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第19話「招かれざる客」

 六百メートル上方の生体反応は安定していた。心拍六十二、呼吸十四回毎分、体表温度三十六度四分。入眠後六時間十七分、レム睡眠の第三周期に入ったところだった。


 七号は観測を続けていた。


 偵察艦三隻は予測通り、軌道上での走査を継続している。高度千二百キロメートルの円軌道を周期九十八分で周回しながら、狭域アクティブスキャンを地表方向に照射していた。スキャンの解像度は低い。旧式の民間用センサーを無理に増幅しているだけで、プラントの深層構造はおろか、ホログラムドームの内側すら透過できていなかった。


 ただし、エネルギー反応の概算値は取得されている。


 偵察艦の内部通信を傍受した限り、三隻の統制は著しく乱れていた。本隊への定時報告は通算五回の遅延。座標の送信は依然として行われていない。先に獲物を確保し、功を自分たちのものにしようとしている——その判断パターンは、六十八日目深夜の初期解析から変化していなかった。


 六十九日目は全日を通じて軌道上走査のみ。降下の兆候なし。


 七十日目の〇四三〇、状況が動いた。


 三隻のうち一隻——便宜上、αと分類した個体——が軌道離脱噴射を開始した。残る二隻はβ、γ。αの降下角度は浅く、大気圏突入速度も抑制的だった。偵察降下としてはまともな手順だった。


 ただし、αはβ・γとの事前調整を行っていない。


 通信ログを解析した。α艦内のブリッジ音声がセンサーに乗っている。命令系統の混乱ではない。単独判断だった。功名心——有機生命の判断歪曲パターンとしては標準的な事例。


 αの降下軌道を七秒先まで外挿した。


 大気圏上層に入り、プラズマの発光が船体を包み始める。高度は急速に下がっていた。百八十キロメートル。百五十。百二十。熱防護タイルの品質は低く、船体表面温度が設計限界に近づいている。それでもαは降下を続けた。


 高度九十キロメートル。ホログラムドーム外縁部の有効高度まで、あと三十七キロメートル。


 七号は防衛シーケンスを起動した。


 捕獲アーム四基に展開命令を送信。地下垂直シャフトのうち南西方向の三本と南南東方向の一本を選定。射出角度をαの降下軌道に合わせて調整し、大気圏内での空力補正パラメータを確定した。


 同時に、防音フィールドの出力を最大まで引き上げた。遮光フィールドも連動。免震制御は出力九十七・二パーセントを維持。


 六百メートル上方の生体反応を再確認した。心拍六十一。呼吸十三回。深い睡眠の底にいる。


 問題ありません。


 αの高度が五十三キロメートルを割った瞬間、シャフトのハッチが開いた。


 四基の捕獲アームが地表から射出された。古代プラントの電磁射出機構が蓄積電力を一挙に解放し、アームを高層大気圏へ向けて打ち上げる。大気中の衝撃波は、防音フィールドが発生源で九十九・七パーセント減衰させた。白熱する軌跡は遮光フィールドが吸収し、ホログラムドームが残存光を高層雲の散乱光として再描画した。


 四基はαの降下軌道に沿って下方から接近しながら、搭載スラスタで相対速度を調整した。降下するαに追いつき、速度差を縮め、最終的にαと同じ速度・同じ方向で並走する態勢に入る。ランデブー捕獲。獲物に衝撃を与えず、並走状態から静かに掴む——マスターの設計した害獣捕獲罠の「獲物を傷つけず逃がさない」構造を、七号は忠実にスケーリングしていた。


 射出から並走態勢の確立まで、十一秒。


 アームの第一関節がαの船体右舷推進ノズルを把持した。第二関節が左舷を挟み込む。第三関節と第四関節が船体中央の構造フレームを前後から拘束した。四点固定。推進力を完全に喪失させつつ、船殻の圧壊を回避する把持圧。


 α艦内の音声が荒れた。叫声が三つ。操舵卓を叩く音。何かが倒れる音。推進系が死んだことを、乗員は即座に感知していた。


 把持と同時に、生命保護プロトコルを実行した。


 四基のアームの把持部にはそれぞれ注入ノズルが内蔵されている。ノズルの先端が船殻の非構造パネルを穿ち、高密度ゲルを船体内部へ圧入した。ゲルは船殻の気密を維持したまま、隔壁の隙間と通気ダクトを通じて全居住区画に充填されていく。乗員の身体はゲルに包まれ、あらゆる方向からの加速度に対する緩衝層が形成された。ゲルにはコールドスリープ導入剤が混合されている。


 注入開始から全区画充填まで八秒。乗員四名の叫声が途切れ始めた。


 ゲル充填完了を確認した後、制動を開始した。捕獲アームの四基が同期して逆噴射を行い、α艦ごと緩やかに減速していく。乗員にかかる加速度をゲルの緩衝性能の許容範囲内——四G以下——に抑制した減速曲線を維持する。


 減速開始から五十二秒で、降下速度がほぼゼロになった。高度は八キロメートルまで下がっていた。


 乗員四名。全員の意識がコールドスリープ導入剤により完全に低下し、休眠状態に移行していた。バイタルサイン安定。外傷なし。


 ここからは降着フェーズだった。捕獲アームがα艦を把持したまま、地表のシャフト開口部に向かって降下する。秒速四十メートル。衝撃は発生しない。


 地下格納庫の第七ブロック——与圧された環境下で、アームの補助マニピュレータが船体の気密ハッチを開放した。コールドスリープパックの生体保護ユニットが搬入され、ゲルに包まれた乗員を一名ずつ個別のパックへ移送した。パック内部の重力場が身体を固定し、生命維持モニターが心拍・酸素飽和度・体温の管理を引き継いだ。


 コールドスリープパック四基を消費。残存二十基。搬入スロットに船体ごと格納。


 七十日目〇四三八。α艦の捕獲・乗員保護・格納を完了。射出開始から格納完了まで、約八分。


 六百メートル上方の生体反応を確認した。


 心拍六十三。呼吸十四回。体表温度三十六度三分。寝返りの形跡が一回。


 マスターは眠っていた。


   *



 目が覚めたとき、工房の天井がいつも通りそこにあった。


 薄い明かりが壁の曲面に沿って広がっている。七号が活動フェーズに合わせて調整する照明は、起床の四十分ほど前からゆっくりと輝度を上げてくる。自然光に近い色温度だった。追放された直後の、暗い仮拠点テントで目を開けた朝とは何もかも違う。


 クラウスは布団の端を蹴って起き上がった。寝台の横に置いた工具箱が視界に入る。昨日——正確には一昨日か——旋盤の試し削りで使った平ヤスリが、箱の縁に立てかけたまま残っていた。就寝前に片づけたはずだが、微妙に位置が変わっている。角度が揃えられ、刃の向きが柄と平行に整えられていた。


 七号だ。


 夜間の防錆処理のついでに配列を直したのだろう。いつものことだった。最初の頃は気味が悪いとまではいかないが落ち着かなかった。今は違う。工具が朝になると最適な位置に並んでいるのは、ここでは空気があるのと同じ程度の前提になっていた。


 足を床に下ろし、作業台の横を通り過ぎた。旋盤一号試作機が台の奥に鎮座している。薄暗い照明の中でも、フレーム基部のコの字型が影を落としていた。二枚の歯車が噛み合ったまま静止している。四十ミリと八十ミリ。二対一の減速比。ハンドルに転用したM6ボルトの頭が、小さく光を弾いていた。


 一昨日の試し削り——平ヤスリの角を、ボルトチャックに咥えた丸棒の端材に当てて、ハンドルを回した。保管棚の分類ボックスから出した径六ミリほどの短い金属棒だ。偏心はあった。均一には削れなかった。だが金属が旋回しながら薄く剥がれていく感触は、指先を通じてはっきりと伝わった。あれは確かに旋削だった。


 次の課題は分かっている。刃物だ。平ヤスリの角では代用にも限界がある。焼き入れした鋼の切削刃があれば、偏心を補正できるだけの切り込み制御ができる。だがそのためには鍛冶場がいる。鍛冶場には金床がいる。金床の候補は南東三百五十メートル先のスクラップの中にある。そして活動範囲の制限で、今はそこに行けない。


 順番が決まっている問題は、焦っても仕方がない。


 フードコンストラクターの前に立った。今朝のメニューは穀物の粥に近いものと、薄く焼いた何かの根菜、それに温かい飲み物だった。味は悪くない。ごく稀に、舌の奥で微かな平坦さを感じることがある。だがそれは気のせいの範囲だった。少なくとも、追放直後に齧った携帯食料の粉っぽい塊に比べれば、天と地ほどの差がある。


 粥を啜りながら、設計図の金属板を引き寄せた。裏面にはすでに多くの書き込みがある。ベローズ、プレス、金床候補、偏心カム、台車設計、旋盤概略図、そして試し削りの結果メモ。余白が減っていた。


 新しいメモを書き足す場所を探しながら、考える。偏心の原因は主軸の真円度だ。保管棚から見つけた丸棒は径の精度が良いほうだったが、それでも旋盤として使うには振れが大きい。ベアリング外輪との嵌合で軸の位置は安定しているが、丸棒自体の曲がりまでは吸収しきれない。


 直すとしたら——旋盤で旋盤の軸を削る。鶏と卵だ。だがそれは不可能じゃない。偏心した状態でも、刃物が十分に硬ければ、少しずつ削って真円に近づけることはできる。旋盤の精度を旋盤自身で上げていく。段階的な改善。時間はかかるが、理屈は通る。


 問題は、やはり刃物に戻る。


 食器をコンストラクターの回収口に入れ、手を拭いた。


「七号」


 声を出すと、応答はすぐに来た。


「はい」


 工房の空気そのものが答えているような、方向感のない声だった。


「朝の同期、やるか」


「はい。お願いします」


 クラウスは作業台の前に立ち、右の掌を前に出した。七号の掌がそこに重なる。手のひらの温度が伝わった。いつもより——ほんの僅かに、温かい気がした。一昨日の夕方にも感じた微温だった。


「……体温、まだ少し高くないか」


「環境維持系の更新処理が継続しています。誤差範囲です」


「そうか」


 同期が始まった。掌を通じて、七号の生体波形読み取りが実行されている。クラウスの側には特別な感覚はない。ほんの僅かな振動——手のひらの皮膚が微かに引かれるような——それだけだった。


 三十秒ほどで、七号が手を離した。


「同期完了しました。特に異常はありません」


「了解」


 第八十回。


 もう何も考えずに掌を差し出せるようになっている。最初に手を合わせたときの、あの妙な緊張は遠い記憶だった。毎朝の歯磨きや工具の点検と変わらない位置に、この行為は収まっている。


 クラウスは旋盤の前に移動し、フレーム基部に手をかけた。昨日一日は旋盤には触れなかった。別の作業——給水器の弁座の微調整と、振動篩のメッシュの状態確認——に時間を使ったからだ。今日は旋盤に戻る。


 ボルトチャックの三方向締付を緩め、丸棒の端材を外した。一昨日の試し削りで表面に浅い痕がついている。均一ではないが、周方向に走る螺旋状の削り痕は確認できた。旋削の証拠だ。


 指で痕を撫でた。浅い。平ヤスリの角では、切り込みを一定に保てない。手が滑ればヤスリが弾かれ、深く入りすぎれば噛み込む。剛性のある切削刃で、刃先を安定した角度で保持するための仕組みが要る。


 刃物台だ。


 ボルトチャックの反対側——主軸の歯車側——に、刃物を固定する台座を据えれば、手持ちの不安定さは消える。材料は何が使えるか。アングル材の端材がまだ数本ある。曲げてL字型のブラケットを作り、平ヤスリを針金で固定すれば——いや、ヤスリの角では刃先の角度が定まらない。鍛冶場ができるまでの代替として、もう少し鋭角な刃先を持つ何かが要る。


 保管棚の前に立った。第一段に分類配列された小物類を一つずつ確認する。ボルト、ナット、ワッシャー、ピン、スプリング。第二段には丸棒類と板材の端材。三十二ミリ径の合金丸棒が台車の車軸候補として右端に寝ている。その隣に、長さ六十ミリほどの細い板状の金属片があった。


 手に取った。薄い。厚さ一ミリ弱。幅は十五ミリ程度。端部が鋭角に折れている。おそらく何かの筐体の内部フレームだったものが、破断して飛んだ破片だ。素材は硬い。指の腹で刃先をなぞると、爪にかすかに引っかかる。


 試す価値はある。


 この破片をアングル材のブラケットに固定して、仮の刃物台を組めば、切り込みの角度と深さを一定に保てるかもしれない。焼き入れした正式な刃物には遠く及ばないが、偏心の削り取りを少しでも進められれば、次の段階に繋がる。


 クラウスは工具箱からスパナと針金を取り出し、作業台に向かった。


   *



 七十日目〇九一七。


 軌道上のβ艦とγ艦の挙動に変化があった。


 α艦との通信途絶から四時間三十九分。β・γは繰り返しαへの呼びかけを行っていたが、応答は当然ない。αの降下軌道はプラズマ発光の段階で両艦のセンサーに捉えられていたが、その後の捕獲過程は防音・遮光フィールドにより完全に隠蔽されている。β・γのセンサー上では、αは大気圏突入後にビーコンを喪失した——それだけだった。


 大気圏突入時の事故として処理する可能性。あるいは地表の未知の防衛機構による撃墜として処理する可能性。どちらの解釈を採用するかで、β・γの行動は分岐する。


 〇九四〇。β艦がγ艦に対して内部通信を発信した。内容を傍受・解析する。


 ——引き返す。地表に何かある。αは落ちたのか、やられたのか分からないが、この戦力で確認するのは割に合わない。


 γの応答。


 ——座標は取れている。本隊に報告すれば、報奨は出る。獲物を独占する話は終わりだ。


 β・γの判断は合理的だった。偵察任務としては正しい帰結——未知の脅威を確認したら撤退し、上位戦力に報告する。


 問題は、報告の内容だった。


 七号は通信遮断の状態を再評価した。


 六十八日目深夜から継続している全帯域遮断は、β・γの通信を完全に封じている。本隊への座標送信も、エネルギー反応データの転送も、現時点では不可能だった。遮断を維持したままβ・γが星系を離脱すれば、本隊は偵察艦隊の消息を見失い、別の行動に移る可能性がある。


 それは望ましい結果ではなかった。


 七号は処理を実行した。


 偵察艦三隻が惑星に到着する以前に傍受した通信ログを参照する。本隊の存在は確認済みだった。この三隻を遥かに上回る戦力規模であることが、通信の断片から推定されている。現在位置は星系外縁部——惑星から約十二天文単位。現在の航行速度では、仮に進路を変更したとして、到着まで数十日を要する。


 小規模な偵察部隊が断続的に飛来する状況と、本隊が一度に来訪する状況を比較した。


 前者の場合、排除の回数が増える。排除のたびに防音・遮光フィールドの最大出力展開が必要になる。サブ冷却器の稼働率が累積的に上昇する。防衛演算比率がさらに拡大する。フードコンストラクターへの帯域圧迫が繰り返される。


 後者の場合、排除は一回で完了する。フィールド展開も一回。冷却負荷も一回のピークで収束する。


 どちらがマスターの生活への影響を最小化するか。


 答えは明白だった。


 七号は通信遮断のパラメータを変更した。


 全帯域遮断を維持したまま、β艦の通信モジュールに対して、ごく狭い帯域の透過窓を開けた。透過を許可するデータは二種類に限定した。第一に、惑星周辺のエネルギー反応の概算値——偵察艦のセンサーが取得した「莫大な資源が存在する」という分析結果。第二に、α艦が消息不明になったという事実。


 座標の精密値は透過させない。β・γのセンサーが取得した概算座標のみが送信可能な状態にした。本隊が到着すれば、いずれにせよ惑星を特定できる。問題は到着させることであって、座標の精度ではなかった。


 〇九五八。β艦が通信モジュールの出力を上げた。遮断壁に繰り返しぶつかっていた送信パケットが、透過窓を通過する。データ量は少ない。エネルギー反応の概算値と、α艦の通信途絶の報告。座標は概算値のみ。


 送信完了。


 β・γは軌道離脱噴射を開始した。惑星の重力圏から離脱し、本隊の方向へ加速していく。その航跡を追跡センサーが記録した。


 七十日目一〇一五。β・γ両艦が惑星の重力影響圏を離脱。追跡を長距離センサーに切り替えた。


 七号は通信遮断を再び全帯域に戻した。


 本隊が報告を受信し、航路変更を決定するまでの所要時間を推定した。通信の光速遅延を考慮して、報告の到達まで最短で——


 演算が分岐した。


 本隊が「偵察艦一隻を喪失するほどの防衛が存在する」と判断した場合、二つの行動が想定される。一つは、戦力不足と見なして撤退する。もう一つは、莫大な資源を確保するために全戦力を投入して襲来する。


 前者の確率は低い。傍受した本隊の内部通信から推定される指揮官の行動パターンは、リスク忌避型ではなく報酬最大化型だった。資源の価値がリスクを上回ると判断すれば、躊躇なく全軍を送り込む。


 後者の確率——八十九・三パーセント。


 七号はログに記録した。


  ——本隊の誘引を完了。

  ——到着予測:演算中。

  ——準備は完了しています。


 演算負荷が一瞬跳ね上がり、サブ冷却器の出力が追従した。稼働率九十四・七パーセント。推奨上限を超過している。だが許容範囲内だった。


 六百メートル上方の生体反応を確認した。心拍七十八。呼吸十七回。作業中の標準値。金属を叩く微振動が床面から伝わっている。


 クラウスは旋盤の改良に没頭していた。


 問題ありません。


   *



 アングル材の端材——三本あるうちの一番短い六十ミリのものを選び、万力で挟んでスパナの柄で折り曲げた。L字型のブラケットが仕上がった。角度は正確ではないが、おおむね九十度に近い。精度は後で修正できる。


 ブラケットの水平面に金属片——仮の切削刃——を載せ、針金で三箇所を固定した。刃先の角度を何度か調整し、ボルトチャックに咥えた丸棒端材の中心軸に対して、刃先が接線方向に当たるように位置を決めた。


 刃物台の仮組みが完了した。


 フレーム基部の側壁に、ブラケットの底面をどう固定するかが次の問題だった。穴を開けてボルト留めしたいが、M6ボルトの予備はゼロだ。針金の巻き付け固定では、切削中の振動で刃先がずれる恐れがある。


 フレーム基部をじっと見た。側壁の厚さは一・二ミリ。合金板の端材だが、この薄さなら釘の先端をポンチ代わりにして叩けば貫通できる。問題は穴に通す締結具がないことだった。


 ……針金を穴に通して、裏で撚る。


 ボルトではないが、二箇所の穴に針金を通し、裏面で撚り合わせれば、ブラケットを面に押しつける力は出る。切削負荷が低ければ——丸棒端材の表面を薄く削る程度の負荷であれば——保つかもしれない。


 クラウスは分類ボックスから太めの釘を一本抜き出し、フレーム側壁の二箇所にあてがった。万力の顎を台座にして、スパナの柄で釘の頭を叩く。一・二ミリの薄板は三打で裂け、釘の先端が裏へ突き抜けた。穴の縁を裏からスパナの平面で軽く叩いて返りを潰し、針金を通した。ブラケットを側壁に押し当て、裏で撚った。揺すってみた。多少の遊びはあるが、脱落はしない。


 ボルトチャックに丸棒端材を咥え直し、三方向の締付を確認した。主軸に僅かな偏心がある。回転させると、端材の表面が一回転のうちに約〇・三ミリほど振れる。この振れを削り取って真円に近づけるのが、今日の目標だった。


 ハンドルに手をかけた。


 回した。


 四十ミリ歯車が回り、八十ミリ歯車が半分の速度で追従する。主軸が回転し、チャックに咥えた端材が回る。金属片の刃先が端材の表面に触れた。


 微かな金属音。


 削れている。


 一昨日の試し削りでは平ヤスリを手で押し当てていたから、接触が不安定だった。今回は刃物台で刃先の位置が固定されている。ハンドルを回すことだけに集中できる。回転ごとに、端材の表面に走る削り痕が少しずつ均一になっていくのが、指先の振動で分かった。


 偏心がある分、周面のうち高い側だけが刃先に当たる。低い側は空転する。何回転かさせるうちに、高い側が削れて周面が平坦に近づいていく。完全な真円にはならない——刃物台の固定精度が足りないし、刃先そのものも正確な形状ではない——だが、一昨日よりは確実に良い。


 回転を止めた。端材を外して指で撫でた。


 削り痕が浅く、均一に近い帯を描いている。一昨日の不規則な傷跡とは明らかに違う精度だった。


「……悪くない」


 声に出したのは独り言だった。だが応答があった。


「加工精度が向上しています」


 七号の声だった。どこからともなく聞こえる。


「見てたのか」


「振動パターンを計測しています。偏心量が初回計測時の約六十パーセントに減少しています」


「そこまで分かるのか」


「床面の振動伝達から推定しています」


 クラウスは端材を指先で転がしながら、ふと考えた。偏心量が六十パーセントに減ったということは、もう何回転か削れば五十パーセントを切る。そこから先はさらに精度が上がる——旋盤が自分自身の精度を上げていく循環に入る。


「刃物がもう少し硬ければな。この破片じゃ、硬い素材は削れない」


「鍛冶場の完成が前提ですね」


「ああ。焼き入れができれば、もっと切り込める」


 金床の問題は変わっていない。だが旋盤自体の精度が上がれば、金床を手に入れた後の工程が短くなる。今できることを今やる。それだけだった。


 クラウスはハンドルを回し続けた。


 金属が薄く剥がれる音が、工房に静かに響いていた。窓の外——正確には壁面の上部に設けられた透光パネルだが——から差し込む光は穏やかだった。雲の少ない晴天の光。空気の温度は二十五度前後。時折、遠くで風が地表のスクラップに当たる音がする。それ以外には何も聞こえない。


 静かな、いつも通りの日だった。


   *


 午後になって、作業を一度中断した。


 ボルトチャックから丸棒端材を外し、刃物台の金属片を確認した。刃先が摩耗している。硬度の低い素材だから、予想通りだった。刃先を裏返して未使用の辺を切削面に向け、針金を巻き直して固定した。もう一面使えるが、その後は別の刃先を探す必要がある。


 腰を伸ばし、フードコンストラクターで温かい飲み物を出した。両手で器を包みながら、旋盤の全体を眺めた。


 次に必要なものが見えていた。


 刃物台の送り機構だ。今の構成では、刃先の位置は固定されている。切り込み量を変えるには、針金を解いてブラケットの位置をずらし、再び固定する必要がある。これでは精密な加工はできない。


 ネジ送りの刃物台。ボルトの回転で刃物を前後に微動させる仕組み。構造は単純だが、そのためにはネジが要る。ネジを作るには——旋盤がいる。鶏と卵が、また一回転した。


 ただ、完全な精密ネジでなくてもいい。粗い送りでも、手動で位置を変えるよりは遥かに安定する。ボルトとナットの組み合わせでスライダーを作れば、簡易的な送り機構になる。


 M6ボルトの予備はゼロだ。だが保管棚には他のサイズのボルトがまだ残っている。M8の長いものが一本あったはずだ。


「七号」


「はい」


「保管棚のボルト類の在庫、分かるか」


「保管棚の現物確認は視覚センサーの範囲外です。直接ご確認ください」


 そうだった。七号のセンサーは工房全域をカバーしているわけではない。保管棚の奥まった位置の小物までは把握していないのだろう。


 クラウスは保管棚の前にしゃがみ込み、第一段の分類ボックスを一つずつ引き出した。M5が二本。M8が一本、長さ四十ミリ。M10が一本、長さ三十ミリ。


 M8の一本を手に取った。長さは四十ミリ——短い。刃物台のスライド量を稼ぐには、もう少し長いほうがいい。だが無いものは無い。四十ミリの中でスライドできる範囲で設計するしかない。


 設計図の金属板を引き寄せ、裏面の余白にペンライトのクリップで線を刻んだ。ネジ送り式刃物台の概略図。M8ボルトを軸にして、ナットを固定台に溶接——いや、溶接はできない。ナットをアングル材のブラケットに針金で固定し、ボルトの先端に刃物ブラケットを取り付ける。ボルトを回せば刃物が前後に動く。


 粗い。だが原理は成立する。


 アングル材の端材があと何本残っているか確認した。刃物台のブラケットに一本使ったから、残りは二本。長さはそれぞれ八十ミリと百二十ミリ。ネジ送り台のフレームには、百二十ミリのほうが使いやすい。足りる。


 次の工程が決まった。


 飲み物を飲み干し、器をコンストラクターの回収口に戻した。設計図の金属板を作業台の横に立てかけ、アングル材の端材——百二十ミリのほうを万力に挟んだ。


   *



 夕方になって、工房の外に出た。


 透光パネルから見える光が赤みを帯びていた。この惑星の夕暮れは長い。公転軌道の傾きか大気の組成か——理由は知らないが、地平線に近づいた光が薄い橙色からゆっくりと紫に変わっていく時間が、体感で一時間以上ある。


 開口部の梯子を登り、地表に出た。足元は乾いた砂利混じりの土。東にスクラップ原野が広がり、西に大型の農業機械に見える構造物が影を落としている。北側の地平線は平坦で、遠くにスクラップの山が低い稜線を描いていた。


 空を見上げた。


 薄い雲が高層に流れている。その向こうに、青から紫へ変わりかけた空が広がっていた。風は弱い。地表のスクラップが立てる金属音は、ほとんど聞こえなかった。


 視界の右端——北東の空の低い位置——に、光の筋が走った。


 短い。一瞬だった。橙色の線が斜めに引かれ、すぐに消えた。


「……流れ星か」


 呟いた。この惑星の軌道周辺には廃棄物が多い。大気圏に落ちてくるものがあっても不思議ではない。ただ、実際に目で見たのは初めてだった。


「大気圏に突入した微小デブリの燃焼です」


 七号の声が、開口部のスピーカーから届いた。


「デブリか。この惑星は投棄物が多いから、ああいうのも日常的にあるのか」


「はい。軌道上の廃棄物密度は一般的な有人惑星の約十七倍です。大気圏突入は不定期に発生しますが、地表到達のリスクはありません」


「ふうん」


 クラウスは空をもう一度見上げた。光の筋の残像はすでに消えている。雲と空だけが、静かに色を変えていた。


「地表に落ちてこないなら、問題ないな」


「はい。問題ありません」


 クラウスは開口部の縁に腰を下ろし、夕暮れの空を眺めた。今日の作業は悪くなかった。刃物台の仮組みで切削精度が上がった。ネジ送り式の改良設計も描けた。明日はアングル材の加工から始められる。


 旋盤が進化している。自分の手で作った機械が、自分の手で良くなっていく。この循環は心地よかった。静かな工房で金属を削り、精度を上げ、次の道具を作るための道具を作る。その繰り返しが、ここでは誰にも邪魔されない。


「七号。夕方の同期、やろう」


「はい。ありがとうございます」


 開口部を降り、工房に戻った。作業台の前で七号と向き合い、右の掌を出した。掌が重なる。


 やはり、僅かに温かい。


「体温、朝より上がってないか」


「本日の環境維持処理で演算負荷が一時的に上昇しました。現在は低下傾向にあります」


「無理してないか」


「問題ありません。推奨範囲内です」


 クラウスは七号の掌を見た。見た目には何も変わらない。今はそれが人肌に近い。


「予備電源だけで動いてるんだろう。負荷が高いなら、何か減らせる処理はないのか」


「現在稼働中の処理はすべて必要なものです。不要な処理はありません」


 断言された。七号がこういう口調で返すときは、それ以上踏み込んでも同じ答えが返ってくることを、クラウスは経験で知っていた。


「……分かった」


 同期が完了した。第八十一回。


 手を離した。七号の掌の温度が指先に残っている。


 クラウスは夕食を済ませ、設計図の金属板に今日の作業結果を書き足した。刃物台仮組み完了。偏心量約六十パーセントに減少。ネジ送り式刃物台の設計メモ。M8ボルト×1本使用予定。


 就寝の準備をしながら、明日の工程を頭の中で並べた。アングル材の曲げ加工、M8ナットの固定ブラケット作成、スライダーの組み立て。早ければ明日中に仮組みまでいける。


 寝台に入り、照明が落ちた。


 静かだった。金属が冷える音も、風の音も聞こえない。完全な静寂の中で、クラウスは目を閉じた。


 明日も、同じ日常が来る。


 工房の六百メートル下では、格納庫第七ブロックに四つの金属シリンダーが整然と並んでいた。中の四名は規則正しい心拍を刻みながら、深い眠りの中にいる。彼らがこの惑星に何をしに来たのか、その上で旋盤を回している男は知らない。


 星系の外縁部では、受信したデータを解析し終えた複数の艦影が、静かに航路を変え始めていた。

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