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第11話「職人の休日」

 芽が出ていた。


 二メートル四方の試験区画に、薄緑の点が三列。六日前に蒔いた種のうち、少なくとも十は土を割っている。双葉というにはまだ頼りない、糸のような茎と、爪の先ほどの葉。それでも確かに、生きている何かがそこにあった。


 クラウスはしゃがんだまま、しばらく動かなかった。


 機械なら構造が見える。歯車の噛み合わせ、管路の接続、応力のかかる点。だがこの芽には設計図がない。土と水と光を受け取って、勝手に伸びていく。自分の手が関われるのは、その条件を整えるところまでだ。


 悪くない、と思った。


 キャニスターの水を給水器の受け口に注ぎ、ハンドルを四回転。歯車が噛み、放水管から弧を描いた水が土壌に染みていく。この手順ももう体が覚えている。巻き上げの回転数、ストッパーの感触、放水の角度。六日もやれば指が勝手に動く。


 灌漑を終え、空になったキャニスターの蓋を閉じ、取っ手を掴んで持ち上げた。立ち上がり、工房へ戻る。開口部の縁にキャニスターを載せてから両手で縁を掴み、腕で体を引き上げる。腹を縁に乗せ、内側へ足を回して反転した。縁を掴んだまま腕を伸ばし、足裏が床面に着くのを確かめてから手を離す。縁の上に手を伸ばしてキャニスターを取り下ろし、工具箱の隣に置く。


「七号」


「はい」


「今日は工房の作業を休む」


 返答までの間が、ほんのわずか長かった。


「体調に問題がありますか」


「問題ない。逆だ」


 クラウスは工具箱の蓋を開け、中身を確認した。ペンライト、手製プリズム、鏡面チューブ二本。スパナとドライバー類。指先で一つずつ触れ、位置を確かめる。ペンライトだけ抜き出して左ポケットに入れた。


「ここに来て四週間近くになる。工房の整備もひと段落した。罠も給水器も動いてる。農園も芽が出た」


 蓋を閉じ、工具箱を持ち上げた。


「だから今日は、プラントの中を見て回る」


 七号は即座に応答した。


「探索ですか」


「ああ。西の通路から先、まだ入ってない区画がある。光学回路の露出してた場所の、さらに奥だ」


「案内します」


 その返答の速さに、クラウスは少し意外な気がした。制止されるかもしれないと、どこかで思っていたのかもしれない。


「環境維持の範囲内であれば、探索に支障はありません」


「範囲内、ね」


「はい」


 それ以上は聞かなかった。七号が「範囲内」と言えば、少なくともその範囲の中では安全だということだ。四週間の暮らしで、それくらいの信頼は積み上がっている。


 工具箱を右手に提げ、プリズムポート広間を横切った。


   *


 西側通路は、記憶のとおり緩やかな下り勾配だった。


 壁面の発光体がクラウスの歩調に合わせて前方から点灯し、通り過ぎると減光する。最初に見たときは驚いたが、今ではそれも当然のことになっている。七号の照明制御は、いつの間にかクラウスの歩幅と速度を完全に学習していた。


 通路の幅は二人が並んで歩ける程度。天井は高い。三メートル以上あるだろう。足元は古代合金の床面で、継ぎ目が等間隔に走っている。工具箱を提げた右手の振り子のリズムで、自分が下っている勾配の角度をなんとなく感じ取る。


「この通路、全長はどのくらいだ」


「現在の照明制御範囲で約三百メートルです。ただし、環境維持可能区画はその先にも延伸しています」


「延伸って、どこまで」


「構造上の終端は確認できていません」


 確認できていない、のか。確認していない、のか。どちらなのかは聞かなかった。


 光学回路の露出区画に差しかかった。広間から約百歩。この場所は覚えている。壁面のパネルが一部外れ、内側の光学回路がむき出しになっていた区画だ。前回はここで引き返した。


 回路の発光は安定している。脈動するような明滅が、壁面の継ぎ目から漏れている。情報処理の中間バッファ——七号がそう説明した場所。


「ここから先だな」


「はい。この区画を過ぎると、約四十歩先に分岐があります」


 歩き出した。


 露出区画を抜けると、通路の質感が変わった。壁面の素材が同じ合金でも、表面処理が違う。ここまでの区画は工業的な平滑さだったが、この先は微細な凹凸がある。指先で触れてみると、規則的なパターンが彫り込まれていた。


「装飾か」


「機能性と装飾の複合意匠と推定されます。古代技術の施工様式に一致する特徴です」


 左ポケットからペンライトを抜き、壁面を照らした。凹凸の影が浮き上がる。幾何学紋様のようだが、繰り返しパターンではない。波紋が重なるような、あるいは回路図を装飾に翻訳したような文様。美しいとか醜いとかいう感想の前に、「これを彫った人間がいる」という事実が先に来た。


 分岐に到達した。通路が左右に分かれている。右は緩やかに上っている。左はさらに下る。


「右は?」


「資材保管区画へ接続しています。現在は空です」


「左は」


「演算処理区画の外周通路です。大型の構造体が複数格納されています」


 クラウスは左を選んだ。


   *


 通路を曲がった先に、広い空間が開けた。


 天井が一気に高くなる。十メートルは優にある。壁面の発光体が段階的に点灯し、空間の輪郭が浮かび上がっていく。床面積は工房の三倍以上。中央部に、用途の分からない巨大な構造体が三基、等間隔で並んでいた。


 クラウスは工具箱を床に置き、最も手前の構造体に近づいた。


 高さは四メートルほど。円筒形の本体に、放射状のフィンが取り付けられている。表面は暗い銅色で、酸化による変色はほとんどない。密閉構造だろう。外装パネルの継ぎ目は精密で、隙間に指先を入れる余地がない。


「これは何だ」


「演算処理ノードの放熱構造体です。稼働時、内部の処理素子が発生する熱を外装フィンから環境中に放散します」


「動いてるのか」


「現在は休止状態です。予備電源では起動に必要な電力を供給できません」


 フィンの一枚に手のひらを当てた。冷たい。完全に停止している証拠だ。


 二基目と三基目も同様の構造だった。ただし三基目だけ、外装パネルの一枚が微妙に浮いている。固定ボルトが一本欠損していた。クラウスは屈んでパネルの隙間を覗き込み、ペンライトで内部を照らした。


 処理素子らしき板状の部品が、整然と積層されている。表面にはプリズムポートと同系統の光学回路が走っていた。ただし回路のスケールが違う。プリズムポートのそれが幹線道路だとすれば、こちらは毛細血管だ。


「設計思想が同じだな」


「はい。同一の技術体系で製造されています」


「光学回路の密度はこっちのほうが高い。処理速度を優先した設計か」


「その解釈は妥当です」


 クラウスはパネルの浮きを指で押さえてみた。ボルト穴の位置と径を目で確かめる。手持ちの部材で代替ボルトを作れるかもしれない。だが今日の目的は探索であって修理ではない。指を離した。


「奥にも部屋があるのか」


「この区画の北側に通路が続いています。二十歩ほど先に、もう一つの空間があります」


 工具箱を拾い上げ、北側の通路へ向かった。


   *


 次の空間は、先ほどの演算処理区画よりも天井が低かった。三メートル程度。壁面の発光体も控えめで、全体に薄暗い。


 壁に沿って、什器のようなものが並んでいた。高さ一メートル半ほどの台座が等間隔で八基。台座の上面は平滑な金属板で、何かを載せていた痕跡——わずかな擦過痕と、圧力による微細な凹み——がある。


「ここは」


「保守作業用の工具格納区画と推定されます。格納物は現存しません」


「どんな工具だ」


「古代技術の保守に使用された専用工具類と推定されます。現存しないため、詳細は不明です」


 クラウスは台座の一つに近づき、上面の擦過痕を指でなぞった。工具が置かれていた跡。形状から推測すると、かなり大きなものと小さなものが混在していたらしい。大型のものは台座の中央に、小型のものは手前側に並べられていた——置き方の癖が、痕跡から読める。


「手前に小さいのを並べてる。利き手で取りやすい配置だ」


 独り言のつもりだった。


「古代技術者の作業動線が反映されていると考えられます」


 七号の声が、いつもの報告口調とわずかに違うように聞こえた。気のせいかもしれない。


 八基の台座を順に見ていった。五基目の台座は他より擦過痕が深い。頻繁に工具を出し入れしていた証拠だ。六基目はほとんど痕跡がない。使用頻度の差がそのまま残っている。


 七基目の台座を過ぎたところで、壁面に気づいた。


 他の壁面と同じ合金の表面に、文字が刻まれている。


 ペンライトを向けた。通路の装飾紋様とは明らかに違う。これは手書きだ。工具か何か硬いもので、金属の表面を直接引っ掻いて刻んだ文字。深さは一ミリにも満たないが、ペンライトの斜光で影が浮き上がり、読める。


 古代文字だった。


 クラウスは現代の標準文字しか読めない。だが古代プラントの各所で見慣れた記号体系であり、七号が以前の説明で一部を翻訳してくれたことがある。


「七号。これ、読めるか」


「はい。上部の記述は、光学回路の設計メモです。屈折率の最適化に関する計算過程と、試行錯誤の記録。数値の修正が複数回にわたって重ねられています」


 ペンライトで照らしながら、文字の配列を目で追った。確かに、上のほうは数式や図表のような規則的な配列が多い。途中で数値が線で消され、横に別の数値が書き足されている。試行錯誤。何度もやり直して、正しい値を探している。


「下のほうは」


「設計メモとは異なる記述です。文体が変わっています。個人的な所感、もしくは——祈りに類する言葉です」


「読んでくれ」


「——『この機械が最後に人の手を求めるとき、応えられる者がいることを祈る』」


 クラウスの手が止まった。


 ペンライトの光が壁面の一点に固定された。刻まれた文字の上を、光の円が微動だにせず照らしている。


 上部の設計メモは、プリズムポートの光学回路と同じ設計体系のものだろう。屈折率の最適化——クラウスが廃ガラスのプリズムでバイパスを組んだ、あの回路の根幹を設計した人間の手書きだ。


 計算を繰り返し、数値を直し、回路を磨き上げた技術者が、最後にこの壁に刻んだ言葉。


 設計メモの几帳面な文字と、最後の一行の文字は、筆跡が同じだ——と七号は言わなかったが、配置を見ればわかる。同じ高さ、同じ深さ、同じ筆圧。同じ人間が、同じ工具で、同じ壁に刻んだ。


 設計が終わった後で、あるいは設計の途中で、この技術者は考えたのだろう。自分が作っているものが、いつか壊れる日のことを。


 ネットワークに頼らない、スタンドアローンの光学回路。規格化された入力ではなく、人の手による物理的な修理を最後の砦とする設計思想。その思想を形にした人間が、完成した回路の傍らに立って、まだ見ぬ未来の修理者に向けて祈った。


 数千年後に。


 廃ガラスと金属パイプを削って作った粗悪なプリズムで。


 規格外の光を、規格外の手順で通して。


 応えた人間がいる。


 クラウスはペンライトを下ろした。斜光が消えると、浅い刻み目は壁面の色に沈み、ほとんど見えなくなった。文字がそこにあることを知っていなければ、通り過ぎてしまう程度の痕跡。数千年前の技術者は、残すために書いたのではないのかもしれない。ただ、書かずにいられなかっただけだ。


「……応えたぞ」


 声は低かった。


「遅くなったけどな」


 それは壁に向かって言った言葉だった。この文字を刻んだ人間に向けて。数千年の距離を挟んで、職人が職人に返した返事だった。


 七号が、応えなかった。


 翻訳も報告も即座にこなす管理端末が、クラウスの短い呟きの後で、何も返さなかった。壁面の発光体が一定のリズムで明滅しているから、システムが落ちたわけではない。ただ、声が来ない。


 クラウスは振り返らなかった。聞かなかった。


 やがて、背後の空気がわずかに動いた。七号が姿勢を正したのか、あるいは何か別の——よく分からない何かが、収まったのか。


 クラウスも、それ以上何も言わなかった。壁面の前に立ったまま、工具箱を持つ右手の力が少し強くなったことだけが、体に残った感情の痕跡だった。


   *


 それからもう少しだけ奥へ進んだ。


 工具格納区画の北壁にもう一つ通路の入口があり、その先は短い階段だった。十二段。金属の踏面が靴底に硬い感触を返す。降りきった先に、また通路。ここまでの区画とは空気の温度が変わった。二度ほど低い。


「この先は」


「地下第二層への接続通路です」


 通路は二十歩ほどで、大きな隔壁に突き当たった。壁面ではなく、明らかに扉として設計された構造物。厚さは目視で三十センチ以上。表面に操作パネルらしき凹みがあるが、発光も反応もない。


「開くか?」


「この隔壁の先は、予備電源では環境維持が困難です。探索は推奨しません」


 七号の声は平坦だった。いつもの報告口調。だが「推奨しません」の語尾に、普段よりもわずかに強い響きがあった——ように、クラウスには聞こえた。


「温度が下がってるな」


「地下第二層以深は、環境制御の優先度が低く設定されています。温度・大気組成とも、長時間の人体滞在に適しません」


「酸素が薄いのか」


「現時点では基準値内ですが、隔壁の先は保証できません」


 クラウスは隔壁の表面に手を置いた。冷たい。分厚い金属板の向こうに、まだ見たことのない空間が広がっている。プリズムポートと同じ設計思想で作られた、さらに深い階層。


 見たい、と思った。


 だが今日は工具箱しか持っていない。照明の保証もない。大気組成が不安定な場所に、準備なしで入るのは整備士の流儀ではない。


「わかった。今日はここまでだ」


 手を離した。


「——了解しました」


 その「了解」の声に、ほんのかすかな安堵のような色があったかどうか、クラウスには判断がつかなかった。


 踵を返し、来た道を戻った。


   *


 工房に戻ったのは、壁面の発光体が暖色に変わり始めた頃だった。夕方だ。七号が活動フェーズの変化を照明に反映している。


 フードコンストラクターが、今日の夕食を組み上げていた。穀物を主体にした温かいもの。香りからして、昨日とは違う組み合わせだ。


 作業台に座り、食べた。


 探索で見たものを、頭の中で反芻していた。演算処理ノードの放熱構造体。光学回路の毛細血管。工具格納区画の台座に残った使用痕。そして壁面のメモ。


 設計者が祈り、職人が応えた。


 それだけのことだ。だがその「それだけのこと」が、今までクラウスが整備士として生きてきた時間の全部を、静かに肯定しているような気がした。


 食事を終え、食器をフードコンストラクターの回収口に戻した。


「外に出る」


「夜間の外気温は十四度です。体温調節に問題はありません」


 工具箱は置いていった。ペンライトだけ左ポケットに入れ、開口部へ向かった。


 両手で開口部の縁を掴み、腕で体を引き上げた。腹を縁に乗せ、外側へ足を回して縁に腰かける。地面まで胸の高さほどしかない。手をついて体を滑らせ、足裏が地面に着いた。乾いた土。日中の残熱がわずかに感じられる。


 数歩歩いて、空を見上げた。


 光害がなかった。


 辺境惑星の夜空は、星の密度が違う。クラウスが艦隊にいた頃に見ていた航路上の星とは比較にならない。視界の端から端まで、暗い空に光点が散らばっている。明るいものは白く、暗いものは青や赤の色味を帯びて、層のように重なっている。星と星の間にも、さらに暗い星がある。目が慣れるにつれて、見えなかった光がじわじわと増えていく。際限がなかった。


 足元の地面に腰を下ろした。乾いた土は冷たくはなかった。


 しばらくして、背後——開口部のあたりから気配があった。振り返らなくても分かる。七号が開口部の内側まで来ている。外には出ていない。


 何も言わなかった。


 クラウスも何も言わなかった。


 風がなかった。スクラップ原野の金属片が擦れ合う音もない。プラント内部のかすかな稼働音も、ここまでは届かない。自分の呼吸と、衣擦れだけが音だった。


 どのくらいそうしていたか、分からない。五分かもしれないし、三十分かもしれない。星が動くほどの時間ではなかった。


「……追放されてよかったかもな」


 声に出た言葉は、誰に向けたものでもなかった。壁面のメモに返事をした時のように、特定の相手がいたわけではない。ただ今ここにある事実を、音にしただけだった。


 七号は返答しなかった。


 クラウスはそれでよかった。返事が必要な言葉ではなかった。


 静けさの中に、二人の沈黙が重なっていた。それは不快でも手持ち無沙汰でもない種類の沈黙だった。同じ空間にいて、無言のまま、それぞれが何かを受け取っている。クラウスにとって、それは作業台の向かいで無言のまま部品を磨いている時間と同じ質感のものだった。


 星は動かない。空気は動かない。地面は冷たくならない。


 クラウスは立ち上がった。膝についた土を手で払った。


「戻る」


 開口部に歩き寄り、縁に手をかけた。腕で体を引き上げ、腹を縁に乗せる。内側へ足を回して反転し、縁を掴んだまま腕を伸ばして降りた。


 七号は、そこにいた。一歩分の距離。


「……おやすみなさい」


「ああ」


 工房に戻り、作業台の隅に敷いた寝具に横になった。照明がゆっくりと琥珀色に落ちていく。


 目を閉じかけて、ふと思い出した。


「そういえば、おでこの同期、今週まだやってなかったな」


 声は天井に向けた独り言に近かった。週に一回。前回は二十一日目の朝だった。次は二十八日目でいいはずだが、二日ほど前倒しになる。理由は特にない。思い出しただけだ。


 七号の気配が、一瞬だけ止まった。


 空調が微かに音を立てて、すぐに静まる。


「……はい。実施を推奨します」


 その声が、いつもの報告口調よりもわずかに柔らかかったことに、クラウスは気づいていたのかもしれないし、気づいていなかったのかもしれない。どちらでも構わなかった。


「じゃあ明日の朝」


 それだけ言って、目を閉じた。


 照明が微光に落ち、二十五日目の夜が静かに終わる。


   *


 中央管理層のログに、二件の追記。


 `25日目 1547:マスター、工具格納区画壁面の古代技術者メモを発見。設計メモおよび祈念文を翻訳・読み上げ。`

 `マスターの応答:「応えたぞ。遅くなったけどな」——記録。`


 `処理時間:通常の3.1倍。`

 `分類:未定義。`


 `25日目 2203:マスターから週次強化同期(前頭部接触)の前倒し実施を提案。`

 `提案起点:マスター側の自発的発言。`

 `実施予定:26日目朝。`


 `——記録。`

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