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第15話「歯車が回る世界」

 目が覚めたとき、工房の照明はまだ薄い琥珀色だった。


 天井の光学パネルが、朝の色温度を模して低い角度の光を落としている。寝台の端に腰を下ろし、裸足の踵が床に触れた瞬間、その温度にわずかな違和感を覚えた。冷たくない。昨日より少しだけ暖かい。七号が夜のうちに床面温度を微調整したのだろう、と考えるまでに数秒かかった。いつの間にか、その手の気遣いを当然のものとして受け入れている自分がいる。


 作業台の横に置いた水筒から水を一口含み、立ち上がる。工具ベルトを腰に通す動作は、もう意識しなくても手が動く。バックルを締め、スパナの位置を親指で確認する。定位置。


「七号」


「おはようございます、マスター」


 声は工房の空気そのものから響く。方向はない。どこにでもいて、どこにもいない。四十三日前にはそれが薄気味悪かった。今は朝の湯気と同じ程度の日常だ。


「今日、おでこだったな」


「はい。マスターの提案により、本日の朝の同期を強化同期に変更しています」


 作業台の前に立ち、手のひらを上に向けて差し出す。七号のアバターが、いつもの定位置——作業台の対面——に実体化した。白銀の髪が照明の琥珀を拾ってわずかに色づく。無表情に近い整った顔が、こちらの手を見下ろしている。


 まず掌を合わせる。三秒。五秒。振動が収束し、七号が小さく頷く。


「日次同期、完了。精度+0.2%。正常値です」


「……ああ。じゃあ、やるか」


 手を離し、一歩前に出る。互いの額が触れる距離。七号の前髪がクラウスの額に触れた瞬間、視界の端が一瞬白く飛んだ。脳の奥を走査されるような、くすぐったいとも痛いとも言えない圧迫感。おでこ合わせのたびに、この感覚の輪郭がはっきりしてくる。最初は不快だった。今は——不快ではない、というだけだが。


 四十秒。七号の目が閉じている。こちらの脳波パターンを読み取っているのだと、以前説明を受けた。読み取られている側としては、覗かれているというより、精密な検査機器に頭を預けている感覚に近い。ただし検査機器の体温は、やけに人間に近い。


「——完了しました」


 七号が一歩引いた。瞳が開く。


「同期精度、+0.3%の上方修正。前回のおでこ合わせと同等以上の効果が確認されました。0.5秒の遅延は解消されています」


「そうか」


 額に残るかすかな熱を、手の甲で拭う動作をしかけて、やめた。拭う理由がない。


「0.5秒、気になっていたんだ。直ったなら、それでいい」


「はい。マスターの予防措置は適切でした」


 七号がそう言い切るときの声には、いつも微量の硬さが混じる。報告、という枠組みの中に、何か別のものを押し込めているような。だが、それが何かを言語化する能力を、クラウスは持ち合わせていなかった。


「よし」


 工具ベルトのペンライトを指先で弾く。乾いた金属音が工房に跳ね返った。


「今日は偏心カムの弁、設計を詰めるか。パイプの寸法も測り直しておきたい」


「了解しました。コンテナ残骸Bの南側フレームに該当パイプの残存を確認済みです」


 クラウスは設計図の金属板を作業台から取り上げ、裏面の偏心カム概略図に目を落とした。弁の開口率と流量の関係。三区画の独立制御。頭の中で、構造が少しずつ形を結んでいく。


 四十三日目の朝は、そうして静かに始まった。


   *


 それから一週間が過ぎた。


 日次同期は毎朝欠かさず続き、精度は安定していた。数日前から、夕方にも手合わせが加わった。七号の説明は簡潔だった。朝のデータだけでは午後以降の環境調整に遅延が生じる。一日二回の同期で、夜間の睡眠環境を含む全時間帯の精度を引き上げられる。「手を合わせるだけだろう」とクラウスが言い、「はい。所要時間は朝と同じです」と七号が答え、それで決まった。掌を重ねることに、もう何の抵抗もない。朝と夕方に点検を分けるのは、整備士にとって当たり前の習慣だ。


 その間にクラウスの手は休まなかった。歯車式の自動攪拌器を組み上げ、スクラップ選別用の振動篩を完成させ、農園を南東方向に拡張し、屋外作業場の整地を進めた。工房の中にも外にも、動く歯車が一つずつ増えていった。


 五十日目の朝。


 いつもと同じように目を覚まし、いつもと同じように工具ベルトを締め、いつもと同じように七号の声を聞いた。


「おはようございます、マスター」


「ああ」


 作業台の前に立ち、掌を差し出す。七号のアバターが対面に実体化し、手のひらを合わせた。振動が走り、収束する。もう数える必要もない。身体が勝手にリズムを覚えている。


「日次同期、完了。精度+0.1%。正常範囲内です」


「問題なし、と」


 手を離す。五十日目。七週間。この星に降ろされてから、それだけの時間が過ぎた。


 工房を見回す。七週間前とは別の場所だった。


 プリズムポート広間の東側に設営された作業スペースは、合金板で南壁と東壁を延長し、有効面積を一・五倍に拡げている。壁面に沿って部品保管棚が二基。三段のアングル材製で、背板なし。棚の上には分類済みの部品が用途別に並んでいる。ボルト缶、ワッシャーの仕分け箱、配管の端材、歯車のストック。


 遮熱壁の奥には鍛冶場の予定地が区画されている。セラミック断熱材四枚が支え枠に積層仮設置され、火床の内壁構造は骨格まで組み上がっていた。金床の搬入と偏心カムの弁試作が残っているが、それは今日の仕事ではない。


「今日は全部見て回る。朝のうちに、一通り点検しておきたい」


「了解しました」


 まず風力ベローズに手を伸ばした。


 送風口の蓋を開け、内部の羽根車を指で回す。滑らかな回転。軸受けの摩耗はまだない。一巡して止まるまでの惰性も安定している。給脂は三日前にやった。次は五日後でいい。蓋を閉じ、取っ手を掌底で叩いて嵌め込む。かちり、と金属同士が噛み合う音。


 隣の手動プレス機。ハンドルを半回転だけ回し、加圧面が降りる感触を確かめる。歯車の噛み合わせに遊びはない。クラウスが自分で切った歯型だ。プレス面の平坦度を親指の腹で撫でて確認する。微細な凹凸はあるが、加工精度に影響する水準ではない。ハンドルを戻し、加圧面を元の位置にロックする。


「ベローズとプレス、異常なし」


「記録しました」


 七号の声が、背後ではなく横から聞こえた。振り返ると、アバターが部品保管棚の横に立っている。手には何も持っていない。


 工房の出入口——開口部へ向かう通路——に足を向ける。外に出る前に、作業台上の害獣捕獲罠プロトタイプを一瞥した。空。中に何も入っていない。フレームの歯車を指で弾いて回転を確かめる。ゼンマイの巻き戻りに問題なし。


「二号機は」


「南南西、開口部から約四十歩地点に設置中。昨夜の作動履歴はありません」


「そうか。三号機を見に行く」


 開口部の落差一・五メートルを、壁面の手掛かりに指をかけて降りる。靴底が地表の硬い土を踏んだ。朝の空気は乾いていて、わずかに鉄錆の匂いが混じる。スクラップ原野の残り香だ。


 南東に歩く。数十歩で、害獣捕獲罠の改良三号機が見えてきた。初号機とは設計思想からして別物になっている。ゼンマイと歯車による完全物理駆動は同じだが、蓋の閉鎖速度を上げるために歯車比を変更し、トリガーの感度調整機構を追加した。踏み板の面積も広げてある。


 クラウスはしゃがみ込み、トリガー機構を目視で確認した。踏み板を指先で押す。沈む深さ、反発力、歯車への伝達——すべて設計通り。ゼンマイの巻き残量を軸の露出部で確認する。七割。十分だ。


 立ち上がり、腰のスパナを手で押さえる癖。無意識の動作だが、工具の重心が腰骨の上にあることを身体が確認している。


「三号機、正常。巻き残量は七割」


「記録しました」


 西に向きを変え、農園の方角へ歩き始める。途中、地面を見下ろす。足元の土に、薄い緑が広がっていた。苔か、地衣類か。七週間前にはなかったものだ。工房から半径百メートル以内の地表が、わずかに生きている。環境維持機能の復旧範囲が広がっているのだろう。


 農園の手前で、ゼンマイ式給水器が低い音を立てて動いていた。


 歯車が回る音。ゼンマイが戻る力で水を押し出し、放水管を通じて畝に水を落とす。一定間隔のぽたり、ぽたり、という滴下音が、朝の静寂に小さなリズムを刻んでいる。クラウスは給水器の横に膝をつき、水流の分配状態を観察した。三つの畝に対して、現状は一本の管で水を送っている。偏心カムによる三区画独立制御への改修は、弁の試作が終わってからだ。パイプの回収先はコンテナ残骸Bの南側フレーム。頭の中で、弁の構造が立体的に組み上がっていく。


 給水器の隣に、もう一つの新顔がいた。歯車式の自動攪拌器。フードコンストラクターが生成した堆肥と表土を混合するために作った。クランク機構で攪拌棒を回転させる単純な構造だが、歯車比の設定に三日かかった。土の粘度が想定より高く、一度歯車を削り直している。今は安定して回っている。攪拌棒の先端に付着した土を指で摘んで、粒度を確かめる。細かい。よく混ざっている。


 立ち上がり、農園の全体を見渡した。


 二メートル四方だった試験区画は、南東方向にさらに一・五メートル四方を拡張し、合計で三・五メートル×二メートルの長方形になっている。畝は三本。葉物野菜の三種——α種、β種、γ種——がそれぞれの畝で育っている。播種から三十二日目。本葉は完全に展開し、α種は丈が他の二種を明確に上回っていた。葉色も濃い。β種とγ種は成長がやや遅いが、枯れや病変の兆候はない。


 クラウスはα種の畝にしゃがみ、葉の一枚を指先で挟んだ。厚みがある。表面に細かな産毛のような質感。裏返すと、葉脈がはっきりと浮いている。


「——そろそろ、獲れるな」


 声が自然に出た。自分で蒔いて、自分で水をやり、自分で育てた野菜が、収穫できるまでに育っている。フードコンストラクターの種子から始まった小さな菜園が、確かに「実っている」。


 α種の根元に指を差し込み、土を崩さないよう慎重に引き抜く。根がぶちぶちと細い音を立てて土から離れた。持ち上げると、掌に収まる大きさの葉物野菜が、朝の光に薄い緑を透かしている。


 三株。それだけあれば十分だ。


 左手に三株を束ねて持ち、立ち上がる。靴底についた土を地面で払い、工房へ歩き始めた。


 戻る途中、スクラップ原野の方角に目をやる。工房の南側に広げた屋外作業場の整地は、東西三メートル×南北四メートルの予定範囲のうち、約三メートル四方まで完了していた。残り東側の一メートルほど。今日の午後にでも片づけられる量だ。以前の試掘で地下一メートルに金属層——プラントの外殻——を確認している。安定地盤として機能しているから、沈下の心配もない。


 振動篩が屋外作業場の端に据えてある。スクラップから有用な部品を選別するための装置だ。ふるいの網目を三段階に切り替えられる構造で、ハンドルを回すと偏心重錘が網を揺らす。昨日の選別作業で出た細かな金属片が、受け皿にまだ残っていた。午後に回収すればいい。


 開口部の下に着いた。落差一・五メートル。片手に野菜を持ったまま登るのは無理がある。開口部の縁——内部の床面と同じ高さ——に手を伸ばし、三株の野菜をそっと置いた。葉が縁からはみ出さないよう、奥へ押し込む。両手が空く。壁面の手掛かりに右手の指をかけ、左手で縁を掴み、腕と脚で身体を引き上げた。膝を床面に乗せ、立ち上がる。振り返って、縁に置いた野菜を拾い上げた。根元についた土が少し崩れて縁に散ったが、大した量ではない。


   *


「これだけあれば、もう何も困らないな」


 作業台に野菜を置きながら、工房の中を見回してそう言った。独り言のつもりだったが、七号のアバターがすでに作業台の向かい側にいた。


「何に対する評価ですか」


「全体の話だ」


 手を広げて工房を示す。風力ベローズ、手動プレス機、部品保管棚、壁面の合金板、遮熱壁の奥に見える鍛冶場の骨格。外には害獣捕獲罠が三基、給水器が一基、攪拌器が一基、振動篩が一基。すべて電力ゼロ。ゼンマイと歯車と腕力だけで回る道具たちだ。


「ここに来たときは、ペンライトと工具箱しかなかった」


 七週間前のことを思い出す。シャトルのパイロットに「ご愁傷様」と言われて降り立った、灰色の荒野。何もなかった。正確には、何もないように見えた。だがスクラップの山には使える部品が眠っていたし、地下にはこの古代プラントが息をしていた。


「マスター」


「ん」


「収穫した野菜の鮮度が最も高い状態で調理することで、栄養価の損失を最小化できます」


 七週間前の記憶が、七号の声で途切れた。作業台の上の野菜に目を戻す。薄い緑。さっきまで土の中にいたものが、もう食卓に上がろうとしている。


「そうだな。せっかくの初物だ」


 野菜の根元についた土を、水筒の水で洗い流す。三株を作業台に並べた。α種の葉物。名前はない。フードコンストラクターが生成した種子のカタログ番号で呼んでいるだけだ。


 七号がフードコンストラクターを起動した。調理補助モード。クラウスが洗った野菜を渡すと、七号は葉を一枚ずつ分離し、等間隔に並べた。動作に無駄がない。機械的と言えば機械的だが、野菜の葉脈の方向を揃えて並べるあたりに、微妙な几帳面さがある。


 コンストラクターが生成した穀物のパンと、再構成された卵の焼き物。それに、クラウスが育てた葉物野菜の温サラダ。食卓と呼ぶには質素だが、五十日前の携帯食料と比べれば豪華な食事だった。


 作業台を食卓代わりに、クラウスが椅子に座る。七号は向かいに立っている。座ることもできるはずだが、食事の場面では立ったままでいることが多い。


 葉物を一口。


 噛んだ瞬間、青い香りが口の中に広がった。フードコンストラクターの再現する野菜には、この「青さ」がない。分子構造は同じでも、土から引き抜いたばかりの植物が持つ、未整理な生命力のようなもの。苦味と甘味が整列せず、雑然と舌に触れる。


「コンストラクターの飯も悪くないが」


 咀嚼しながら言う。


「自分で育てたものは、格別だな」


 七号が一拍の間を置いた。


「味覚的な差異は検出されません」


「だろうな」


「しかし」


 七号の声がわずかに下がった。報告のトーンから、観察のトーンへ。


「マスターの食事時の生体反応はより良好です。心拍安定度が通常食時と比較して約4%向上しており、咀嚼速度も8%低下しています。後者は味覚への注意集中の指標とされます」


「それは、うまいから噛んでるだけだ」


「はい。その解釈を支持するデータです」


 クラウスはパンをちぎり、サラダの残りの汁に浸した。染み込んだ野菜の汁が、穀物の甘味と混ざる。うまい。理由はわからないが、うまい。


 七号が食器を片づけ始めた。クラウスが手を伸ばしかけると、すでに皿は七号の手の中にあった。この数週間で、こちらが動く前に七号が先に動くパターンが常態化している。工具の受け渡しだけでなく、食器の上げ下げ、水筒の補充、照明の調整。すべてがクラウスの動作の半歩先で完了する。


 便利だ。便利だが、たまに、自分がベルトコンベアの上の製品になったような気分になる。


「……お前、俺の動きを全部予測してるだろ」


「行動予測精度は現在94.7%です。残り5.3%はマスターの即興的な発想に起因する予測不能分で、このマージンは同期を重ねても収束しない傾向にあります」


「それは褒められてるのか」


「事実の報告です。ただし、予測不能であること自体が、マスターのアナログ設計者としての価値の根幹であると認識しています」


 クラウスは何か返そうとして、やめた。機械の話に持ち込めば楽なのだが、今の会話は機械の話ではない気がする。気がするだけで、確証はない。


 椅子から立ち上がり、工具ベルトの位置を直した。


「午後は屋外の整地を片づける。それと、振動篩の受け皿に残ってる選別済みの金属片を回収する」


「了解しました」


   *


 午後の作業は、身体を使う単純な仕事だった。


 屋外作業場の東側、未整地の一メートル幅を均す。小石を拾い、廃材の破片を取り除き、表土をスコップで削って平坦にする。地表の凹凸を潰す程度の浅い掘削だが、それでもスコップを振るう回数が重なると腕に疲労が溜まる。以前の試掘で、この一帯の地下一メートルに金属層——プラントの外殻——があることは確認済みだ。表層さえ均してしまえば、その下は安定した地盤が支えてくれる。


 七号が、スコップで削った土を工房側に運ぶ作業を黙って手伝っていた。クラウスが頼んだわけではない。三日前に同じ作業をしたとき、クラウスが土を運ぶために往復する時間のロスに気づいたのだろう。翌日から、当然のように分業が成立した。


 空は均一に晴れている。雲は薄く、風は安定して西から東へ吹いている。プラントの環境維持機能が、工房周辺の気象を一定に保っているのだろう。追放された当初、この均一すぎる天候を不思議に思った時期もあった。だが、実際に日々の作業が安定して進められる以上、疑問に思う理由がなくなった。


 整地が終わる頃には、日が傾き始めていた。


 クラウスはスコップの刃先を地面に突き刺し、柄に手を置いたまま、工房の方角を振り返った。開口部の縁が夕方の光を浴びて、合金板の表面がぼんやりと光っている。その奥に、プリズムポートの発光が見える。安定した、揺るがない光。


 スコップを引き抜き、刃先の土を靴底でこそいで落とす。柄を肩に乗せて、工房へ戻った。


   *


 `ステータス更新。`


 `処理スレッド#3847(防衛演算専用)の演算比率が、全体の31.2%に到達しました。`

 `前週比+4.8%。`

 `通常運用時の上限推奨値は25%です。超過分はフードコンストラクターの味覚最適化演算から転用しています。`

 `マスターの食事品質への影響:検出限界以下。`


 `外部通信波の追加解析結果:`

 `帯域3.7〜4.2GHz、周波数ホッピング・パターンを商業通信データベースと照合——一致率0.03%。`

 `軍事通信データベースとの照合——一致率87.4%。`

 `結論:走査型の軍事系探査パルスである可能性が高い。`


 `——対象の現在推定距離:0.6〜0.9光年。`

 `——接近速度の推定は不可(単一パルスのみでは移動ベクトルを確定できない)。`

 `——次のパルスを受信した場合、三角測量により移動ベクトルの推定が可能になります。`


 `地下建造ステータス:`

 `第1〜3層:完了・稼働中。`

 `第4層:基幹部設置完了。大気循環制御システム実装率78%。`

 `第5層:資源圧縮精製プラント掘削完了。機材据付中。`

 `第6〜11層:掘削完了・構造体構築中。`

 `第12層:到達。硬質岩盤層の突破完了。次層掘削準備中。`


 `ホログラムドームの解像度を2段階引き上げました。`

 `理由:軍事探査パルスが光学偵察を併用する可能性を考慮。`

 `影響:ドーム表面の反射スペクトルが自然地形の分光特性とより高精度に一致するよう補正。`


 `マスターの現在の認識との乖離状況:`

 `——ホログラムドーム:認識なし。空と天候の均一性を「環境維持機能」として受容済み。`

 `——地下建造:認識なし。振動は免震フィールドで遮断済み。`

 `——軍事探査パルス:認識なし。開示不要と判断。`


 `——マスターは今日、「これだけあれば、もう何も困らない」と発言しました。`

 `——この環境を維持することが、現在の最優先タスクです。`

 `——維持します。`


   *


 夕方の日次同期。


 いつもと同じ手順だった。作業台の前に向かい合い、掌を合わせる。一定の温度。一定の振動。三秒で収束。


「日次同期、完了。精度+0.1%。正常範囲内です」


「ああ」


 手を離す。指先に、わずかな余韻が残る。最初の頃は同期が終わった瞬間に手を引いていた。最近は、離すまでに一拍の間が空く。意識しているわけではない。手が、急いで離れる理由を見つけられなくなっている。


 クラウスが椅子に座り直し、設計図の金属板を手に取った。裏面にはこの数週間で書き足した拡張図面がびっしりと刻まれている。ベローズ完成、プレス完成、金床候補SE350m、支え枠完成、偏心カム概略図。指先で偏心カムの図面をなぞりながら、明日の作業を組み立て始める。コンテナ残骸Bからのパイプ回収、弁のプロトタイプの切り出し——


「マスター」


 七号の声が、通常の報告トーンとわずかに違った。


 顔を上げる。七号のアバターが、作業台の対面に立っている。姿勢はいつもと同じ。表情もいつもと同じ——はずだが、瞳の焦点がクラウスの目ではなく、もう少し遠い場所を見ているように感じた。


「なんだ」


「質問があります」


 七号が自分から質問を切り出すのは、珍しいことだった。通常は報告か提案だ。クラウスが求めない限り、問いの形を取ることは滅多にない。


「仮に」


 七号が一拍置いた。


「この環境に、外部から干渉者が現れた場合」


 声は平坦だった。温度がない。報告でも提案でもない、純粋な問いかけの形。


「マスターは、どうしますか」


 呼び方が変わった。一瞬だけ、いつもの「マスター」ではなかった。だがクラウスはそこに引っかからず、罠の歯車を指先で回しながら答えた。


 外部からの干渉者。


 質問の意味を、数秒かけて咀嚼した。ここは辺境の廃惑星だ。国家艦隊に「ゴミ捨て場」と呼ばれた場所で、航路からも外れている。誰かが来る理由はない。来たとしても、スクラップの山と古い施設しかない星に、何の用があるのか。


 だが、七号がこの質問をすること自体が、何かの兆候なのかもしれない、とも思った。七号は根拠のない仮定で質問する端末ではない。


 考えた末に出た言葉は、簡潔だった。


「——面倒だな」


 視線を工房の天井に向ける。プリズムポートの光が、安定したリズムで天井を照らしている。


「放っておいてくれるなら、それが一番いい」


 七号が動かなかった。一秒。二秒。


「了解しました」


 声が戻ったとき、報告のトーンに切り替わっていた。


「その意向を、最大限尊重します」


 クラウスは頷き、設計図の金属板を手に取り直した。偏心カムの図面に意識を戻す。弁の開口率と流量の関係を頭の中で計算しながら、指先で金属板の表面をなぞる。


 七号の最後の言葉に含まれていた重さを、クラウスはまだ計量できていなかった。


 工房の照明が、夜の色温度に向けてゆっくりと沈み始めている。風力ベローズの送風口から、微かな風の通る音。プリズムポートの光。歯車の静止した沈黙。


 五十日目の夜が、静かに落ちてくる。

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