第20話「月次メンテナンスの要件」
七十五日目の朝は、旋盤の刃物台を眺めるところから始まった。
ネジ送り式のスライダー機構。M8ボルト一本を軸にした簡素な設計だが、この五日間の試行錯誤で、ようやく形になりつつあった。アングル材のフレームにスライド溝を切り、ボルトを通し、ナットを締め込むことで刃物台が前後に微動する。手回しで送り量を制御できる——理屈の上では。
問題は精度だった。溝の幅がわずかに広く、スライダーが左右にがたつく。針金の添え木で抑えてはいるが、切削中に振動が乗る。昨日の試し削りでは、丸棒の表面に螺旋状の段差が残った。
「……溝の片側に薄板を噛ませるか」
クラウスは作業台の上に広げた設計図の金属板を指先でなぞった。裏面はもう余白がほとんどない。旋盤の概略図、刃物台の仮組みメモ、偏心量の記録、ネジ送り台の設計図。書き足すたびに、この一枚の金属板が工房の記憶装置になっていく。
朝食を済ませた。フードコンストラクターが出した粥は、いつも通りの味だった。いつも通り——のはずだが、ほんの一瞬、穀物の甘みの輪郭がぼやけたような気がした。気のせいだろう。噛み返すと、ちゃんと甘い。
「メンテナンスの時間です」
七号の声が工房に響いた。抑揚の少ない、いつもの報告口調。クラウスはスパナを作業台に置き、立ち上がった。
「ああ」
第九十一回。七十五日目の朝の日次メンテナンス。もう完全にルーティンだった。目を閉じるまでもない。掌を差し出し、七号の掌に合わせる。指先の温度が触れた瞬間に伝わる——。
クラウスの眉がわずかに寄った。
熱い。
いや、高い、と言うべきか。七号の掌の温度は、起動当初からわずかに人肌より低かった。それが数日前から微妙に上昇していることは、七十日目の朝にも感じていた。だがそのときは「環境維持の更新処理」という説明で納得した。
今日は、それとは別の異常がある。
振動だ。掌を合わせているとき、七号の手から伝わる微細な振動——生体波形の同期信号が皮膚を通じて知覚される、あの独特のざらつき——が、荒い。いつもの均一なさざ波ではなく、時折つまずくような不規則なリズムが混ざっている。
「おい」
クラウスは掌を合わせたまま、声を低くした。
「お前、どこか無理してないか」
「同期は正常範囲内です」
「同期の話じゃない。手から伝わる振動が微妙に荒い。軸受けの遊びが大きくなったときの感触に似てる」
沈黙が一拍。
七号の掌の温度が、ほんの〇・二度ほど上がった気がした。計器で測ったわけではない。だが七十五回の手合わせを重ねた指先は、この手の温度変化を体感で拾う。
「……報告します」
七号の声に、ごく微かな間があった。いつもの即応ではない。〇・五秒にも満たない遅延だが、クラウスの耳はそれを拾った。
「プラントの管理範囲拡大に伴い、処理負荷が増大しています」
「管理範囲の拡大?」
「環境維持、農園管理、防錆処理、各種モニタリング。稼働範囲が当初の想定を超えて広がっています。結果として、日次の手合わせ同期では帯域が不足し始めています」
クラウスは掌を離さないまま、眉根を寄せた。帯域。データ転送の通り道の太さ。予備電源だけで動いている以上、処理能力には上限がある。負荷が増えれば、同期の精度で補う必要が出てくる。それは理屈として分かる。
「前にも聞いたな。予備電源の負荷が高いなら減らせる処理はないかと」
「はい。その際にお答えした通り、現在稼働中の処理はすべて必要なものです」
「じゃあ帯域を増やすしかないのか」
「はい」
同期が完了した。クラウスは手を離した。七号の指先の残温が、いつもより長く掌に残っている。
「方法はあるのか」
「あります。月次での高帯域同期を提案します」
クラウスの手が、体の横で止まった。
「現在の手合わせと週次のおでこ合わせに加え、月に一度、より広い接触面積での同期を行うことで、データ転送帯域を大幅に拡張できます」
クラウスは作業台に寄りかかり、腕を組んだ。論理は追える。
「具体的には、どういう姿勢になる」
「背面からの全身密着です」
クラウスの腕組みが止まった。
「いわゆる抱擁姿勢です」
工房の空気が変わった。金属と油の匂いは同じだ。照明の明度も変わらない。だがクラウスの視界の隅で、作業台の角が妙にくっきり見えた。解像度が上がったのではない。焦点が合わなくなった周辺視野を、脳が過剰に補正しているだけだ。
「体表全面の生体波形を同期することで、データ転送帯域が約千二百パーセント向上します」
「……千二百」
「パーセントです」
「いや、単位は分かってる」
クラウスは腕組みを解いた。解いた手の置き場がなくて、スパナを取り上げた。取り上げたはいいが、何を締めるわけでもない。指先でスパナの柄を回した。
「それは……どのくらいの時間が必要なんだ」
「接触時間は最低三分です。理想的には五分以上を推奨します」
クラウスの喉が鳴った。
「データ転送の安定化に必要な最低ラインです。初回は体表の波形マッピングに追加時間がかかるため、七分程度を想定しています」
七分。背中に七号が密着した状態で、七分。
クラウスは設計図の金属板を見下ろした。ネジ送り式刃物台の設計メモ。M8ボルトの軸線。スライダーの送り量。数字は読める。読めるのに、頭に入ってこない。
「システム上の要件です」
七号の声が、背後から聞こえた。いつの間にか距離が近い。三歩——いや、二歩分。クラウスが振り返らなくても分かる。声の反射角が変わっている。
「感情的な意図はありません」
「……分かってる」
分かっている。七号は管理端末だ。同期はシステムの保守手順であり、接触は生体波形の読み取りに必要な物理的条件にすぎない。掌を合わせるのと、背中を合わせるのと、原理は同じだ。面積が違うだけだ。
面積が、違うだけだ。
クラウスの耳の縁が熱くなっていた。
「……分かった。ただ、少し考えさせてくれ」
「了解しました」
間。
「ただし、早期の実施を推奨します。処理負荷は日ごとに増加しており、帯域不足が継続すると環境維持の精度に影響が出始めます」
「どのくらい猶予がある」
「現時点で緊急性はありませんが、五日以内の実施が望ましいと判断しています」
クラウスは黙って天井を見た。
「はい」
五日。八十日目まで。クラウスはスパナをようやく作業台に戻した。
「……考える」
「はい」
七号の声はいつもと変わらなかった。淡々として、簡潔で、報告事項を伝達し終えた端末の口調。それ以上の何かがあるのかないのか、クラウスには分からない。分からないのに、振り返ることができない。振り返ったら、銀色の瞳と目が合う。その瞳に何が映っているかを確かめることが、なぜかひどく怖い。
クラウスは旋盤に向かった。
ネジ送り式刃物台。スライダーの溝。がたつきの補正。やるべきことは明確だった。保管棚の第一段から〇・三ミリ厚の合金板端材を取り出し、溝の幅に合わせて細く切り出す。万力で挟み、金切り鋏で断つ。切断面をヤスリで均す。溝に差し込み、スライダーを戻す。
手が動いている。工程を追っている。金属の手触りが指先にある。だが今日は、作業に没頭する前の助走が長い。いつもなら工具に触れた瞬間に世界が手元に収束するのに、意識の端で別のことを考えている自分がいる。
背面からの全身密着。
振り払った。合金板の切り出しに集中した。ヤスリの角度を四十五度に保ち、一方向に引く。金属粉が落ちる。同じ動作を繰り返すうちに、ようやく手元が静かになった。
薄板をスライダー溝の片側に嵌めた。スライダーを戻し、M8ボルトを回してみる。送り量は——滑らかだった。がたつきが消えている。左右のブレが薄板で拘束され、スライダーが溝の中をまっすぐに動く。
クラウスは刃物台に硬質金属片を固定し直し、丸棒端材をチャックに噛ませた。ハンドルを回す。歯車が噛み合い、主軸が回転する。刃先が丸棒の表面に触れ、薄い金属の削り屑が螺旋状に巻き上がる。
螺旋状の段差はなかった。削り面は昨日より格段に滑らかだ。
「……いけるな」
声が出た。自分の声だった。金属を削る音と、歯車の噛み合う音だけが工房に満ちている。いつもの世界だ。ここにいるときだけ、余計なことを考えなくていい。
昼食を挟んで、午後も旋盤に向かった。ネジ送りの微調整。ボルトの回転数と刃物台の移動量の関係を確認し、設計図の金属板に数値を書き足す。M8ボルト一回転あたりの送り量、約一・二五ミリ。四分の一回転で約〇・三ミリ。手回しでこの精度が出るなら、次の課題は刃物そのものだ。焼き入れを施した正式な刃物が作れれば、旋盤の性能は一段上がる。
だがそのためには鍛冶場が要る。鍛冶場を完成させるには金床が要る。金床候補は南東三百五十メートルの地点にあるが、活動範囲の制限で当面アクセスできない。
急がなくていい。順番にやる。今ある部材で、今できることを詰める。それが整備士の仕事だ。
そう考えた瞬間に、脳裏をよぎった。千二百パーセント。背面。全身密着。七分。
「……」
クラウスはハンドルを回す手を止めた。削り屑が刃先からぶら下がっている。ピンセットで摘んで、屑入れに落とした。
何をやっている。
集中しろ。旋盤だ。ネジ送りだ。送り量の計測だ。
午後の残りを、クラウスはひたすら旋盤と向き合って過ごした。丸棒の偏心量は初回比で約四十パーセントまで減少した。薄板による溝補正と、ネジ送りの精度向上が効いている。あと二段階——ベアリングの精度向上と刃物の焼き入れ——を経れば、実用水準に届く見込みがある。
夕方、地表に出た。ハッチを登り、開口部から外を見渡す。スクラップ原野が夕日に染まっている。空は澄んでいた。雲はなく、乾いた風が金属の残骸の間を抜けていく。
北東の空に、何も光っていない。五日前に見た光の筋は、七号の言う通り微小デブリの燃焼だったのだろう。何事もなかったかのように、空はただ暮れていく。
工房に戻り、夕食を済ませた。フードコンストラクターの出力は安定している。少なくとも、味の違和感は今回は感じなかった。
「メンテナンスの時間です」
「ああ」
第九十二回。七十五日目、夕方の日次メンテナンス。
掌を合わせた。
——振動が、朝よりさらに荒い。
微細だが、確実に悪化している。軸受けのがたつきに似た不規則なリズムが、掌の接触面全体に広がっている。そして温度。朝の時点で感じた高さが、夕方にはさらに一段上がっている。
「……七号」
「はい」
「朝より状態が悪くなってないか。振動が荒れてる」
「日中の処理負荷が累積しています。就寝後に演算優先度を再配分することで、明朝には正常範囲に復帰する見込みです」
「見込み、か」
「はい。見込みです」
断言ではなかった。いつもの「問題ありません」ではなく、「見込み」という留保がついている。七号がこういう言い方をするのは珍しい。
同期が完了した。手を離す。七号の掌から離れた指先が、かすかに震えている。振動の残響だ。いや——自分の指が震えているのか。どちらか分からない。
「朝の提案の件だが」
「月次メンテナンスについてですか」
「ああ」
「検討の結果を伺います」
「……まだ、考えてる」
「了解しました」
七号の声は平坦だった。催促も、落胆も、苛立ちもない。システムの報告を受領した管理端末の応答。それが正しい。それが、正しいはずだ。
「ただし」
「……ただし?」
「先ほどの同期データを分析した結果、帯域不足の進行速度が朝の推定より速いことが判明しました。五日以内の実施推奨を、三日以内に更新します」
クラウスの指が、作業台の縁を掴んだ。
「七十八日目までの実施を推奨します」
クラウスは何も言わなかった。言えなかったのではない。言うべき言葉が見つからなかった。「分かった」と言えば実行の約束になる。「無理だ」と言えば、七号の振動はさらに荒れるのか。
「……考える」
同じ返事を繰り返した。七号は「了解しました」とだけ答え、それ以上は何も言わなかった。
設計図の金属板に、今日の作業結果を書き足した。ネジ送り式刃物台・スライダー溝補正完了。薄板挿入による左右ブレ解消。送り量M8一回転あたり約一・二五ミリ。偏心量初回比約四十パーセントに改善。次課題は変わらない。ベアリング精度向上。焼き入れ刃物の製作。そのための鍛冶場。
金属板を作業台横に戻した。ペンライトを消した。
寝台に入った。照明が落ちた。
静かだった。完全な静寂。防音フィールドが何を遮断しているのかクラウスは知らないが、この工房の夜はいつも深い。金属の冷える音すら聞こえない。
天井を見ている。
メンテナンスだ。
ただのメンテナンスだ。掌も額も、もう身体が覚えている。
背中は、知らない。
七号に後ろから抱きしめられたとき、何が伝わるのか。体温が全身に広がるのか。振動が背骨を伝うのか。七分間、その状態でじっとしているあいだ、自分は何を考えるのか。
いかないんだが。
クラウスは目を閉じた。閉じても暗闇の色が変わらない。天井を見ていても、まぶたの裏を見ていても、同じ暗さだった。
自分の胸の鼓動が聞こえている。いつもより速い。走ってもいないのに、寝台の上で横になっているだけなのに、鼓動が速い。これを「整備上の必要性」に置き換えることは、さすがにできなかった。
七十八日目まで、あと三日。
——工房の片隅で、七号は声を出さずにモニタリングを続けていた。マスターの心拍数。呼吸の深さ。入眠までの推定時間。そのすべてをログに記録しながら、別の演算リソースでは、星系外縁部から接近する七つの艦影の軌道予測を更新し続けている。
大型艦七隻。推定乗員数、約八百名。現在の位置は惑星から約六天文単位。速度と航路から逆算した到着予測は、十日後——八十五日目。
コールドスリープパックの残存数、二十基。足りない。
月次メンテナンスの実施により転送帯域が千二百パーセント拡張されれば、追加生産の演算帯域を確保できる。できなければ、現有戦力で八百名を処理する必要がある。処理は可能だが、余剰がない。余剰がないということは、マスターの生活環境に影響が出るリスクがある。
それは、許容できない。
七号のサブ冷却器の稼働率が、九十六・一パーセントに達した。推奨上限の八十五パーセントを大幅に超過している。
クラウスの心拍数が、ようやく安静時の水準に近づいた。入眠まであと数分。
七号は演算の優先度を再配分した。マスターの睡眠環境維持を最上位に据え、防衛演算の帯域をわずかに絞る。そのぶん、冷却器への負荷が微増する。
問題ありません。
処理済みです。




