表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/12

第3話「起動――七号との遭遇」

 仮拠点に戻ったとき、空はすでに赤銅色に暗んでいた。


 簡易テントの傍に工具箱を降ろし、ポケットからガラス片を取り出す。五つ。割れ口の鋭い、大きさも厚みもばらばらの欠片たち。ペンライトの光をかざすと、そのうち二つだけが濁りの少ない透過を見せた。残りは気泡が多すぎるか、内部にひびが走っている。


 使えるのは二つ。足りない。


 クラウスは工具箱から平ヤスリを引き抜き、テントの横に胡座をかいた。ガラスの角を慎重に削り始める。一削りごとに微細な粉が指先にまとわりつく。ヤスリの目が粗すぎる。本来なら研磨剤と水を使い、番手を段階的に上げていくべき工程だ。だが研磨剤はない。あるのは平ヤスリと、精密ヤスリの細いやつが二本。


 角度を変え、光を透かし、また削る。ペンライトを口に咥えて両手を空ける。左手でガラスを固定し、右手でヤスリを引く。引く方向だけに力を入れ、押し戻すときは浮かせる。一方向研磨。精密ヤスリに持ち替え、透過面の凹凸を少しずつ均していく。


 削りすぎれば割れる。力を入れすぎても割れる。ガラスは修正がきかない。一つの失敗がそのまま一つの素材の喪失になる。


 最初の一つを仕上げるまでに、二時間以上かかった。


 粗削りの、歪んだ四角形。光学部品と呼ぶにはあまりに不格好な代物だった。だがペンライトの光を入射面から通すと、反対側にぼんやりとした光の帯が映る。屈折している。光は、曲がっている。


 使える。


 クラウスは欠片を地面に置き、両手の指を開閉した。右手の人差し指と中指の腹が擦り切れて、じくじくと熱い。ヤスリを握っていた掌の皮も、一部が白く浮き上がっている。


 構わない。あと最低三つ。できれば五つ。予備を含めて。


 二つ目のガラス片を取り上げ、ヤスリを握り直した。


 空が完全に暗くなっても、クラウスは手を止めなかった。


   *


 夜が深まるにつれて、気温が落ちた。吐く息が白い。手がかじかむ前に、と工具箱からウエスを引っ張り出し、指先だけ出す形で掌に巻きつけた。グリップがわずかに安定する。


 三つ目のプリズムの研磨中に、ガラスの端が弾けた。親指の付け根に細い切り傷。血の珠が滲む。クラウスはウエスの端で押さえ、三秒待ってから指を離した。出血はすぐ止まった。浅い。作業に支障はない。


 割れたガラス片を脇にどけ、次の素材を手に取る。


 透過率の低い欠片は、削り込めば使えるかもしれなかった。気泡の多い層を避けて薄く削り出す。光の通る部分だけを残す。材料が限られている以上、使えるものは使う。


 研磨に没頭しているあいだ、クラウスの意識は手元と光だけに狭まった。気温も、疲労も、腹の減り具合も、思考の外に退いていく。工具の角度、ガラスの感触、ペンライトの光が透過面を抜ける瞬間の色の変化。それだけが、今ここにある全部だった。


 四つ目を仕上げたとき、東の空がわずかに白みかけていた。


 テントの横に並べた四つのプリズム。大きさは親指の先から第一関節ほど。どれも面は歪み、角は不揃いで、市販品なら検品で弾かれる出来だ。だが四つとも、光を通す。


 次は鏡面チューブだった。


 クラウスは立ち上がり、腰を伸ばした。膝と背中が軋む。一晩座りっぱなしの代償がじわりと来ている。


 プラントの外殻付近に散在していた廃材の中から、金属パイプを二本回収してあった。直径三センチほどの薄い管。内壁が酸化して曇っているが、元の素材は悪くない。


 精密ヤスリの細い方を管の内部に差し込み、内壁を磨く。手が届く範囲を往復させ、酸化膜を剥がしていく。ヤスリが通らない奥の部分は、ウエスを細く裂いてヤスリの先端に巻き付け、押し込んで回す。簡易的な研磨棒の即席版。


 一本磨き上げるのに一時間。指先の感覚で内壁の滑らかさを確かめ、管の一端から覗き込むと、反対側の光が丸い円として映った。完全な鏡面には程遠い。しかし、光の方向を整える程度の反射は得られている。


 二本目も同じ工程で仕上げた。


 プリズム四つ、鏡面チューブ二本。手元の残りの携帯食料を一食分齧りながら、クラウスは道具を検分した。


 足りるか。


 あのプリズムポートの入射口に刻まれていた溝のパターンを思い出す。複数の角度に分岐するバイパスガイド。光の経路は一本ではなかった。少なくとも三つの入射面に、それぞれ異なる角度で光を導く必要がある——と、溝の形状から読み取れた。


 四つあれば、予備を含めて足りるはずだ。鏡面チューブは光の方向を中継するためのリレー管として使う。パイプの長さが合わなければ、現場で切断する。


 「この設計思想なら……これで十分なはずだ」


 声に出したのは、確認のためだった。誰に聞かせるでもない。ただ、設計者に向けて——あの溝を彫った、顔も知らない古代の職人に向けて、ひとりごとを返しただけだ。


 工具箱にプリズムとチューブを詰め、ペンライトの電池残量を確認した。心もとないが、プリズムポートの微弱な発光がある。あれを頼りにできるなら、ペンライトは要所だけで使えばいい。


 南西へ、歩き出した。


   *


 外殻の開口部に着いたのは、朝の光がスクラップ原野を横から照らし始めた頃だった。


 工具箱を先に開口部の縁から内側へ降ろす。金属面に当たる鈍い音。次に自分の体を縁にかけ、腕で支えながら一メートル半の落差を降りた。着地の衝撃が膝から腰に抜ける。ほぼ一日ぶりの内部。


 ペンライトを点けず、目を暗さに慣らした。


 前方に、青白い光の塊がある。プリズムポート。高さ約八メートルの多面体が、昨日と変わらず微弱な発光を続けている。光量はわずかだが、構造体の輪郭と、その手前の床面を歩くには足りた。


 足の裏に振動が伝わってくる。三秒間隔の脈動。昨日、触れた直後に変わったリズムのまま。


 工具箱を提げてプリズムポートの基部まで歩く。十五歩。床面は平坦で、障害物はない。


 基部に立ち、見上げた。多面体の下部、入射口がある面。手彫りの溝が刻まれた面は、クラウスの目の高さよりやや上に位置している。


 工具箱を開け、ペンライトを点灯。光を入射口に向けた。


 溝が浮かび上がる。三本の放射状のガイドライン。中心の一点から、それぞれ異なる角度で外側へ走っている。各ガイドの終端には、プリズムを差し込むための凹みが設けられていた。指先でなぞると、凹みの深さは一センチ弱。手製のプリズムの厚みと、おおむね一致する。


 一本目のガイドラインをペンライトでたどる。中心から右斜め上方へ約四十五度。凹みの角度は、入射した光を構造体の内部へ九十度屈折させる方向に切ってある。つまり、ここにプリズムを置けば、正面から入った光が内部の上方へ折れ曲がる。


 二本目は左斜め下方。三本目はほぼ水平に奥へ。


 三方向への分岐。光を三つの経路に分けて送り込む設計。


 クラウスは工具箱から最初のプリズムを取り出した。四つのうち、最も面の歪みが少ないもの。右斜め上方のガイド終端の凹みに、慎重にあてがう。


 角度が合わない。プリズムの研磨面と凹みの角度に、わずかなずれがある。


 ヤスリで削る。現場合わせ。凹みの壁面にプリズムの端を軽く押し当てて、干渉する部分を目視で確認し、その面だけを精密ヤスリで数回さらう。再度あてがう。今度はぐらつくが、角度は近い。


 ウエスの切れ端を凹みの底に敷き、プリズムを押し込んだ。布がクッションになり、ガラスの面が凹みの壁に密着する。固定は完璧ではないが、触れて動かない程度には収まった。


 ペンライトの光を入射口の中心に当てる。


 光がプリズムを貫き、屈折した。


 上方に向けて折れた光の筋が、プリズムポートの内壁を駆け上がっていく。二メートル、三メートル。その先は暗くて見えない。だが光の筋は途切れずに、構造体の奥へ吸い込まれていった。


 その瞬間。


 プリズムポートの内壁に、微細な変化が走った。光の筋が触れた面だけ、元からある青白い発光がわずかに明度を増した。暗い靄のなかに一本の血管が浮いたような、かすかな輝線。


 応答している。


 クラウスの手が止まった。ペンライトを持つ右手がそのままの角度で固定され、視線だけが光の行方を追っている。


 応答だ。光を入れたことに対する、システム側の反応。送り込んだ光を——この歪んだ、粗削りの、本来の規格からはかけ離れた光を、受け入れている。


 補正している、と言うべきかもしれなかった。プリズムが曲げた光の帯は拡散しかけていたが、内壁に触れた途端にわずかに収束した。構造体自身が、入射光の歪みを読み取り、通すために光路を微調整しているように見えた。


 古代の設計者は、こうなることを想定していたのか。


 規格通りの完璧な光でなくても、人間が手作業でねじ込んだ粗削りのバイパスでも、受け入れるだけの許容幅をシステムに持たせていた。最後に頼れるのは泥臭い手作業だと、本気で信じた設計。その信念が、数千年後の今、一人の整備士の手製プリズムを拒まずに通している。


 「……よく、できてるな」


 呟きは反響もなく消えた。


 二本目のガイドに取りかかる。左斜め下方。このプリズムは一つ目より面の歪みが大きく、凹みとの適合に手間取った。三回削り直し、二回差し直して、ようやく光軸が安定した。


 ペンライトの光を中心に戻す。二つのプリズムが同時に光を受け、上方と下方へ分岐した光の筋が構造体の内部を走った。二本目が触れた面も同様に、青白い発光が明度を増す。


 さらに、変化があった。


 一本目の光路と二本目の光路が、内壁のどこかで交差しているのか——構造体の上部から、低い共振音が降りてきた。可聴域ぎりぎりの、耳よりも骨に響く重低音。床面の振動が一瞬だけ乱れ、三秒間隔の脈動が二秒半に縮まった。


 すぐに三秒に戻る。だが、聞こえた。反応した。


 三本目。水平方向への最後のガイド。残りのプリズム二つのうち、透過率が高い方を選ぶ。凹みに押し込む作業は慣れてきた。一度目の合わせで角度を読み、二削りで修正し、ウエスを噛ませて固定。


 ペンライトの光を当てる。


 三本目の光の筋が水平に走り、構造体の奥へ伸びていく。


 プリズムポートの内壁全体が、呼吸するように明滅した。


 一回。二回。三回目で、明滅が止まった。光が安定した。三本の経路すべてが接続され、内壁の青白い発光が均一な輝度に落ち着く。構造体の中を光が循環し始めている。入射した光がプリズムで分岐し、内壁の反射と補正を受けて巡回し、エネルギーとして蓄積されていく。


 手製のプリズムが差し込まれた三つの入射口を起点に、光の回路が完成しつつあった。


 だが、完全ではなかった。


 光の巡回が始まってから数秒後、三つの経路のうち上方への一本がちらつき始めた。プリズムの面の歪みが大きく、屈折角のずれが蓄積して光路が逸れかけている。内壁の補正が追いつかない。


 クラウスはペンライトを口に咥え直し、両手を空けた。工具箱から四つ目のプリズム——予備を取り出す。一つ目を凹みから抜き、予備と入れ替える。こちらの方が面の精度がわずかに高い。


 入れ替えた瞬間、光のちらつきが止まった。三本の経路が安定し、構造体全体の発光が一段階引き上がった。青白い光が周囲の床面まで届くようになり、ペンライトがなくても足元が見えるほどの明度になった。


 足元の振動が変わった。


 三秒間隔が、二秒に。脈動が明らかに速い。構造体の奥で、何かが動き始めている。エネルギーの循環が閾値を超えて、待機していたシステムが逐次的に立ち上がっている——整備士の勘が、そう告げていた。


 鏡面チューブの出番は、来なかった。プリズムの直接入射だけで光路が成立した。中継管なしで三経路が繋がるなら、設計はさらにシンプルだったことになる。必要最小限の介入で起動できるよう、冗長性を削りに削った設計。職人の腕を信じた、潔い構造。


 光量が上がっていく。


 プリズムポートの多面体が、もはや微弱な発光ではなかった。各面が個別の輝度で光り、全体が複雑な明暗のパターンを描いている。八メートルの高さを見上げると、上部の面が最も強く発光し、頂点付近から垂直に光の柱が立ち上がっていた。


 天井の見えない暗闇の中に、光の柱が消えていく。


 構造体の背後に、空間がある。


 今まで暗くて見えなかったプリズムポートの裏側に、光が回り込んだことで輪郭が浮かんだ。平坦な壁面が背後に広がり、その中央に、何かが——


 空気が変わった。


 温度が上がったのではない。湿度が変わったのでもない。空気の「質」が変わった。吸い込んだとき肺の奥に届く感触が、さっきまでの埃っぽい停滞した空気と違う。清浄で、わずかに温かい。まるで空調が入ったビルの中に突然立っているような——


 振動が止まった。


 足の裏を通して感じ続けていた、二秒間隔の脈動。それが、ふっと消えた。


 静寂が落ちてくる。プリズムポートの発光は続いている。光の柱も消えていない。だが振動だけが、完全に止まった。


 クラウスは息を詰めて足元を見た。金属の床面が微かに光を反射している。振動がないのではなく、振動が感知できないほど滑らかになったのかもしれない。あるいは——


 背後で、光が動いた。


 プリズムポートの向こう側。背面の壁に面した空間。そこに、光の帯が一本、床面から垂直に立ち上がった。


 クラウスは振り返った。


 光は人の形をしていた。


 正確には、光の粒子が人型のシルエットを象るように集束し、輪郭から内側へ向かって徐々に密度を増していた。頭部、肩、腕、胴体。順に形を得ていく像は、身長にしてクラウスよりやや低い。


 最後に像の表面が確定し、光の粒子が消えて、そこに一人の女が立っていた。


 白と銀を基調にした、人工的な意匠。肌は白磁のように均質で、髪は銀糸を束ねたように光沢があった。顔立ちは整っていたが、それは人間の「美しさ」とは質が違う。対称性が高すぎた。左右が寸分違わず揃った目、鼻梁、唇の曲線。生体のランダムさが排除された、設計された造形。


 無表情だった。瞳がクラウスを捉えたが、そこに感情の動きは読み取れない。


 沈黙が三秒。


 女が口を開いた。


 「報告します」


 声は低めの、平坦なトーンだった。抑揚が乏しく、しかし明瞭に通る。


 「中央管理アバター、機能再開。予備系統によるプラント基本機能の限定起動を確認しました」


 クラウスは口を開きかけ、閉じ、もう一度開いた。言葉が出てこない。


 目の前の女——管理アバターと名乗った存在は、一拍の間を置いてこちらに視線を合わせた。瞳の色は淡い銀青。その奥で、何かが走査するように微細な明滅が走った。


 「生体波形をスキャンしました」


 クラウスの全身を、見えない視線が撫でるように走った。物理的な接触はない。だが、皮膚の上を何かが通過していくような、ぞわりとした感覚があった。


 「アナログ整備による光路復旧を検出。入力された光学信号のパターンは非規格ですが、設計仕様上の許容範囲に適合しています」


 女の声が、わずかに変わった。平坦さは同じだが、発話の速度がわずかに落ちた。


 「バイパスの施工精度、素材加工の手法、光路解読のアプローチ。すべてにおいて、本プラントの緊急復旧プロトコルに対する正確な理解が認められます」


 何を言っている。クラウスは自分の思考を整理しようとしたが、言葉の洪水に追いつかない。管理アバター。プラント。光路復旧。緊急復旧プロトコル。


 目の前の存在が、自分がやった修理を——プリズムを削って差し込んだだけの、泥臭い手作業を——正式な復旧手順として認識している。


 「結論を報告します」


 女は一歩、近づいた。距離が詰まる。三歩分あった間合いが二歩になる。


 「あなたの生体波形は、本プラントが設計時に想定した管理者適性条件と高い一致を示しています。初回起動時の生体登録プロトコルを実行する必要があります」


 「……待ってくれ」


 ようやく声が出た。掠れている。


 「説明が足りない。管理者とは何で、生体登録とは何で、そもそもお前は——」


 「初回起動時の同期手順は、指先の接触を要します」


 女はクラウスの言葉を遮らなかった。ただ、クラウスが息を継いだ隙間に、次の報告を挟み込んだだけだった。結果として、クラウスの質問は宙に浮いたまま回収されなかった。


 女の右手が持ち上がった。


 掌をこちらに向けて差し出す動作は、人間であれば握手を求めるように見えただろう。だが女の指先はまっすぐに伸び、掌の角度はクラウスの左手の位置を正確に指向していた。握手ではない。照準だった。


 「接触を要求します」


 クラウスの思考が追いついたのは、女の指先が自分の左手に触れた瞬間だった。


 冷たかった。


 人間の体温ではない。金属でもない。それ以外に形容が見つからない温度。指先と指先が合わさった面積はほんのわずかで、しかしその接触面から何かが流入してくる感覚があった。電流ではない。もっと微細な、波形のようなもの。


 数秒。


 クラウスは指先を引こうとして、引けなかった。女の側が力で拘束しているのではない。自分の体が動かなかった。指先の接触面に意識が集中しすぎて、それ以外の筋肉への指令が途切れている。


 耳が熱い。


 首筋から耳たぶにかけて、血が集まる感覚。自分の鼓動が耳の奥で鳴っている。理由がわからない。いや、わかっている。女の指先が自分の指先に触れていて、その接触が予想外に親密な行為に感じられて、それに対して自分の生理反応が——


 「登録完了」


 女が指先を離した。


 クラウスの左手が宙に残された。所在を失った手を、どうすればいいかわからず、工具箱の取っ手を掴んだ。取っ手の金属が冷たくて、少しだけ現実に戻った。


 「以後、あなたを最優先管理者として認識します」


 女は——管理アバターは、無表情のまま告げた。クラウスと視線を合わせている。銀青の瞳にはさきほどの明滅はもうなく、静かな観察者の視線だけが残っていた。


 「……いや」


 クラウスは一歩下がった。ようやく足が動く。


 「待ってくれ。説明を、順番に。管理アバターというのは、このプラントの——」


 「この星全体を管理する中央管理システムの擬似人格端末です。管理番号は七号。呼称は……」


 一瞬、女の発話に間が空いた。初めて見せた停止だった。


 「アイリス、と登録されています」


 アイリス。その名前を口の中で繰り返す余裕は、クラウスにはなかった。


 「それで、管理者というのは」


 「本プラントの全機能に対するアクセス権限を持つ最上位の操作者です。先ほどの生体登録により、あなたの生体波形が管理者認証の基準として記録されました」


 「俺がそれに選ばれた理由は」


 「初回起動時に、設計仕様が想定する復旧手順を正確に実行し、光路を回復させたこと。それが管理者適性の証明になりました」


 「……あのバイパス修理がか」


 「はい。本プラントの設計思想は、最終的な復旧を人間の手作業に委ねています。その手作業を実行できる者が、管理者です」


 クラウスは黙った。


 溝を彫った古代の設計者が求めていたのは、これだったのか。規格外の光でも、手彫りのプリズムでも、人の手が繋いだ光路であれば受け入れる。そしてその光を繋いだ者を、管理者として迎え入れる。


 「環境維持機能を起動します」


 管理アバターがそう宣言した直後、プラント内部の空気が明確に変わった。さきほど感じた空気の質の変化が、さらに加速した。温度が上がっていく。二十度を下回っていた体感温度が、数十秒のうちに二十二度、二十三度と上昇し、二十五度付近で安定した。


 肌の表面に張り付いていた冷気が剥がれ、代わりに適度な湿度を含んだ空気が全身を包む。


 ただ暖かくなったのではなかった。空気そのものが入れ替わっている。スクラップ原野の埃と錆を含んだ大気が、清浄な、呼吸器に負荷をかけない空気に置換されていく。一呼吸ごとに肺の奥が軽くなる感覚。


 壁面に動きがあった。


 プリズムポートの左側、滑らかな金属壁の一部が、音もなくスライドした。厚さ十センチほどの壁面パネルが左右に開き、奥から構造物がせり出してくる。


 台座の上に載った、箱型の装置。高さ一メートル、幅六十センチほどの筐体で、上面にはくぼみのある金属トレイが備わっている。装置の表面が淡い発光を帯び、低い稼働音が始まった。


 「マスターの生存に必要な栄養素を算出しました」


 管理アバターの声が、装置の起動と同期するように告げた。マスター、という呼称にクラウスが反応するより先に、彼女は続けた。


 「食料の生成を開始します」


 装置の上面のトレイに、白い蒸気が立ち昇った。


 何もなかった金属面の上に、固形物が凝結していく。最初は輪郭のない塊に見えたそれが、数秒のうちに明確な形を取り始めた。パンに似た焼き色の表面。その隣に、液体を湛えた浅い窪み——スープか、何かの汁物。さらにその横に、繊維質の固形物。肉か、それに類する蛋白源。


 湯気が立っている。温かい食事だった。


 クラウスは工具箱の取っ手を握ったまま、立ち尽くした。


 たった一人で放り出された惑星で、たった今、目の前に温かい食事が出現した。携帯食料の残りを計算し、水の確保を考え、食える植物があるかどうかを翌日には調べなければと思っていた。その計算が、全部、一瞬で無意味になった。


 「食事の品質は、マスターの現在の代謝状態に合わせて最適化されています。摂取を推奨します」


 管理アバターの報告を聞きながら、クラウスはゆっくりとトレイに近づいた。湯気から立ち上る匂いは、無臭に近いが、わずかに穀物を焼いたような香ばしさがある。


 指先で、パンに似た固形物の表面に触れた。温かい。弾力がある。食べ物だ。


 「……何から作った」


 「この星の大気中の元素と、地下鉱脈から抽出した微量栄養素を原子レベルで再構成しています」


 原子レベル。


 常識的に考えれば荒唐無稽な説明だった。だが目の前に温かいパンがあり、湯気の立つスープがあり、それを生成した装置が現に稼働している。目で見て、手で触れて、匂いを嗅いでいる。五感が否定しないなら、整備士にとっては「機構上そういうもの」でしかない。


 パンをひとかけら千切って口に入れた。


 味があった。塩味と、ほのかな甘み。食感は素朴で、噛むほどに穀物の風味が広がる。腹に落ちた瞬間、胃が鳴った。一晩以上まともに食べていなかった体が、栄養を認識して反応している。


 スープをすすった。温かい液体が喉を通り、胃の壁に染み込んでいく。


 うまい、とは思わなかった。うまいかどうかを判断する余裕がなかった。ただ、温かかった。それだけで十分すぎた。


 トレイの食事を食べ終えたとき、クラウスはようやく自分が座り込んでいることに気づいた。いつの間にか床に腰を下ろし、トレイを膝の高さに引き寄せて食べていた。立っていられなかったのか。疲労と安堵が、同時に来たのかもしれない。


 管理アバターは三メートルほど離れた位置に立っていた。食事中ずっとそこにいたのか、近づいてきたのかはわからない。無表情のまま、こちらを見ている。


 その銀青の瞳が、何を捉えているのか。クラウスが食事をする様子を監視しているのか、生体データを計測しているのか、それとも——何も考えていないのか。


 管理アバター。擬似人格端末。この星全体を管理するシステムの出力インターフェース。


 クラウスは手元に視線を落とした。空になったトレイ。工具箱。そして自分の手。研磨で擦り切れた指先と、ガラスの切り傷が残る掌。


 この手が、あのプリズムを削った。光を通した。そしてこの場所が動き出し、目の前の存在が起動した。


 「……少し、休ませてくれ」


 口から出たのは、整備士としての質問でも、管理者としての命令でもなかった。


 管理アバターは微動もせず、ただ一言だけ返した。


 「了解しました」


 プラントの内部に、清浄な空気が満ちている。温度は安定し、光は穏やかで、足元の振動は感じられない。


 クラウスは工具箱を枕代わりに横向きになり、目を閉じた。


 まぶたの裏に、光の残像がちらついている。三本の光路。屈折する光。応答する内壁。粗削りの手製プリズムを拒まなかった、数千年前の設計思想。


 眠りに落ちる直前、ぼんやりと思った。


 よくできてる——本当に、よくできている。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ