え間なく監視し、ここに存在を固定するのを手伝ってもらいたいのだ」
「人間ですよね。どうして檻の中に?」
「人間だって動物だ。一般公開されているほかの檻に、突然裸の男が現れたら、お客が嫌がるだろう?」
青年は驚きはしたが、園長の言うことにも一理あると思えた。しょせんは座って見ているだけの仕事である。断るほどの理由もなかった。
かくして、青年の勤務が始まった。
初日は研修も兼ねて、先輩の職員が横についた。
檻の中の男は、ただぼんやりと壁を見つめているだけだった。
「あの男、助けてくれとか、ここから出せとか言わないんですね」
青年が不思議そうに尋ねると、先輩は退屈そうに肩をすくめた。
「ああ。どこかの誰かが転送されてくるわけではないからね。いきなり大人の人間として出現するんだ。だから、言葉は理解していない」
檻の中の男はゆっくりと首を巡らせ、今度は自分の手のひらを意味もなく眺め始めた。
「どこから来たのか聞けたら、面白そうですけどね」
青年が言うと、先輩は首を横に振った。
「昔、それを試したことがあるらしい。言葉を教えてインタビューしたそうだが、ここに出現するより前の記憶はなにもなかったそうだよ。そんなことより、対象から目を離さないようにね」
青年は慌てて檻の中の男に視線を戻した。
ーー
研修といっても、特別なことがあるわけではない。ただ座って見ているだけの仕事だ。
二日目からは、一人で監視することになった。
しかし、檻の中の男の動きといえば、時折ぽりぽりと腹を掻く程度である。
あまりにも暇だった。生来の怠惰な性格が災いし、青年は勤務開始からわずか三十分で、あっさりと居眠りをしてしまった。
やがて交代の時間になった。
肩を乱暴に揺さぶられ、青年は跳び起きた。見ると、交代要員の男が血相を変えて立っていた。
「おい、まさか寝ていたのか!」
「しまった」
青年は慌てて檻に視線を向けた。
「馬鹿、見るな!」
交代要員が叫んだが、遅かった。誰も観測していなかったことで、人間の存在確率はすでに薄れきっていたのだ。そして青年が再び観測したことによって、曖昧になっていた確率は、改めて別の動物へと収束してしまった。
檻の中にいたのは、人間ではなかった。
サラブレッドのようなしなやかな体つきで、光の加減では銀色にも見える純白の毛並みをしている。額からは鋭く突き出た一本の角があった。いわゆるユニコーンというやつだった。
「……今日はいったん帰れ」
頭を抱え込んだ交代要員にそう言い渡され、青年はそそくさと退勤させられた。
ーー
翌日、オフィスに呼び出された青年は、あの後、未知の生物の脅威度の評価やら検査やらで、園内は大騒ぎになったと聞かされた。
「クビですか」と恐る恐る尋ねたが、園長はあっけらかんとしていた。
「クビになんてしないとも。実はたまにあるトラブルでね。人間なんてありふれた動物は、収束と発散を繰り返せば、せいぜい二日もあればまた出てくる。その間は休園することになるが、そんな損失、あのユニコーンを展示すればすぐに元が取れるだろう」
園長はどこか上機嫌ですらあった。
「まあ、今度からはむやみに収束させず、まずは相談してほしい。ほかの檻の確率が発散している開園前なら、いきなり危険な生物が現れることはまずないからね」
事実、その翌日には監視の仕事が再開された。
今度の仕事場は三番の檻だった。
ユニコーンの特別展示も決まったようで、二十四時間監視の人員が新たに確保できるまで、臨時で二時間の追加勤務を頼まれた。居眠りをした負い目もあってさすがに断れず、人間を二時間、ユニコーンを二時間監視するというシフトになった。
ユニコーンの監視中、展示を見に来た家族連れが楽しそうに笑い合っている姿を見て、青年はふと微笑んだ。
「すごいねー!」と、小さな子どもが無邪気にはしゃいでいた。
「よかったわね。来週もまた来ようか」と、母親が優しく笑いかけた。
すると、子どもは目を輝かせて、こう言った。
「ううん、来週はシュレーディンガーの遊園地がいい!」




