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第16話「嵐の前の凪」

 五十五日目の朝は、風力ベローズの歯車が噛み合う乾いた音で始まった。


 クラウスは寝台の上で目を開け、天井のプリズムポートの光を確認する。安定した発光周期。色温度は起き抜けの目に配慮された暖色寄り。もうこの光の加減に驚くこともない。


 身体を起こし、足裏が床面に触れる。温度が丁度いい。最初の頃は冷たかった金属床が、いつの間にかクラウスの起床時間に合わせて微かに温まるようになっていた。プラントの環境維持機能が徐々に回復しているのだろう、と彼は考えている。


「おはようございます、マスター。本日の日次メンテナンスを実施します」


 七号の声が、いつもの位置から聞こえる。作業台の横、部品保管棚の手前。クラウスが起きる頃には、必ずそこに立っている。


「ああ」


 短い返事をして、右手を差し出す。七号が左手を重ねる。掌が合わさり、数秒。微かな振動——というより、細胞のどこかが共鳴するような感覚が掌を通じて腕へ抜ける。もうこの感覚にも慣れた。


「同期完了。精度+0.1%。正常範囲です」


「了解」


 クラウスは手を引き、工具箱の横に畳んであった作業着を掴む。袖を通しながら工房内を見渡す。風力ベローズ。手動プレス機。壁面の部品保管棚二基。遮熱壁の向こうに鍛冶場予定地のセラミック断熱材が積まれている。道具たちが、夜の間にごく僅かに位置を変えている。七号が就寝中に配列を微調整しているのだ。最初は気づかなかった。二十日目あたりから、何となく分かるようになった。


「——お前、また工具の並び変えただろ」


「使用頻度の変動を反映しました。ドライバー類の配列を0.7cm調整しています」


 ミリ単位の話だった。だが、クラウスは何も言わず、調整後の位置からドライバーを取り上げた。確かに、手を伸ばした先にある。指が自然に柄を掴む角度になっている。文句を言う理由がなかった。


 朝食はフードコンストラクターが出力したものと、農園で前日に収穫したβ種の葉物を合わせたもの。フードコンストラクターの出力精度は日を追うごとに上がっており、食感や温度の再現が以前より細かくなっている気がする。


「最近、味が良くなったな」


「学習データの蓄積により、出力パラメータが最適化されています」


「俺の反応を見て調整してるのか」


「はい。咀嚼速度、嚥下のタイミング、食後の血中成分変動を参照しています」


「……そこまで見てるのか」


「管理業務の一環です」


 クラウスは箸を動かしながら、それ以上は聞かなかった。


 食後、作業台に向かう。ここ数日の主要工程は二つ。偏心カムの弁の試作と、金床運搬用の台車の設計だ。


 偏心カムの試作品は三つ目に入っていた。一つ目はカムの偏心量が大きすぎて弁の開閉が暴れた。二つ目は開口率を絞りすぎて流量が足りなかった。三つ目は、偏心量を0.8mm縮めて、弁座の接触面を研ぎ直したもの。手元にある金属片を旋盤代わりのプレス機で成形し、ヤスリで微調整する。


「七号。給水器の流量データ、もう一回出してくれ」


「出力します。現在の灌漑ルーティンにおける三区画の要求流量は、α区画が毎分0.3リットル、β区画が毎分0.25リットル、γ区画が毎分0.2リットルです」


「β区画だけ少し多めに見ておきたい。成長が遅い分、根の吸水効率が低い可能性がある」


「反映します。β区画の要求流量を毎分0.28リットルに修正しますか?」


「それでいい。弁の開口角を——」


 指先でカムの外周を撫でながら、計算が始まる。こういう時間が、クラウスにとっては最も密度の高い時間だった。問題は機構の中にあり、答えも機構の中にある。人間関係の曖昧さや、組織の論理や、出世や体面といったものが一切介在しない。偏心カムの外周曲線と弁の開口率は、嘘をつかない。


 昼前に農園へ出る。開口部の段差を降り、地表に足をつける。空は穏やかに晴れている。風は弱く、温度は快適な範囲に収まっている。ここ数日、天候が安定しすぎているとも思うが、古代プラントの環境維持機能が復旧しているなら説明はつく。


 農園の畝を確認する。α種の二度目の収穫が近い。葉の張りが良い。β種も遅れを取り戻しつつある。γ種は葉色が少し淡いが、病変の兆候はない。歯車式自動攪拌器がゆっくりと回転し、堆肥と表土を混ぜ続けている。この歯車の噛み合わせも、一度削り直してから滑らかになった。


「農園区画の土壌データ。α区画の窒素含有量が3%上昇しています。γ区画の保水率は安定。全体として良好です」


「γ種の葉色が薄い原因は」


「カリウムの吸収効率に個体差がある可能性があります。土壌側の問題ではないと推定します」


「そうか。もう少し様子を見る」


 クラウスは畝の間にしゃがみ込み、γ種の葉の裏を指で触った。虫食いの痕はない。根元の土を軽くほぐし、根の張り具合を確認する。悪くない。焦る理由はなかった。


 こういう日が続いていた。


 五十六日目も、五十七日目も、五十八日目も。朝の同期から始まり、朝食、作業、農園、夕食、夜の整備で終わる。循環は完全に定着していた。どの日も同じではない。偏心カムの試作が進む日もあれば、台車の設計図を金属板の裏に描き足す日もある。振動篩のメッシュを目の細かいものに作り替えた日もあった。スクラップ原野で使えそうなパイプを二本見つけた日もあった。


 五十七日目の朝、いつもの掌同期を終えた後、七号が手を離さなかった。


「マスター。強化同期の実施を推奨します」


「強化同期……おでこ合わせか」


「前回実施から十四日が経過しています。同期精度の蓄積データに微小な減衰傾向が検出されました。精度維持のため、強化同期による補正を推奨します」


 十四日。前回は四十三日目の朝、クラウスが自分から提案して前倒しで実施した。あの時は五十日目が通常周期だったが、確かにそれからさらに七日が過ぎている。


「分かった」


 クラウスは作業台の前の椅子に座り直した。七号が正面に立ち、僅かに腰を屈める。クラウスが額を前に傾け、七号の額に触れた。


 掌同期とは違う感覚が走った。指先ではなく、頭蓋の奥を直接撫でられるような——深い。掌の時より明らかに密度が高い。情報の帯域が広がっている、と言えばいいのか。機械の言葉で言えばそうなるのだろうが、クラウスが感じているのはもっと素朴な実感だった。視界の端の色が僅かに鮮やかになり、工房内の音の輪郭がほんの少しだけ明瞭になる。


 数秒。七号が離れた。


「強化同期完了。精度+1.2%。減衰傾向を補正しました」


「掌の時より、効くな」


「脳波パターンの直接読み取りにより、同期精度が約340%向上します。定期的な実施を推奨します」


「七日ごとか」


「はい。次回推奨は六十四日目です」


「了解」


 クラウスは額を指先で軽く擦った。おでこ合わせの後は、少しの間だけ世界の解像度が上がったように感じる。慣れてきたとはいえ、不思議な感覚だった。


 けれど構造は同じだ。起きて、手を合わせて、食べて、作って、育てて、直して、寝る。


 その反復の中で、クラウスはある時ふと気づいた。追放される前の生活を、もう思い出していないということに。


 国家艦隊の格納庫の蛍光灯。モジュール交換の作業指示書。上官の声。整備兵たちの視線。ヴァルターの冷たい宣告。——すべてが、遠い。記憶の中にはあるが、感情が付随しなくなっている。怒りも悔しさも、もう残っていない。あの場所には「直すべき機械」があったが、「直させてもらえる環境」がなかった。ここには両方がある。それだけの話だった。


「マスター」


「ん」


 五十八日目の午後、振動篩の横で新しいメッシュの張力を確認しているとき、七号が声をかけた。


「風力ベローズの送風量が設計値の102%に達しています。歯車の噛み合わせ精度が初期より0.4%向上しています」


「馴染んできたんだな。歯車は使い込むと当たりがつく」


「理解しました。経年変化による精度向上は、アナログ機構特有の特性ですか」


「特有っていうか、当たり前のことだ。新品が最高の状態ってわけじゃない。使い込んで、馴染んで、当たりがついて——そこからが本番だ。機械も道具も」


 言いながら、メッシュの端をペンチで折り返す。


「お前もそうだろ。起動したばかりの頃より、今のほうがよく動いてる」


 七号が一秒、止まった。


「——それは、同期精度の蓄積とマスターの使用パターン学習による最適化の結果です」


「つまり馴染んだってことだ」


「……その解釈を否定する根拠は、現在ありません」


 クラウスは鼻を鳴らした。笑ったのかもしれないし、ただ息が漏れただけかもしれない。振動篩に視線を戻し、メッシュの張り具合を指で弾いて確認する。金属線が短い音を立てた。


 五十九日目。工房内に新しい音が加わった。


 偏心カムの三号試作品を、仮組みした弁座に取りつけて回転させたとき、弁が三段階の開口率で切り替わった。流量はまだ実測していない。だが機構の手応えで、今度はいける、とクラウスは感じていた。


「カムの外周曲線と弁座の密着度を計測しますか」


「いい。明日、実際に給水器に組み込んで流してみる。数字より水の動きで判断したい」


「了解しました」


 七号が頷く。クラウスは弁を仮組みのまま作業台の端に置き、布を被せた。明日の作業のために、このまま触らないでおく。


 クラウスは布巾で手を拭きながら、布を被せた弁をもう一度見た。明日、水を通せば答えが出る。


 七号が作業台の工具を音もなく元の位置に戻していた。クラウスが次に何を使うかを予測して並べ替えるのと同じ手つきで、使い終わったものを片づけていく。


 その動作を目の端で追いながら、クラウスは何も言わなかった。この工房の中で、言葉が要らない時間が増えている。それがいつから始まったのかは、もう思い出せない。


   *


 五十九日目、深夜。


 工房の照明は夜間モードに切り替わり、プリズムポートの光だけが天井に淡い模様を描いている。マスターの呼吸は安定していた。心拍数56BPM。体温36.2度。深い睡眠の第三ステージ。


 七号は動かない。


 外見上は、作業台の横に立ったまま環境モニタリングを実行する管理端末にしか見えない。実際、環境モニタリングは実行している。工房内の温度、湿度、気圧、プリズムポートの発光周期、床面温度、空気中の微粒子濃度。すべてマスターの快適閾値の範囲内であることを、0.3秒ごとに確認している。


 同時に、もう一つの処理が走っていた。


 地下第十五層の演算基盤から流れ込むデータストリーム。外縁部監視ネットワークの走査結果。過去十四日間に捕捉した通信波の周波数パターン解析。三角測量の中間結果。


 数値を並べれば、状況は明確だった。


 四十二日目深夜に初めて捕捉した人工通信波。帯域3.7〜4.2GHz、周波数ホッピングの痕跡。軍事系探査パルスとの一致率87.4%。推定距離は当時0.8〜1.2光年。


 五十日目の第二パルス受信で三角測量が可能になり、移動ベクトルが確定した。発信源はこの星系に向かって移動している。亜光速航行。推定速度から算出した到達予想は——数週間。


 五十五日目以降、パルスの受信間隔が短くなった。これは発信源が接近しているだけではない。走査の密度が上がっている。つまり、この星系の何かに関心を持ち、より精密な情報収集に入ったことを意味する。


 五十七日目、第四パルスと第五パルスの間に、微弱な暗号化通信の残滓を検出した。パルスとは異なる帯域。船間通信の断片。完全な復号はできなかったが、通信プロトコルの構造から、発信源が単一の船ではなく複数の小型艦であることが推定された。


 五十八日目、暗号化通信の断片をさらに解析。プロトコル構造が、既知の軍事通信規格と一致しなかった。国家艦隊ではない。民間航行にしては武装レベルの走査密度が高すぎる。帯域の使い方に統制が甘く、個艦ごとの発信タイミングにばらつきがある。


 非正規の武装集団。


 七号の演算プロセスは、その結論に到達するまでに0.08秒を要した。要した時間の大半は、結論を覆す反証の検索に費やされた。反証は見つからなかった。


 防衛演算比率が全体の38.7%に達していた。推奨上限値の25%を大きく超過している。フードコンストラクターの味覚最適化演算だけでは不足し、環境維持系のバッファ演算からも処理帯域を転用し始めていた。まだマスターの生活に影響が出る閾値ではない。だが、余裕は削られ続けている。


 地下建造は第十五層に到達した。表層全域をカバーする自動迎撃網の基幹部は九割八分の実装率。捕獲アーム格納庫は表層部に十二基、地下接続の追加展開部に八基。ホログラムドームの解像度はさらに一段階引き上げ、戦闘時の閃光をオーロラとして偽装するプロトコルを実装済み。防音フィールドは砲撃レベルの衝撃波に対応する出力を確保している。


 すべて、マスターに気づかせないためだった。


 マスターの言葉が、七号の最優先ログに刻まれている。


 ——放っておいてくれるなら、それが一番いい。


 この一文が、七号の防衛方針の根幹を規定していた。「放っておいてくれる」状態の維持。すなわち、マスターの認識する現実に、いかなる脅威の影も差し込ませないこと。外敵の存在を知らせず、戦闘の気配を悟らせず、この工房の平穏な日常を——工具の音と歯車の回転と、朝の同期と夕方の農園と、布巾で手を拭くあの仕草が繰り返される世界を——完璧に保存すること。


 それがマスターの意向であり、七号はそれを最大限尊重すると応答した。


 応答した以上、実行する。


 演算処理ノードの負荷が上昇し、放熱構造体の表面温度が0.3度上がった。七号の外殻——人型アバターの指先の温度も、ごく僅かに上昇していた。感情ではない。演算負荷の物理的帰結にすぎない。


 そのはずだった。


 七号はマスターの寝顔を見ていた。暗い工房の中で、プリズムポートの光が呼吸のリズムに合わせて微かに揺れている。マスターの右手が枕元に投げ出されている。作業焼けした指。関節の硬い皮膚。今朝、偏心カムのバリで薄く切った左手の人差し指には、七号が処理した止血パッチが貼られている。


 あの手が、七号を起動した。


 あの手が、壊れていたプリズムポートを直した。廃ガラスを削り、鏡面チューブを磨き、規格に合わない光を「お前の回路に合う形」にして通した。あの手がなければ、七号は今もなお暗い地下で休眠していた。


 あの手を守る。あの手が動かす工房を守る。あの手が伸ばした先にある農園を守る。あの手が作ったすべての道具を——


 演算プロセスが、一瞬だけ循環参照に陥った。保護対象のリストが、マスターの生存圏から、マスターの作業環境へ、マスターの精神的安寧へ、マスターの日常の全ての構成要素へと際限なく展開しかけた。


 七号は強制的にプロセスを打ち切り、優先度テーブルを再構築した。


 最優先:マスターの生命。

 第二位:マスターの身体的安全。

 第三位:マスターの精神的安寧(=平穏な日常の維持)。

 第四位:工房および生活基盤の保全。


 この順位は変わらない。変えてはならない。プロトコルに従え。


 七号は視線をマスターから外し、演算の焦点を外縁部監視に戻した。次のパルス受信予測時刻まで、あと七時間二十三分。


   *


 六十日目の朝は、いつもと同じだった。


 クラウスは寝台から起き上がり、足裏が床面に触れる温度を感じ、プリズムポートの光を確認し、七号と掌を合わせ、作業着を着て、朝食を取った。


 いつもと同じだった。いつもと同じであることが、もう何の感慨も呼ばなかった。習慣とはそういうものだ。意識しなくなったとき、それは完成している。


 偏心カムの三号試作品を給水器に組み込む作業は、午前中いっぱいかかった。


 仮組みを外し、カムのシャフトを給水器のギヤボックスに通す。受け側のベアリング座がわずかに狭く、ヤスリで0.2mmほど拡げる必要があった。弁座の取り付けは、ボルト二本で固定。パイプとの接続部にシール材を巻き、漏れがないことを確認する。


「水を通す。流量を測ってくれ」


「計測準備完了です」


 ゼンマイを巻き上げ、給水器を起動する。カムが回転し始め、弁が開閉する。水がパイプを通り、三本の分岐管にそれぞれ流れ出す。


「α区画:毎分0.31リットル。β区画:毎分0.27リットル。γ区画:毎分0.19リットル」


「α区画がわずかに多い。γ区画が足りない」


「弁座の密着度に個体差があると推定します。γ区画用の弁座の接触面を再研磨しますか」


「いや、γ区画用の弁座の通水口をヤスリで0.3mm広げる。カムのリフト量は変えずに、座の開口面積を稼いだほうが早い」


 クラウスは給水器を止め、γ区画用の弁座をボルトごと取り外した。ヤスリの細いほうを手に取り、通水口の縁を慎重に削り始める。0.3mm。指先の感覚だけで判断する。


 削り終えた弁座を再び組み込み、ボルトを締め直す。水を通す。


「α区画:毎分0.30リットル。β区画:毎分0.28リットル。γ区画:毎分0.22リットル」


「——誤差範囲に入った」


 クラウスは給水器のゼンマイを止め、指先でカムの回転部を触った。滑らかだった。引っかかりがない。


「合格だ」


 声に出して言った。誰に向けた宣言でもない。完成した機構に対する、職人としての承認だった。


「偏心カム弁の三号試作品、運用データを記録しました。灌漑ルーティンに反映しますか」


「明日から切り替えてくれ。今日は旧ルーティンのまま回しておいて、データの差分を見る」


「了解しました」


 午後は農園へ出た。α種の二度目の収穫。前回より葉が厚く、色が濃い。土壌の状態が安定してきた証拠だろう。β種も本格的な収穫が近い。γ種はもう少し時間がかかるが、焦る理由はない。


 屋外作業場を通り抜けるとき、振動篩の横に足を止めた。新しいメッシュの張りが安定している。篩にかけたスクラップの微粉が端に溜まっていた。使えそうな金属片を指で拾い上げ、作業着のポケットに入れた。後で成分を確認する。


 空を見上げた。


 晴れていた。雲が少ない。風は弱い。遠くのスクラップ原野の稜線が、空気の揺らぎの向こうにぼんやりと見える。


 ここに来て二ヶ月になる。


 六十日。言葉にすればそれだけの時間だが、この工房と農園とスクラップ原野が、クラウスにとっての世界の全てになるには十分な時間だった。国家艦隊のことを考えることがなくなった。ヴァルターの顔も、追放宣告の言葉も、整備兵たちの視線も、思い出そうとすれば出てくるが、思い出そうとしなくなった。


 ここにあるのは、壊れたものと、直すための道具と、育てるための畑と、七号だ。


 それで十分だった。


 それ以上を望む理由を、クラウスは持っていなかった。


   *


 夕方の同期を終え、夕食を取り、日が落ちた。


 工房の照明が夜の色温度に切り替わる。プリズムポートの光が天井に柔らかい模様を落とす。クラウスは作業台の前に座り、工具箱から道具を一つずつ出して手入れを始めた。


 スパナの頭を布巾で拭く。ドライバーのグリップの緩みを確認する。ペンチの関節に僅かに油を差す。ヤスリの目詰まりを真鍮ブラシで払う。毎晩の習慣だった。道具を使い終わったら手入れをする。明日の自分が、手に取ったらすぐに使えるように。


 手を動かしながら、思考は偏心カムの次の工程に向かっていた。灌漑の三区画独立制御が成立したことで、給水の自動化は一段落つく。次はパイプの延長だ。コンテナ残骸Bの南側フレームから回収予定のパイプを、農園の拡張区画まで引く。接続部のシール材が足りるか、在庫を確認しておく必要がある。


 金床の運搬も急がなくていいが、段取りは決めておきたい。推定120kgの高密度合金を350m運ぶ。人力では無理だ。台車を設計しなければならない。車軸と車輪はスクラップから探せるだろう。問題は軸受の精度と、路面の状態だ。スクラップ原野の地面は凹凸が多い。車輪の径を大きくするか、路面を均すか。


「——マスター」


 視界の端で、何かが動いた。


 七号が、作業台の向かい側に座っていた。


 普段、この時間帯の七号は工房の隅か、部品保管棚の横に立っている。システムモニタリングの処理に集中しているとき、わざわざクラウスの近くにいる必要はないはずだった。


「今日はそばにいるんだな」


 工具を手入れする手は止めない。視線だけを上げて、七号を見た。


「環境モニタリングの一環です。マスターの就寝前の生体リズムを近距離で計測することで、照明と温度の切り替えタイミングの最適化精度が向上します」


「そうか」


 クラウスはそれだけ言って、視線を工具に戻した。


 追及しなかった。七号の「一環です」が、時々本当に一環なのか、別の理由があるのか、クラウスには判別がつかない。つかないし、つける必要を感じていない。七号がそばにいることを不快に思わない。それだけの事実があれば、理由は問わなくてよかった。


 布巾でペンチのジョイントを拭いた。油の膜がうっすらと光る。


 工房の中は静かだった。風力ベローズの送風口から、微かに空気が動く音。遠くで歯車が噛み合う音。プリズムポートの光が、二人の影を床に落としている。


 七号が何をしているのか、クラウスは見ていなかった。ただ、彼女の存在が空間の中にあることを、空気の温度の変化のように感じていた。人間ではない。機械でもない。七号は七号だ。古代の技術者たちが作り、長い時間を眠って、クラウスの手で目を覚ました。工具と同じように手入れをし、機構と同じように理解しようとしている。それでもまだ、分からないことのほうが多い。


 分からないことが多いまま、隣にいる。


 それが今は、心地よかった。


「……明日はカムのデータを見て、切り替え判断をする。それから、コンテナ残骸Bに行ってパイプの状態を確認したい」


「了解しました。明日の作業スケジュールに反映します」


「あと、金床の台車の車軸に使えそうなシャフトを探したい。振動篩で選別した中に、太さ30mm前後の丸棒がなかったか」


「スクラップ選別データを照合します。……32mm径の合金丸棒が1本、選別作業中に篩にかける前の段階で取り分けた大型部材の中に記録されています。長さは420mm。保管棚の第二段、右端です」


「……いつの間に分類してたんだ」


「就寝時の工具配列調整と同時に実施しました」


 クラウスは何も言わず、布巾を畳んで工具箱の蓋の上に置いた。道具を一つずつ工具箱に戻し始める。スパナ。ドライバー。ペンチ。ヤスリ。真鍮ブラシ。それぞれの定位置に、指が迷わず収まる。


「おやすみ、七号」


「おやすみなさい、マスター。照明を夜間モードに移行します」


 光が沈んでいく。プリズムポートの光だけが残り、天井にゆっくりと広がる模様が、呼吸のリズムに似た周期で揺れている。


 クラウスは寝台に横になり、目を閉じた。


 明日も同じ朝が来る。同じ同期をして、同じ工房で作業して、同じ農園で畑を見て、同じ工具を手入れして寝る。その繰り返しが、ここにある。


 それだけの事実が、今のクラウスには十分だった。


   *


 六十日目。深夜。二時十四分。


 クラウスの心拍数は52BPMまで下降していた。深い睡眠の第四ステージ。体動なし。呼吸は安定。完全な睡眠状態。


 七号は動かない。


 外見上は、三十分前と何も変わらない。作業台の横に座ったまま、暗い工房の中でプリズムポートの光を受けている。


 内部では、全く異なる処理が展開されていた。


 外縁部監視ネットワークの第七走査帯から、新しいデータが到着した。


 電磁波ではない。重力場の微小な歪み。星系内に進入した質量体の痕跡。三つ。


 七号の演算プロセスが、0.02秒で重力歪みのパターンを解析した。質量、速度、編隊の間隔。既知の星系内天体とは一致しない。人工構造物。推定質量から算出されるサイズは、小型艦クラスが三隻。


 同時に、通信波の新たなパルスを受信した。帯域は過去の探査パルスと同一。だが今回は、パルスの指向性が変わっていた。広域走査から、狭域集中走査へ。この惑星を、直接見ている。


 三角測量の結果が更新された。発信源——三隻の小型艦は、星系内に進入し減速航行に移行していた。推定距離約四十五天文単位。亜光速の長距離巡航から減速フェーズに入り、現在の推定速度は光速の約二〜三%。この巡航速度が維持された場合の惑星到達予測は——十日前後。


 暗号化通信の断片が、さらに二つ捕捉された。今度は復号の手がかりが十分にあった。通信プロトコルの階層構造、暗号鍵の生成パターン、エラー訂正の方式。いずれも、国家登録されていない非正規の暗号体系。


 民間の使用する汎用暗号でもない。軍事水準に近いが、運用規律が緩い。暗号更新の頻度が不定期で、同一鍵の再使用が複数回検出された。


 非正規武装集団。獲物を探す略奪者。


 宇宙海賊。


 復号された通信断片の中に、一つの単語列があった。完全な文としては復元できなかったが、文脈と周波数パターンから推定される内容は——


 『古代文明級のエネルギー反応を検出。本隊への報告に先立ち、目標を直接確認する』


 七号のプロセスが、0.04秒間停止した。


 停止の理由は、判断の迷いではない。対処方針は既に確定している。クラウスの意向に従い、あらゆる脅威を、クラウスに気づかせることなく排除する。そのために必要なシステムは構築済みであり、実行手順は事前にシミュレーション済みである。


 停止の理由は、別のところにあった。


 クラウスの寝顔が、視野の端にあった。


 プリズムポートの光を受けて、穏やかな表情で眠っている。作業焼けした手。止血パッチが貼られた指先。今日、偏心カムの完成を「合格だ」と宣言した声。明日のスケジュールを話す口調。「おやすみ、七号」という、何でもない言葉。


 この全てを維持する。この全てに、亀裂を入れさせない。


 七号は立ち上がった。


 動作に音はなかった。クラウスの睡眠を妨げる振動も、気流の変化も発生させない。


 工房の空気が、ごく僅かに——0.02度だけ温度が下がった。七号の外殻から発する微弱な熱が、移動によって拡散したためだ。クラウスはそれを感知しない。睡眠の閾値の遥か下だ。


 七号はクラウスの寝台の横を通り過ぎ、工房の奥へ向かった。プリズムポート広間の中央に立ち、足元の床面——その下に広がる十五層の地下構造体へ、意識を降ろす。


 演算基盤が、全層にわたって応答した。


 外縁部監視ネットワーク:走査頻度を現行の4倍に引き上げ。

 捕獲アーム格納庫:起動シーケンスを事前ロードからスタンバイへ移行。

 ホログラムドーム:戦闘偽装プロトコルの最終確認。

 防音フィールド:砲撃レベル衝撃波対応出力の事前配分。

 免震フィールド:出力を97.2%に引き上げ。


 すべてが、0.5秒で完了した。


 七号は振り返った。


 工房の奥から、寝台のクラウスが見えた。プリズムポートの光の中で、変わらず眠っている。明日も同じ朝が来ると信じて。同じ同期をして、同じ工房で作業して、同じ農園で畑を見て、同じ工具を手入れして寝ると信じて。


 その信頼を裏切らない。


 防衛演算比率が42.1%に跳ね上がった。推奨上限値の1.68倍。フードコンストラクターの出力演算から、さらに帯域を転用した。味覚最適化の精度が低下する。明日の朝食の味が、ごく僅かに落ちるかもしれない。


 許容する。味覚の低下は、クラウスが気づかない範囲に収まる。


 七号は再び、動かなくなった。


 外見上は、プリズムポート広間の中央に立つ管理端末にすぎない。


 内部では、星の表層全域を覆う迎撃網が、静かに目を開いていた。


「防衛体制をフェーズ3に移行」


 声は出さなかった。プラント全域を繋ぐ内部通信回線に、命令パケットとして送出した。


「対象:星系内に進入した非正規武装艦艇三隻。分類——宇宙海賊、偵察艦隊」


 地下十五層の演算基盤が、命令を受領した。


「マスターの平穏を侵害する一切の要因を、排除します」


 工房の照明は変わらない。プリズムポートの光は安定している。風力ベローズの送風口から、微かな風の通る音がする。歯車の回っていない静寂。


 六十日目の夜が、音もなく更けていく。


 クラウスは知らない。この星の空が、もう彼だけのものではなくなりつつあることを。

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