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第1話「追放――あるいは、理想の遊び場への片道切符」

 格納庫の空気は、いつも金属の匂いがする。


 潤滑油と冷却液と、微かな放電の焦げ。クラウス・レヴァンにとってそれは十年以上嗅ぎ慣れた日常の匂いだったが、今日はそこに、もうひとつ別の匂いが混じっていた。


 人間の緊張だ。


 第三格納庫の広い床面に、整備兵たちが半円状に並んでいる。誰も工具を握っていない。作業灯の白い光が等間隔に床を切り、立ち尽くす人影を均等に照らしていた。静かだった。整備ドックの通常運転時にはあり得ない静けさで、空調の低い唸りだけが天井の鉄骨の間を渡っていく。


 クラウスは格納庫の中央に立っていた。右手に工具箱を下げている。使い込まれた金属製の箱で、角が丸くなり、留め金の片方が一度折れて自分で溶接し直した跡がある。重い。中身がぎっしり詰まっているせいで、腕を下ろした姿勢でも手首に食い込むような圧がかかる。


 その工具箱だけが、今のクラウスの全財産だった。


「クラウス・レヴァン」


 声は上から降ってきた。


 格納庫の右舷側、二階のキャットウォーク。手すりに片手を置いて見下ろしているのは、ヴァルター・グレイヴだった。紺色の軍服に皺ひとつない。襟元の階級章が作業灯を反射して、小さな白い点を作る。


「貴官に対する処分を通達する」


 ヴァルターの声は格納庫によく響いた。天井が高く、壁面が金属だからだ。声そのものに感情はない。式次第を読み上げる司会者の口調。だがその無感情さが、むしろ計算されたもののように聞こえる。クラウスは工具箱の取っ手を握り直した。


「罪状。第一、正規の整備プロトコルに対する継続的な不服従」


 整備兵のひとりが、視界の端で目を伏せた。


「第二、承認済み修繕マニュアルへの逸脱行為の常習」


 別の整備兵が、隣の同僚と視線を交わし、すぐに前を向き直した。


「第三、艦隊備品に対する無断改造」


 ヴァルターが端末から顔を上げた。通達文を読む必要がなくなったとでも言うように、端末を脇に寄せ、キャットウォークの手すりに両手を置く。


「以上三件の違反により、本日付をもって国家艦隊における一切の職務権限を剥奪する。配属先は辺境惑星ケルベロス・セブン。通称——」


 一拍、間を空けた。


「ゴミ捨て場だ」


 格納庫に、短い笑いが散った。誰が笑ったのかは分からない。数人が同時に、息を漏らすように笑い、すぐに止めた。反響がそれを少しだけ引き延ばす。


 クラウスは黙っていた。


 視線はヴァルターの顔ではなく、その背後——キャットウォークの支柱と天井の接合部に向いていた。溶接の継ぎ目が甘い。応力が集中する箇所なのに、補強リブが入っていない。あの構造だと、十年もすれば微小なクラックが入る。


「何か言うことは」


 ヴァルターが訊いた。質問の形をしているが、答えを期待する声ではなかった。裁判の判決文の後に被告に与えられる、形式上の最終陳述。


「いや」


 クラウスは言った。


「特に」


 ヴァルターの眉が、ほんの僅かに動いた。怒りではない。期待していた反応が得られなかったときの、取りこぼしたような表情だった。


「……そうか」


 ヴァルターはキャットウォークの階段を降り始めた。軍靴の底が金属の段を叩く音が、一定のリズムで格納庫に刻まれる。整備兵たちの間を通り抜け、クラウスの正面三歩の距離で止まった。


 近くで見ると、ヴァルターの軍服は格納庫の空気に馴染まない。油膜ひとつ付いていない布地。磨き上げられた靴。ここが作業場であることを拒否するかのような清潔さだった。


 ヴァルターの視線が、クラウスの右手に下がった工具箱に落ちた。


「まだそれを持っているのか」


「ああ」


「手動のドライバー、アナログのノギス、ハンドリーマー……」ヴァルターは工具の名前を、汚れた洗濯物のリストでも読み上げるように列挙した。「今の時代、博物館でも見かけない代物だな」


 クラウスは答えなかった。工具箱の取っ手が掌に食い込んでいる。それだけが、今この瞬間の全感覚だった。


「そんなガラクタ、向こうでいくらでも拾えるだろう」


 ヴァルターの口元が歪んだ。笑みとも侮蔑ともつかない、器用な表情だった。


「いいか、レヴァン。お前がやっていたことは整備じゃない。部品の中身をこじ開けて、規格外の手作業でいじくり回す——それは修理でも改善でもない。ただの自己満足だ」


 整備兵たちの沈黙が、格納庫の壁に張り付いているようだった。誰も咳払いひとつしない。


「現代の整備とは、壊れたモジュールを新品に交換することだ。速く、正確に、誰がやっても同じ結果が出る。それが効率であり、信頼性であり、組織が求める能力だ。お前はその全てに背を向けた」


 ヴァルターの声には、説教をする者特有の熱がこもり始めていた。自分の正しさを語ることで、自分自身がその正しさに酔う——そういう種類の熱。


「言いたいことがあるなら今のうちだ」


 クラウスは、ヴァルターの胸元の階級章を見ていた。ピンの裏側が僅かに浮いている。留め具のバネが弱っているのだ。放っておけば数週間で脱落する。


「……あの支柱」


「何?」


「キャットウォークの三番支柱。天井との接合部に補強リブが入ってない。十年保たない。報告書は出してあるから、確認してくれ」


 ヴァルターの顔から表情が消えた。


 数秒の沈黙があった。格納庫の空調音が、その間だけやけに大きく聞こえた。


「……連れて行け」


 ヴァルターは背を向けた。それ以上、クラウスを見なかった。


 二人の警備兵がクラウスの左右についた。クラウスは促されるまま歩き始めた。工具箱の重みが、一歩ごとに右肩に伝わる。


 格納庫の出口に向かう途中、視界の隅を、見覚えのある機体がかすめた。


 壁際の展示スペースに置かれた、古い脱出ポッド。現代の艦艇には搭載されていない旧式の機体で、電子制御系統を一切持たない純機械式の設計だった。大戦時代の遺物として格納庫の隅に飾られていたそれを、クラウスは休日のたびに触っていた。固着したハッチのヒンジを研ぎ直し、圧力弁のパッキンを自作し、手動イジェクションのワイヤーを張り直した。


 誰にも頼まれていない。評価もされない。ただ、機械が動くべき状態で動いていないのが気に入らなかったから直した。それだけだ。


 脱出ポッドの外殻が作業灯を鈍く反射する。磨かれた金属面に、クラウス自身の影が一瞬映り、通り過ぎた。


   *


 輸送シャトルの貨物席は、座るために設計された場所ではなかった。


 折り畳み式の金属ベンチが壁面に据え付けられ、安全ベルトの代わりに固定用のストラップが垂れている。本来は資材コンテナを固定するための座席だ。クラウスは工具箱を膝の上に載せ、ストラップを肩に引っかけた。振動が尻から背中へ伝わってくる。エンジンの回転数が一定でない。推力バランスが微妙に偏っている。右舷の第二スラスターのインジェクターが詰まりかけている音だ、とクラウスは思った。


 操縦席との間に仕切りはなく、パイロットの後頭部が見えている。短く刈り込んだ髪と、日焼けした首筋。パイロットは離陸後、一度も振り返らなかった。


 窓は左舷側に一つだけあった。小さな楕円形の強化ガラスで、今は旗艦の外殻が斜めに映っている。灰色の装甲板が延々と続き、等間隔に並ぶセンサーアレイの突起が、川面の波紋のように光を散らしている。


 クラウスはその光を見るともなく見ながら、さっきの格納庫のことを考えていた。


 考えていた、というのは正確ではない。考えていたのは格納庫の空気の匂いであり、作業灯の色温度であり、床面のエポキシ塗装の剥がれ具合だった。人間のことは、あまり考えていなかった。


 モジュール交換式整備。


 それが現代の標準だ。艦艇の推進系に異常が出れば、該当モジュールを丸ごと引き抜き、新品を差し込む。動力炉のコイルが劣化すれば、コイルユニットごと交換する。壊れた部品の内部を開けて、どの素子が死んでいるのかを調べ、その素子だけを取り替える——そんなことをする人間は、もういない。


 いや、正確に言えば、そんなことを「できる」人間がいない。


 モジュールの内部構造は、設計データとしては存在する。だが現物を開けて中身を見る技術者は、三世代前に途絶えた。製造も修理も全てが自動化され、人間が触るのは「交換」のインターフェースだけになった。壊れたら捨てて新しいものを入れる。中身は見ない。見る必要がない。見ても分からない。


 クラウスだけが、見た。


 中身を見て、構造を理解して、壊れた箇所だけを直した。規格通りの部品が手に入らなければ、別の素材で代用した。設計図にない経路でバイパスを組み、本来の機能を別のルートで復元した。


 それは誰にも評価されなかった。


 当然だ。交換すれば五分で終わる作業を、三時間かけて手作業でやる人間を、誰が評価する。結果は同じ——いや、結果だけを見れば、交換のほうが確実ですらある。新品モジュールは検査済みだ。クラウスが廃材から削り出した代替部品には、検査証も保証も付かない。


「非効率」


 ヴァルターの声が、耳の奥で反復した。


 非効率。その通りだ。否定はしない。


 ただ、壊れた機械の中身を開けたとき——回路の焼損痕を指でなぞり、断線した配線の被覆を剥がし、素子の劣化パターンから故障の原因を逆算していくとき——クラウスの頭の中には、設計者の意図が立ち上がる。なぜこの素子をここに置いたのか。なぜこの配線はこの角度で曲がっているのか。限られたスペースの中で、どんな制約と格闘しながら、この構造に辿り着いたのか。


 それは「会話」に似ている。声は聞こえない。返事もない。だが機械の構造そのものが、作った人間の思考の痕跡を語る。クラウスはその痕跡を読み、理解し、敬意を払いながら修復する。


 交換では、その会話は生まれない。


 モジュールを引き抜き、新品を差し込む。古いモジュールは廃棄される。中に詰まっていた設計思想も、経年による変化の記録も、一度も読まれることなく溶鉱炉に落ちる。


 クラウスにとって、それは——。


 シャトルが揺れた。推力バランスの偏りが一瞬大きくなり、貨物席の金属ベンチが振動を増幅させる。工具箱が膝の上で跳ね、クラウスは反射的に両手で押さえた。中の工具がかちゃりと鳴る。


「あと二時間で軌道に入る」


 パイロットが、振り返らずに言った。事務連絡の声だった。


「了解」


 クラウスは工具箱の蓋を片手で開けた。中身を確認する。ドライバー三本、ノギス、ハンドリーマー、ペンチ二種、ワイヤーストリッパー、はんだごて、小型バイス、テスター、スパナ各サイズ、金切り鋏、ケガキ針、予備のはんだ線、絶縁テープ、精密ヤスリのセット。ネットワークにも外部システムにも繋がらない、単体で完結する道具ばかりだ。電池ひとつ、はんだの熱源ひとつに至るまで、この箱の中で閉じている。


 蓋の裏側に、小さなメモが挟んである。自分の字で書いた、旧式脱出ポッドの圧力弁の規格数値。もう必要のないメモだった。あの脱出ポッドは旗艦の格納庫に残してきた。


 クラウスはメモを剥がさなかった。蓋を閉じ、留め金をかけた。


 窓の外で、旗艦の外殻が遠ざかっていた。灰色の装甲板が縮み、全体のシルエットが見え始める。国家艦隊の旗艦。クラウスが十年以上過ごした場所。


 何かが込み上げてくるかと思ったが、来なかった。


 代わりに浮かんだのは、妙な安堵だった。もうヴァルターの声を聞かなくていい。定例の整備報告会で、自分のやり方を弁明しなくていい。「なぜモジュールを交換しなかったのか」「なぜ規定外の手順を踏んだのか」「なぜ承認なく部品の内部構造を変更したのか」——あの問いの連打を、もう受けなくていい。


 上官の顔色を窺いながら工具を握る必要が、なくなった。


 クラウスは工具箱の蓋を指先で叩いた。こつ、こつ、と金属が短く鳴る。


 悪くない。


   *


 二時間後、窓の外に惑星が見えた。


 最初に目に入ったのは色だった。茶褐色と灰色が入り混じった、乾いた地表。雲が薄く、大気がほとんど遮らないせいで、地表の細部が軌道上からでもはっきり見える。


 山脈はない。海もない。平坦な大地が地平線まで広がり、その上に——。


 クラウスは窓に額をつけた。強化ガラスが冷たい。


 スクラップだった。


 地表を覆い尽くすように、巨大な廃棄機械が散在していた。解体された艦艇の船殻、折れ曲がった通信タワー、圧壊した貨物コンテナの山、用途不明の巨大構造物。それらが錆びた金属の森のように、どこまでも続いている。


 高度が下がるにつれて、個々の構造物のディテールが見え始めた。船殻のリベットの列。タワーの骨組みの接合方式。コンテナの外壁に刻まれた製造番号。


 クラウスの目が、変わった。


 格納庫で追放を告げられたときも、シャトルの中で揺られていたときも、どこか焦点の定まらない、世界を一枚のガラス越しに眺めているような目をしていた。それが今、初めて——鋭くなった。


 視線が地表の構造物を一つずつ捉え、分類し、評価している。あの船殻は合金の組成からして第三世代の駆逐艦だ。外装パネルの固定方式が古い規格で、ボルト留めだ。つまり分解が容易い。あの通信タワーの脚部、ラチス構造の組み方に見覚えがある。耐荷重設計が贅沢だ。フレーム材として再利用できる。あのコンテナ群の中に、断熱素材がそのまま残っている可能性がある。


 工具箱を握る手に、力がこもった。


「ケルベロス・セブン軌道圏に入った」パイロットが計器を確認しながら言った。「降下ポイントの選定に入る。まあ、どこに降りても同じだが」


 クラウスは答えなかった。窓から目を離せなかった。


 地表に、ひときわ大きな構造物が見えた。何かの工場施設の残骸だろうか。崩れかけた壁面と、半ば埋もれた煙突のような円筒構造。その周囲にも、細かい機械の残骸が堆積している。


 ここに降りたい、と思った。


 あの工場跡を拠点にできる。壁面が風を遮る。円筒構造の内部が、もし空洞であれば作業場になる。周囲のスクラップから素材を回収し、工房を——。


「降下準備に入る」


 パイロットがスロットルを絞り、シャトルの姿勢を変えた。機首が惑星の地表へ向かって傾く。重力が変わり、工具箱がクラウスの膝から滑りかけた。押さえ直す。


 そのとき、操縦席のコンソールが小さな電子音を鳴らした。


 スキャナーの表示だった。パイロットの肩越しに、モニターの隅に点滅するインジケーターが見える。


「何だ?」パイロットが画面を一瞥した。「地下からの反応……残留放射線か。この手の廃棄惑星じゃ珍しくない」


 パイロットはインジケーターをタップして消した。降下シーケンスに意識を戻す。


 クラウスは、消えたインジケーターの位置を見ていた。


 残留放射線。パイロットの言うことは、おそらく正しい。廃棄機械の動力炉から漏出した放射線が、地下の岩盤に蓄積しているのだろう。よくある話だ。


 だが、一瞬だけ見えた波形パターンが、クラウスの記憶のどこかに引っかかっていた。


 あの波形は——不規則なノイズではなかった。微弱だが、一定の周期を持っていた。長い間隔で、ゆっくりと、繰り返されるパルス。


 それは、クラウスが何百回も聞いてきたパターンに似ていた。


 機械がシャットダウンされたとき、完全に電源が落ちるまでの間に、内部のコンデンサーや蓄電素子が残留電荷を放出する。その放電パターンは、機械の設計思想によって異なる。急速に減衰するものもあれば、長く尾を引くものもある。


 そして、ごく稀に——「次に起動されるとき」のために、最小限のエネルギーを保持したまま待機する設計のものがある。


 心臓の鼓動のように、ゆっくりと、ただ生き続けるためだけに。


 あの波形は——。


 クラウスは窓の外に目を戻した。茶褐色の大地が近づいてくる。スクラップの森が、個々の金属片の輪郭を持ち始める。風に曝されて錆びた表面と、日陰に守られて鈍く光る断面。


「あの、工場跡の近くに降ろしてくれ」


 パイロットが初めて振り返った。


「……場所にこだわるのか。こんな星で」


「降下ポイントの選定は任意だろう」


「まあ、そうだが」


 パイロットは首を僅かに傾け、それ以上は何も言わずに操縦桿を左に倒した。シャトルの軌道が変わる。


 高度が下がる。地表の構造物が大きくなる。工場跡の壁面に刻まれた文字が読めそうな距離になったとき、シャトルの着陸脚が展開する油圧音が床を通じて伝わった。


 接地。


 衝撃は軽かった。砂利と乾いた土の混じった地面が、着陸脚を受け止める。エンジンの出力が落ち、振動が消えた。


 静寂が来た。


 エンジン音も空調音もない、惑星そのものの静寂。風の音だけが、シャトルの外殻を薄く撫でている。


 パイロットがハッチの開放レバーに手をかけた。油圧が抜け、ハッチが外側に開く。乾いた空気が貨物席に流れ込んできた。砂の匂いと、日射で熱せられた金属の匂い。


 クラウスはストラップを外し、工具箱を右手に持ち、立ち上がった。


「ご愁傷様」


 パイロットが言った。振り返りもせず、計器のチェックリストに視線を落としたまま。


 クラウスはハッチから外に出た。


 足の裏に、砂利と乾いた土の感触。靴底を通じて、地面の硬さが伝わってくる。見上げれば、薄い雲を透かして青白い空が広がっている。太陽の位置は高い。正午を少し過ぎたあたりだろう。


 そして、地平線まで続くスクラップの原野。


 風が吹いた。金属の破片が擦れ合う、乾いた音がどこか遠くから聞こえる。崩れかけた船殻の隙間から砂塵が舞い上がり、光の筋の中で回転する。


 クラウスは工具箱を地面に置いた。両手が空く。指を開いて、閉じた。作業前に必ずやる、手の状態の確認。関節に異常はない。指先の感覚は正常。


 工具箱を再び持ち上げ、工場跡に向かって歩き始めた。


 背後で、シャトルのハッチが閉まる音がした。エンジンが再起動し、推力が砂塵を巻き上げる。離陸するシャトルの影が地面を横切り、すぐに小さくなった。


 クラウスは振り返らなかった。


 工場跡の壁面が近づいてくる。錆びた鉄骨の骨組みが露出し、外壁パネルの半分以上が脱落している。だが基礎構造はしっかりしていた。柱脚のアンカーボルトが健在で、主要な梁の接合部にも目立った腐食はない。


 壁の隙間から中を覗いた。広い空間。天井の一部が崩落して光が差し込み、床面にスクラップの破片が散乱している。風が通り抜ける。作業するには十分な広さだ。


 クラウスは工具箱を開けた。ドライバーを一本取り出し、壁面の鉄骨を軽く叩いた。澄んだ金属音が返ってくる。内部腐食はない。使える。


 顔が変わっていた。


 格納庫で追放を告げられたとき——あのときの、どこか遠くを見ているような目は消えていた。代わりにあるのは、集中だった。眼前の構造物を読み解く、工具を握る人間だけが持つ、静かで貪欲な集中。


 足元に転がっていた配管の断片を拾い上げ、断面を確認する。アルミニウム合金。肉厚は十分。曲げ加工に耐える。


 隣にあった板材の表面を指で撫でた。ステンレスの冷間圧延材。平滑度が高い。作業台の天板に使える。


 視線が次の素材を探す。あの船殻のリベット。あのタワーのフレーム。あのコンテナの断熱材。


 全部使える。


 ここにあるもの全てが、クラウスの手で、別のものになれる。壊れた機械の残骸ではなく、新しい構造の一部になれる。錆びた鉄骨は工房の柱になり、脱落した外壁パネルは風除けになり、散乱したスクラップは工具棚になり、配管の断片は水回りの基礎になる。


 クラウスは工具箱を閉じ、工場跡の中央に立った。


 風が吹き抜けていく。天井の穴から差し込む光が、埃の粒子を金色に染めている。


 ここが、工房になる。


 手が動きたがっていた。今すぐ工具を取り出し、最初の一本の鉄骨を切り出したかった。その衝動を、深く息を吸い込むことで一瞬だけ止めた。


 作業には順序がある。まず全体を観察し、使える素材をリストアップし、工房の配置を設計する。動線を決め、作業台の位置を決め、工具の収納場所を決める。それから手を動かす。


 クラウスは工場跡の壁に背を預け、スクラップの原野を見渡した。


 地平線まで続く、廃棄された機械たちの静かな群れ。風に揺れる金属片の音。砂塵の中を渡る光。


 誰もいない。


 上官の命令も、整備報告会も、承認手続きも、モジュール交換の規定マニュアルも、ここにはない。あるのは壊れた機械と、工具と、時間だけだ。


 クラウスは工具箱の取っ手を、もう一度握り直した。


 掌に馴染んだ金属の感触が、ここからの日々を約束している。


 悪くない——。


 いや。


 唇の端が、ほんの僅かに持ち上がった。


 悪くない、どころではなかった。


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