第一話 雨の屋上と共犯契約
登場人物
・有馬 蓮
クラス最底辺の観察者。無口で冷静だが、内面には怒りと支配欲を抱える。復讐の実務を担い、やがて「壊す」より「守る」手順を学んでいく。
・高遠 莉々花
学園カースト頂点の優等生。裏では搾取され、自己価値を切り売りする癖を身につけている。蓮との共犯関係を通じて、取引ではない関係性を取り戻していく。
・久保寺 慎吾
若手人気教師。進路指導と評価権力を利用し、莉々花を心理的に拘束して搾取する加害者。
・御子柴 剛
体育会系の実力者。莉々花の弱みを握り、脅迫と強要で支配する先輩。
・相良 圭介
蓮の大学での友人。深掘りしすぎず放置もしない距離感で、蓮の生活に“普通”を持ち込む存在。
・春日井 遥
かつて噂を拡散する側だった同級生。のちに情報提供と削除対応で、回復側へ回る。
朝のHRまでの十五分は、僕にとって測定時間だった。
教室の前列は、昨日と同じ顔が同じ笑い方で固まる。後列は、昨日と同じ顔が違う噂を回す。
変わっているようで変わらない。変わらないようで、誰かの居場所だけが少しずつ削れる。
その削れた粉が、床に見えない埃として積もっていく。
クラスの空気になる方法は簡単だ。
誰とも目を合わせないこと。笑うときは口を開けないこと。必要なとき以外は喋らないこと。
それを一年続ければ、人はおまえを背景として扱う。
僕の名前は有馬蓮。
学校の中で僕は、だいたい「いない人」だった。
いない人には利点がある。
誰かが廊下で泣いていても、誰かが階段裏で取引をしていても、誰も僕が見ていると思わない。
見える。聞こえる。覚えられる。
観察は趣味じゃない。呼吸に近い。
誰が誰に媚びていて、誰が誰を恐れていて、誰が誰に嘘をついているか。
教室はいつだって、小さな市場みたいなものだ。価値の高い人間は中央に置かれ、価値の低い人間は壁際に積まれる。
高遠莉々花は、中央のいちばん明るい場所にいた。
整った顔。癖のない声。提出物は完璧。教師の問いには一拍で答える。
彼女が笑えば女子が笑い、彼女が黙れば男子が顔色を窺う。
カーストの頂点は、いつもひとりで立っている。
そう見える。
本当は、立たされているだけかもしれない。
それを知ったのは、十一月の雨の日だった。
旧校舎は、まだ授業に使われていた頃の匂いを残していた。
チョークの粉、古いワックス、雨の日の湿った木材。
人が使わなくなった場所ほど、声はよく響く。
だから秘密を抱えた大人は、だいたい人気のない部屋を選ぶ。
放課後、僕は旧校舎の二階で立ち止まった。
使われなくなった空き教室の扉が、五センチほど開いていた。
中から聞こえたのは、男の低い声と、女の子が喉の奥で押し殺すような息だった。
普通なら通り過ぎる。
僕は普通じゃないので、足を止めた。
「進路のためだろ。おまえの家の事情、分かってるのは俺だけだ」
声の主は久保寺慎吾。二十代後半の若手教師。生徒人気が高い、という触れ込みの男だった。
「……はい、先生」
返事をしたのは高遠莉々花だった。
彼女は笑っていた。教室で見せる、あの角度の整った笑顔で。
目だけが笑っていなかった。
その瞬間、彼女の視線が扉の隙間に滑ってきた。
僕と、合った。
驚きは、彼女の顔に一秒も浮かばなかった。
代わりに、ほんのわずかに顎を引いた。
あとで、屋上へ来い。
言葉はないのに、そう命令された気がした。
僕はその場を離れ、雨に濡れた階段を上った。
屋上は立入禁止のはずなのに、鍵は壊れたままだった。
五分後、高遠莉々花が来た。制服の裾は乾いていて、表情も乾いていた。
「見たでしょ」
いきなり本題だった。
「見た」
「感想は?」
「先生が最低」
彼女は鼻で笑った。
「優等生みたいな答え。じゃあ次。あなた、黙ってられる?」
「内容による」
「取引しようよ」
彼女はフェンスにもたれ、空を見た。
雨雲が低く垂れていて、東京全体が灰色の水槽みたいだった。
「あいつらを社会的に殺すのを手伝って。久保寺と、御子柴剛」
御子柴は三年の運動部主将で、校内では教師に近い権力を持っている男だ。
彼はいつも笑顔で、先輩面をし、後輩に説教をし、裏では弱い人間から順に食べる。
「成功したら?」
僕が聞くと、莉々花はまっすぐ僕を見た。
「あなたの望むこと、何でも聞く」
その言葉の温度は、体温よりずっと低かった。
まるで捨てる予定の道具に値札を付けるみたいに、彼女は自分を条件に置いた。
僕は、胸の奥が鈍く熱くなるのを感じた。
性欲と、征服欲と、知らない種類の怒り。
「いいよ」
答えたのは、ほとんど反射だった。
彼女はうなずいた。
「じゃあ今日から共犯ね」
挿話 購買の端
翌日の昼休み、僕はいつものように窓際の最後列でパンの袋を開けた。
隣の席が引かれる音がして顔を上げると、莉々花が立っていた。
「ここ、空いてる?」
「空いてる」
彼女は紙パックの牛乳を二本置いた。
「一本、余った。飲む?」
「いる」
それだけの会話だった。教室のざわめきに紛れる、三秒の取引。
でも僕は、その三秒の平坦さに少し驚いた。
昨日まで僕らは赤の他人で、いまは犯罪の証拠を整理する共犯者で、
それなのに昼休みには、牛乳の在庫みたいな顔をしてやり取りをしている。
ストローを刺した瞬間、子どもの頃の記憶が戻った。
小三の給食で牛乳を机にこぼしたとき、クラスは笑って、僕は黙って雑巾を取りに行った。
担任は「次は気をつけようね」と言っただけで、誰も手伝わなかった。
その日から僕は、こぼしたものを一人で拭く癖がついた。
莉々花が小さく言う。
「有馬、ストロー折れてる」
「ほんとだ」
彼女は無言で自分の予備を一本差し出した。
受け取ると、彼女は何事もなかった顔で席を立った。
教室の中央へ戻る背中は、いつもの「女王」の歩き方だった。
最初の一週間、僕たちは放課後の図書室で「何もしない」練習をした。
隣の席に座っても会話しない。視線を交わさない。周囲から見れば、偶然同じ空間にいるだけの他人。
計画が破綻するのは、手順ミスより感情の漏れからだ。
だから僕たちは、会うより先に「会っていないふり」を覚えた。
共犯は、思ったより地味な作業から始まった。
僕は人の目線や歩幅を覚えるのが得意だ。
同じように、端末の通知音や投稿時間の癖も覚えられる。
莉々花の同意を取って、彼女のスマホのバックアップ設定を見直し、消されやすいログが残るようにした。
法を越える手段は使わない。必要なのは派手なハッキングじゃなくて、相手が自分で残す痕跡だった。
御子柴は単純な人間だった。
強さに酔っている男は、だいたい証拠を残す。
「秘密にしろよ」という文面の直後に、自分の優位を誇示する写真を送る。脅しの言葉を録音で残す。自分だけは大丈夫だと思っている。
十一月末、体育倉庫の裏で莉々花は御子柴と会った。
僕は校舎側の死角で録音アプリを起動し、息を浅くした。
「最近、先生とはどうなの?」
御子柴が言う。
「関係ないでしょ」
莉々花が言う。
「関係あるよ。俺、黙っててやってるんだからさ」
音声には、靴底がアスファルトを擦る音と、布が引っ張られる音が混じった。
僕の喉が乾いた。
計画通りだ。
そう思った。
同時に、胃の中で何かが煮立った。
莉々花の声が震えた。
「やめて」
御子柴は笑った。
「言い方考えろよ。お願いだろ?」
十分後、二人は別れた。
莉々花は校舎の陰に来るなり、壁に背をついてしゃがみ込んだ。
「録れた?」
「録れた」
「じゃあ次」
彼女は立とうとして、ふらついた。
僕が腕を取ると、彼女は乱暴に振り払った。
「触らないで。今は、誰にも」
僕は手を下ろした。
「悪い」
彼女は目を閉じたまま言った。
「謝るくらいなら、ちゃんと最後までやって」
僕は情報を表計算に落とし、莉々花は人間関係の地図にして覚えた。
誰が誰に弱く、誰が誰に強いか。教師が恐れる保護者は誰で、学年主任が庇う生徒は誰か。
正義を通すには、倫理だけじゃ足りない。通路の幅も、鍵の位置も、風向きも要る。
この学校では、真実より先に「誰が言ったか」が問われるからだ。
証拠は十分に集まった。
録音データ、メッセージ履歴、御子柴の複数アカウントの投稿時刻と位置情報の整合。
問題は出し方だった。
この学校では正義より空気が勝つ。
正面から告発すれば、被害者の私生活が先に裁かれる。
だから僕たちは、順序を逆にした。
先に御子柴の「別件」を表に出す。
後輩への暴言、部内での金銭要求、匿名掲示板での自演擁護。
その流れの中で、莉々花への脅迫を投げ込む。
十二月最初の月曜、匿名アカウントから資料が複数の保護者コミュニティに送られた。
火曜にはスクリーンショットが拡散し、水曜の朝には職員室前に人だかりができた。
御子柴は昼休みに事情聴取を受け、放課後には部活停止。
一週間後、推薦は取り消され、学外での問題行為も重なって自主退学になった。
「ざまあみろ」
そう言ったのは僕じゃない。
教室の隅で、御子柴に財布を取られていた一年の男子だった。
復讐は拍手されない。
でも、誰かの小さな呼吸は確かに楽になる。
金曜の夜、莉々花は僕を空き教室に呼んだ。
蛍光灯が一本だけ点いていて、教卓に白い光の池を作っていた。
「約束、ひとつ達成」
彼女はブレザーを脱いだ。シャツの第一ボタンに指をかける。
「やめろ」
僕は思ったより強い声を出していた。
彼女は眉を上げる。
「何。今さら怖いの?」
「そうじゃない」
僕は言葉を探した。
彼女の手首には、薄い痣がいくつもあった。
古いものと新しいものが、地図みたいに重なっていた。
「全部終わってからでいい」
数秒の沈黙。
それから彼女は、少しだけ口角を上げた。
「意気地なし」
笑い方はいつもの彼女だった。
でも目の奥に、短い安堵が見えた。
挿話 駅前のベンチ
御子柴の件が表に出る前夜、僕たちは駅前のベンチで五分だけ時間を潰した。
冬の広告灯は白すぎて、人の顔色を悪く見せる。
「カップ麺、何味が好き?」
突然、莉々花が聞いた。
「塩」
「意外。もっと陰気な味かと思った」
「陰気な味って何」
「分かんない。黒いスープとか」
僕は笑いかけて、笑いをやめた。
こういう無意味な会話は、気を抜くと泣きそうになる。
「莉々花は」
「味噌。家に食べ物ないとき、コンビニで一番安いの買ってたから」
僕はうなずいた。
僕の家にも、母が遅番の日は鍋に伸びた麺だけが残っていた。
父は黙って食べ、僕も黙って食べた。
味の記憶は、そのまま家の温度になる。
電車が到着するアナウンスが鳴る。
莉々花は立ち上がり、いつもの平坦な声で言う。
「明日、予定通り」
「了解」
彼女は改札へ向かい、途中で一度だけ振り返った。
確認のための視線だった。感傷のためではなく。
そういうところが、僕たちの関係をぎりぎり現実に繋ぎ止めていた。
合図の単語を決めるだけで、三時間かかった。
「赤」「停電」「帰る」どれも却下され、最後に残ったのが「雨」だった。
日常にありふれた言葉ほど、追い詰められた口からは出にくい。
それでも何もないよりはましだと、僕らは互いに言い聞かせた。
次は久保寺だった。
御子柴と違って、久保寺は慎重だ。
言葉を濁し、痕跡を消し、責任が自分に向かない道筋を常に選ぶ。
「決定打がいる」
僕が言うと、莉々花は即答した。
「じゃあ、私が誘う」
「危険すぎる」
「危険じゃない復讐なんてない」
彼女は窓の外を見た。
夕方のグラウンドで、サッカー部が同じメニューを繰り返していた。
「早く終わらせたいの。身体なんて、ただの肉だから」
その言葉は軽かった。
軽すぎて、僕の中で重く沈んだ。
計画はこうだった。
莉々花が久保寺を校外に誘う。会話は全て記録する。安全確認の合図を決める。限界を超えたら僕が介入する。
僕は何度も確認した。
「本当にやるのか」
莉々花は何度も同じ顔でうなずいた。
「やる」
十二月二十三日。終業式の前日。
二人は駅前で落ち合い、ホテル街の脇道へ入った。
僕は百メートル後ろを歩いた。
ポケットの中で、手のひらが冷たかった。
待機している間、僕はノートに時刻を書き続けた。
19:14、笑い声。19:22、グラスの音。19:31、沈黙。
記録は心を守る。そう信じていた。
けれど、数字では止められない瞬間があることを、その夜の僕はまだ知らなかった。
待機場所のビジネスホテルの一室。
僕は受信機にイヤホンを差し込み、時計だけを見ていた。
最初の十分、会話は平穏だった。
久保寺は将来の話をし、莉々花は相槌を打つ。
二十分、三十分。
男の声に、所有を確かめるような響きが混ざり始める。
「おまえは分かってるよな」
「……はい」
「誰のおかげで、ここまで来られたか」
ノイズが走る。
椅子が床を擦る音。
短い、押し殺した呼吸。
僕は合図の単語を待った。
「雨」。それが来たら即介入。
来ない。
代わりに、莉々花の息が不規則になっていく。
浅く、速く。
過呼吸の前兆だと分かった。
まだだ。計画では、証拠を確保してから。
そう考えた次の瞬間、受信機の向こうでガラスの割れる音がした。
僕の中の何かが切れた。
廊下を走り、部屋番号を確認し、ドアを叩く。
返事はない。
「高遠!」
ノブは開かなかった。
僕は体当たりした。二回目で鍵が歪み、三回目でドアが内側に跳ねた。
室内は酒と香水と、濁った汗の匂いがした。
久保寺が振り向いた。
「有馬? おまえ、なんで」
それ以上は聞こえなかった。
僕は拳を振り抜いていた。
一発、二発。
男はテーブルにぶつかって倒れ、割れたグラスで手を切った。
莉々花はベッド脇でしゃがみ込み、肩を上下させていた。
「帰るぞ」
僕が言うと、彼女はうなずけなかった。
代わりに袖を掴んだ。
その細い力が、僕を現実に引き戻した。
事情聴取室の蛍光灯は、病院みたいに白かった。
警察官は淡々と質問し、僕は淡々と答えた。感情を混ぜると、証言は弱くなる。
それでも帰り道、駅のガラスに映る自分の顔を見て、はじめて吐き気がした。
暴力は一度振るうと、相手だけでなく自分にも形を残す。
当然、事件になった。
僕の暴行。ホテルでの騒動。警察の事情聴取。
学校は即日で緊急保護者会を開いた。
でも、久保寺の想定は崩れていた。
部屋に残っていた録音機器。
これまでのメッセージ履歴。
複数生徒への不適切な接触を示すデータ。
校内調査は外部委員会に移され、年明け一月、久保寺は懲戒免職。
その後、強要と支配的関係を利用した搾取行為で逮捕された。
ニュースサイトは、学校名をぼかして短い記事を出した。
コメント欄には、被害者を疑う言葉と、教師を罵る言葉が同じ比率で並んだ。
正義はいつも、泥と一緒に流れてくる。
僕は停学処分を受けた。
暴力の事実は消えない。
莉々花は登校を再開したが、女王の座はもうなかった。
廊下を歩けば会話が止まり、教室に入れば視線が跳ねる。
「実は前からそういう子だったらしいよ」
誰かが言う。
「有馬と付き合ってるんでしょ?」
別の誰かが笑う。
僕たちは、前より目立つようになって、前より孤立した。
二月の終わり、雪が少しだけ降った日。
放課後の二年A組は空っぽで、暖房の音だけがしていた。
莉々花は窓際に立っていた。
「全部終わったね」
「終わってない」
「そう?」
彼女は机に腰を下ろし、僕を見上げた。
「約束、覚えてる?」
僕は答えなかった。
彼女は自分の胸に手を当てる。
「私は条件を出した。あなたは飲んだ。だから、受け取りなよ」
その目は強いのに、今にも壊れそうだった。
僕は彼女の前に立ち、両肩を掴んだ。
「おまえの身体は報酬じゃない」
莉々花は笑った。
涙が先に落ちた。
「じゃあ私たち、何なの」
僕は少し考えた。
正しい言葉は浮かばなかった。
だから、いちばん嘘の少ない言葉を選んだ。
「ただの共犯者だよ」
彼女は泣いたまま、うなずいた。
それから僕たちはキスをした。
甘いものじゃなかった。
傷口を確かめるみたいな、塩と鉄の味がした。
卒業式の朝、教室の黒板には「ありがとう二年A組」と書かれていた。
誰の字かはすぐ分かった。委員長の丸い文字だ。
その言葉に僕たちの名前は含まれていない気がしたし、含まれていても居心地が悪かった。
式典の定型文は、こぼれた人間を拾わない。
三月。
卒業式の日、空はよく晴れていた。
御子柴の名前は名簿にない。
久保寺の名前は職員一覧から消えた。
僕たちは式のあと、誰とも写真を撮らなかった。
校門の前で、莉々花は袴姿の同級生たちから少し離れて立っていた。
「大学、どうするの」
僕が聞く。
「行くよ。一応。東京の外」
「一人で?」
「一人で生きる練習しないと」
彼女は言って、すぐに付け足した。
「でも、たぶん無理。私はすぐ誰かに寄りかかるから」
「それの何が悪い」
「相手を潰すかもしれない」
僕は肩をすくめた。
「もう潰れてるから平気」
莉々花は吹き出した。
久しぶりに、教室で見せるためじゃない笑い方だった。
「ねえ有馬」
「ん」
「私、あなたに救われたって言わない」
「言わなくていい」
「あなたも私に救われたって言わないで」
「言う予定ない」
「うん。それでいい」
彼女は手を差し出した。
握手みたいに見えて、指先は少し震えていた。
僕はその手を握った。
その瞬間、校門の向こうを風が抜けた。
紙吹雪みたいに桜の蕾の殻が舞って、アスファルトに散った。
春は、誰にでも平等に来る。
でも平等なのは季節だけで、始まり方は人それぞれだ。




