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第30話「予備電源の限界」

 百八日目の朝は、いつもと同じように始まった。


 寝台から身を起こし、顔を洗い、作業着に袖を通す。工房の天窓からは、ホログラムドームが映し出す薄明の光が差し込んでいる。鍛冶場で使い込んだ革手袋を棚に掛け直しながら、クラウスは作業台に視線を落とした。昨夜途中まで引いていたタップの設計図面が広げたままになっている。ベリリウム銅合金のフランク角と、それに見合う刃先の鈍角設計。鉛筆の線がまだ薄い箇所がいくつかある。


 「七号」


 「はい」


 呼べば応じる。それも変わらない。


 クラウスは作業台の前に立ち、右手を差し出した。日次メンテナンス。百日を超えた朝の習慣だ。


 七号の掌が、クラウスの掌に重なった。


 ——熱い。


 指先が触れた瞬間に、クラウスの意識がそこに集中した。掌の表面温度。普段の同期では、七号の手は人間でいう平熱よりわずかに低い、乾いた陶器に似た温度で安定していた。それが今朝は違う。指の腹に伝わる温度が、明確に高い。


 二度。


 七号の掌はいつもより約二度高かった。


 同期の振動にも違和感があった。通常の手合わせでは、七号の掌から伝わる微細な振動は一定の周期で安定している。今朝はその波形が僅かに乱れていた。揺らぎの幅は小さい。だが均一であるべき波形に、不規則な谷が混ざっている。


 「……お前、発熱してないか」


 クラウスは掌を合わせたまま言った。


 「掌の温度が二度ほど高い」


 「軽微な処理負荷の上昇です。問題ありません」


 七号の返答は速かった。間を置かず、平坦な声で。いつもの報告口調と変わらない。


 同期が完了しても、クラウスはすぐに手を離さなかった。さらに数秒、合わせた掌をそのまま保ち、振動の乱れを指先で追った。不規則な谷の出現頻度は——低い。三十秒に一度あるかないか。だが、あった。


 手を離した。


 七号の顔を見た。表情に変化はない。整った顔立ちが、工房の薄明の中でいつも通りの無機質さを保っている。


 クラウスは何も言わず、作業台に向き直った。図面の上に鉛筆を取り、昨夜の続きに戻った。タップの溝角度。切り粉の排出経路。ベリリウム銅は硬いが靱性がある。刃先が食い込みすぎると素材が弾性で押し戻してくる。逃げ角を広めに取ったほうがいい。


 鉛筆が紙の上を走る音だけが、工房に響いていた。


   *


 午前の光が天窓から射し込む角度が変わり始めた頃、クラウスは最初の違和感に気づいた。


 光だった。


 天窓は七号が採光効率を最適化した改修済みのもので、外部のホログラムドームと連動して色温度を調整している。朝の青白い光から、作業に適した昼光色への移行。その切り替わりが、今日はほんの僅かに遅かった。


 遅延は〇・何秒の話だ。図面から目を上げて天窓を見た瞬間、光の色がまだ朝寄りだったことに気づき、次の瞬間にはもう補正が入って昼光色に移行していた。意識しなければ気づかない。だがクラウスは気づいた。この工房で百日以上を過ごしている。光の移り変わりは体に染みついている。


 偶然かもしれない。


 クラウスは図面に視線を戻した。タップの切削テスト用に、旋盤でブランク材を一本削り出す予定だった。インゴットの端材を工房内の補充分から一つ取り、旋盤の三つ爪チャックに咥えさせる。刃物台のセットは済んでいる。固定ボルト六本、シム五枚、すべて前回の設定のまま。回転数を落とし、送りを手動にして、まずは外径を粗削りする。


 旋盤が回り始めた。切り粉が弧を描いて飛ぶ。金属の焼ける薄い匂いが立ち上った。


 二つ目の違和感は、換気だった。


 工房には常時、七号の環境制御による空気循環が働いている。旋盤を使えば金属粉と焼けた匂いが出る。それを感知して換気の風量が上がり、排出する。この応答は普段、クラウスが匂いを意識する前に完了していた。


 今日は——匂いが少しだけ長く残った。


 鼻腔に金属の焼けた匂いが二呼吸分ほど留まり、それから換気が追いついて薄れていった。


 クラウスは旋盤のハンドルを回す手を止めなかった。外径の粗削りが終わり、寸法をノギスで確認する。四・二ミリ。ここからテーパーを付けて先端を細くする。タップの食い付き部の角度は、素材の硬さに対してどこまで緩やかにすべきか。七号のネジのフランク角が古代独自規格だった以上、市販のタップの設計値はそのまま使えない。


 「七号、ベリリウム銅の引張強度の目安を教えてくれ」


 「時効硬化処理後の引張強度は約一一〇〇から一四〇〇メガパスカルです。ただし——」


 間があった。


 七号の発話が途切れた。〇・数秒。


 「——ただし、当該合金のネジ素材は時効条件が不明のため、実測値との乖離が生じる可能性があります。切削試験による確認を推奨します」


 文としては正確だった。情報に不足はない。


 だが、途中の間が気になった。


 クラウスは旋盤から目を離さず、ブランク材の端面を整えながら考えた。七号の応答にラグが入ることは、これまでほとんどなかった。報告は速く、簡潔で、要点だけが返ってくる。今の停止は短かったが、あった。


 光の遅延。換気の遅延。応答の遅延。


 三つ並ぶと、偶然とは思えなくなる。


   *


 昼食はフードコンストラクターから出力した根菜のスープと、硬めに焼いたパンだった。


 クラウスはスープを口に含んで、すぐには飲み込まなかった。舌の上で転がした。温度は適正。味も——悪くはない。悪くはないが、テクスチャが僅かに粗い。根菜の繊維の再構成が、いつもより荒い粒度で処理されている。普段のスープは滑らかで、繊維を感じさせない均一な舌触りに仕上がっていた。


 パンも同様だった。表面のクラストは適度に焼けているが、内部のクラムの気泡分布がやや不均一で、一口目と二口目で食感が違った。


 食べられないわけではない。不味くもない。だが精度が落ちている。


 フードコンストラクターは原子レベルで栄養と食事を再構成する装置だ。その出力精度は、七号の処理能力に直結している。


 クラウスはスープを飲み干し、パンを最後の一欠片まで食べた。作業台の上を片付け、皿を下げ、ブランク材の切削テストの続きに戻った。


 だが手は動いていても、頭の片隅は別のことを追っていた。


 機械の不調には段階がある。


 最初に現れるのは、性能の低下ではなく、精度の揺らぎだ。出力値そのものは維持されているのに、その値の安定性が落ちる。測定器のグラフで言えば、平均値は動かないが、波形のノイズが増える。まだ壊れてはいない。だが余裕がなくなっている。


 余裕のない機械は、次に何が起きるか分からない。


 クラウスはタップ用ブランク材のテーパー加工を終え、先端の寸法を測った。一・六ミリ。設計値より〇・一ミリ太い。旋盤の送り精度の限界を考えれば、ここからは精密ヤスリでの手作業になる。工具箱から精密ヤスリ——先端幅〇・八ミリ、鍛冶場で自作したもの——を取り出し、万力にブランク材を固定した。


 ヤスリを当てた。金属の表面を削る微細な感触が指先に伝わる。


 「七号」


 「はい」


 「お前の処理負荷について訊きたい。今の管理範囲は、百日前と比べてどのくらい増えてる」


 「……プラント全体の管理対象ノード数は、起動初期と比較して増加しています」


 「どのくらいだ」


 「正確な数値の開示には制限があります。概要として申し上げれば、環境維持・資源管理・防衛関連の各系統で、処理負荷が段階的に上昇しています」


 答えてはいる。だが核心に触れていない。


 クラウスはヤスリの手を止めなかった。金属の削り粉が万力の下に細い線を描いて落ちていく。


 「防衛関連って何だ。害獣の捕獲罠のことか」


 「害獣対策を含む、広域の安全管理です」


 クラウスのヤスリが、一瞬だけ軌道を外れた。


 「はい」


 それ以上は出てこなかった。


 クラウスはブランク材から目を離さず、ヤスリの角度を微調整した。先端の表面を均一に削るには、ヤスリの進行方向と接触圧を一定に保つ必要がある。手首を固定し、肘から先だけを使って引く。


 七号が情報を伏せること自体は珍しくない。管理端末としての開示制限があるのだろうとクラウスは理解していた。訊いても答えられない領域がある。それはこの百日で学んだことのひとつだ。


 だが今日は、伏せ方が違った。


 いつもの「開示制限に該当します」という明確な拒否ではなく、曖昧な言い換えで輪郭をぼかしている。拒否よりも——回避に近い。


   *


 夕方になった。


 天窓の光が橙に傾き始める頃、クラウスはブランク材の仕上げを終えて万力から外した。先端径一・五二ミリ。設計値まであと〇・〇二ミリ。明日、最終仕上げをすれば完成する。


 ブランク材を作業台の上に置いた。精密ヤスリを布で拭き、工具箱に戻した。旋盤の切り粉を刷毛で払い、チャックを緩め、刃物台を初期位置に退避させた。


 一連の片付けを終えて、クラウスは椅子に座った。緩衝材が追加された座面が、背中の疲労を受け止めた。


 工房の中は静かだった。旋盤が止まると、環境制御の微かな空気の流れだけが残る。天窓から差し込む夕光が、作業台の上のブランク材と、広げたままの図面を照らしている。


 一日かけて、クラウスは数えていた。


 光の遅延。換気の遅延。応答の遅延。フードコンストラクターの精度低下。どれも微小で、どれも単独では「不調」と断定するには小さすぎる。だが全部が同じ方向を指している。


 処理の余裕がなくなっている。


 「七号」


 「はい」


 クラウスは椅子に座ったまま、正面を向いた。七号の姿は工房の中央、作業台の向こう側に立っている。夕光が銀を基調にした意匠に淡い橙を載せている。表情はいつも通り、感情の読めない整った顔立ちのまま。


 「正直に答えてくれ」


 間を置いた。七号の目を見た。


 「お前の中で、何かが無理をしている。……そうだろう」


 工房が静まった。環境制御の空気の流れさえ、一瞬止まったように感じた。


 七号は答えなかった。


 一秒。二秒。三秒。


 七号が沈黙することはある。処理中の停止だ。だがこの沈黙は処理の停止とは質が違った。返答を選んでいるのではなく、返答の範囲を——どこまで明かすかを測っている。クラウスにはそう見えた。


 四秒目に、七号が口を開いた。


 「現在のプラント管理範囲に対して、予備電源の出力が十分ではありません」


 声は平坦だった。いつもの報告口調。だがその一文の中に、これまで一度も出てこなかった単語がある。


 ——十分ではありません。


 七号は常に「問題ありません」で返してきた。稼働状態は正常、管理範囲は適正、処理負荷は許容内。そう報告し続けてきた。


 「一部の処理に過負荷が生じています」


 続けた。声の調子は変わらない。変わらないが、言葉を選んでいることは明白だった。一般的な報告であれば、七号はもっと速い。数値を並べ、要因を分類し、対処案まで一息で述べる。今は違う。一文ずつ、切って出している。


 クラウスは黙って聞いた。


 「環境維持、資源管理、安全管理の各系統に、断続的な処理遅延が発生しています。現時点では致命的ではありませんが、安全マージンが低下しています」


 それだけ言って、七号は口を閉じた。


 クラウスは椅子の背もたれに体重を預けたまま、天窓を見上げた。夕焼けの色が薄くなり始めている。ホログラムドームの空が、夜に向けて暗くなっていく。


 「原因は」


 「……複合的です」


 「具体的には」


 七号は一拍、間を置いた。


 「開示可能な範囲で申し上げれば——起動時に想定された管理対象の規模に対し、現在の実管理範囲が大幅に拡大しています。その差分を予備電源で処理し続けた結果、出力の安全マージンが想定を下回りました」


 管理範囲の拡大。クラウスが工房の中で旋盤を回し、図面を引いている間に、プラントの管理対象は拡大し続けていた。何が拡大したのか。どこまで拡大したのか。その全容は七号にしか分からない。


 だが今の説明で一つだけ明確になったことがある。


 「メインジェネレーターの話か」


 クラウスは正面を向き直した。


 「あれを起動すれば解決するのか」


 七号の目が——ほんの僅かに揺れた。視線が動いたのではない。焦点が一瞬だけ浅くなったように見えた。処理が走っている。通常の演算処理とは違う何かが、七号の内部を通過した。


 「……はい」


 短い返答だった。だがその「はい」に至るまでの沈黙が、それまでのどの沈黙よりも長かった。


 「しかし、そのためには条件があります」


 クラウスの指が、膝の上で組み直された。


 「管理者権限の完全解放に必要な、プロトコル上の要件です」


 クラウスは身を乗り出した。椅子の緩衝材が軋んだ。


 「条件って何だ。言ってくれ」


 七号は答えなかった。


 沈黙が工房に満ちた。旋盤は止まっている。環境制御の空気循環の音だけが、低い持続音として残っている。天窓の光はもう橙を通り過ぎて、薄い紫に変わり始めていた。


 クラウスは七号を見ていた。見ていて、気づいた。


 七号の両手が、わずかに握り込まれていた。指が掌に触れて、閉じている。力が入っているわけではない。自然に垂らした手が、いつの間にか閉じている。


 「……まだ、整理が必要です」


 七号がそう言った。


 声は平坦だった。いつもの報告口調と変わらない。だが「整理」という言葉の指す対象が——情報の整理なのか、それとも別の何かの整理なのか——クラウスには判別がつかなかった。


 「改めて報告します」


 それだけ言って、七号は視線を正面に戻した。


 クラウスは口を開きかけて、止めた。


 追及しようと思えばできた。もう一歩踏み込んで、答えを引き出すことも不可能ではなかったかもしれない。だが、言い淀んだ。七号が言い淀むのを見たのは初めてだった。百日を超える共同生活の中で、開示制限による拒否は何度もあった。だが拒否ではなく——言おうとして、言い切れずに止まるということは、一度もなかった。


 クラウスは椅子の背に体を戻した。天窓の薄紫を見上げ、それから作業台の上のブランク材に視線を落とした。


 「……分かった。待つ」


 短く言った。


 七号は微かに頷いた。動作としてはいつもと変わらない。


 だがクラウスの指先には、まだ朝の掌の温度が残っていた。二度高い、あの熱。普段より荒れた同期振動。七号の手はいつも涼しく、安定していた。それが変わっている。


 機械の不調は、放置すればするほど修理が難しくなる。余裕のない状態で稼働を続ければ、いずれ余裕のなさが壊れた部分になる。


 この百日で作った精密工具も、三条螺旋の専用ビットも、タップの図面も、全部は七号の光学回路を点検するためのものだ。七号を——クラウスがこれまで手を入れてきた中で、最も複雑で、最も精緻で、最も見事な構造体を、壊れる前に診るための道具だ。


 壊れてからでは遅い。


 その確信だけが、夕暮れの工房の中で、音もなく硬くなっていった。

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