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雪解けの音が聴こえるまで

作者: あきらっぱ
掲載日:2025/12/13

 雪の降る街には、音がいつもより近く感じられる瞬間があります。足音や電車の揺れ、誰かの声――そんな日常の音が、心の奥に静かに触れてくることがあります。

 この物語は、北海道の冬から春へ移り変わる季節の中で、「音」が人の心に与える温度や記憶を描きたいと思って生まれました。

 特別な出来事ではなく、日々の中に潜む小さな気配や変化を、そっとすくい上げるような物語になればと願っています。

第一章 七時二六分のシンクロニシティ


 三月の北海道の朝は、まだ冬の名残を手放していなかった。  北広島駅のガラス張りの連絡通路「エルフィンパーク」を渡ると、クレーンが伸びる建設現場の向こうに、エスコンフィールド北海道の銀色の屋根が朝陽を受けて輝いていた。白と青だけでできた世界の中に、鉄の匂いと人の営みが混ざる。  小日向紬こひなたつむぎは、白い息を吐きながらホームへの階段を駆け下りた。


 父は都市計画課で街づくりの仕事をしていて、母は駅前の歯科医院に勤めている。この街が少しずつ変わっていく理由を、紬は誰よりも分かっているつもりだった。それでも、クレーンの影を見上げるたびに、胸の奥にさざ波のような不安が立つ。自分だけが置いていかれるような――そんな感覚だった。


「……間に合った」


 七時二六分発、新千歳空港行き快速エアポート。  それは紬の日常の、静かな始まりの合図。扉が閉まる寸前に滑り込むと、いつもの座席のそばで、見慣れた背中が立っていた。  成瀬奏なるせかなで


 紬と同じ千歳市立青葉高校の二年生。窓の外を流れる雪景色を見つめ、白いイヤホンを耳に差している。奏の家は、千歳市に新しくできた次世代半導体工場の技術者として、二年前に東京から移住してきたばかりだ。どこか都会の空気をまとっていて少し大人びた彼は、クラスでは少し浮いた存在だった。


 けれど紬は知っている。彼が聴いているのは流行りの曲じゃない。穏やかで、少し切ないピアノの旋律だ。  それを初めて知ったのは、ある冬の朝。混み合った車内でイヤホンが外れ、紬の肩に落ちたときに、かすかに流れた旋律――。  その日から、二人の「おはよう」は、同じ時間に溶けるようになった。


「おはよう、小日向さん」 「おはよう、成瀬くん。今日もピアノ?」 「うん。今日はドビュッシー。雪の日に合うんだよ」


 窓の外、恵庭の街並みが遠ざかっていく。流れる雪原の白さの中、奏の微笑みにはいつも少しだけ、影があった。



第二章 放課後の音楽室と、秘密


 千歳市立青葉高校。  冬と春の間を迷う風が、川沿いの校舎をかすかに震わせていた。教室にはストーブの熱と灯油の匂いが漂い、廊下に響くチャイムの音が少しかすんで聞こえる。


 最近、奏の反応が遅いのが気になっていた。先生に呼ばれても気づかない。ピアノを弾く指先にも、わずかな迷いが見える。  放課後。忘れ物を取りに音楽室へ行くと、ドアの向こうからピアノの音が響いた。あの朝、イヤホンから漏れたのと同じ旋律。  そっと扉を開けると、夕陽の光の中で奏が鍵盤を叩きつけるように演奏していた。音が、どこか壊れそうに揺れている。


「成瀬くん……」


 びくりと肩を震わせ、奏が振り向く。その瞳は、泣いているように濡れていた。


「この曲、今のうちに弾いておきたかったんだ」 「今のうちに、って?」 「春休みが終わったら東京に戻る。耳の治療を受けるために」


 時が止まったように、教室の音が消えた。  奏は突発性難聴を患っているという。右耳から始まり、今は左耳も弱ってきている。音が歪み、ピアノの和音が正しく届かない。東京の病院で手術を受けるが、治る保証はないと。


「北海道に来て、よかったよ」


 夕陽に照らされた横顔が、ひどく穏やかだった。


「毎朝の雪景色も、電車の音も……それから、小日向さんの声も。君の声は、澄んでいて、いつも聞きやすかった」 「……成瀬くん」 「君の声だけは、忘れたくないんだ」



第三章 最後の寄り道


 終業式の日。  二人は千歳駅で電車を降りると、そのまま駅モールを抜けてカラオケ店へ行った。歌うためじゃない。外の雑音から逃げて、ただ静かに話したかった。


「東京に行ったら、もう会えないね」 「そんなことないよ。スマホもあるし」 「嘘。耳のこと、本当はもっとつらいでしょ」


 紬の声が震えた。奏は言葉を探すように黙り込み、やがてポケットから白いイヤホンを取り出した。片方を紬の耳に、もう片方を自分の、まだ聴力が残っている方の耳に差す。  流れてきたのは、音楽ではなかった。


 雑踏のざわめき。走る電車の響き。教室のチャイム。風が窓を鳴らす音――。


「これ、全部録ったんだ。俺の“日常の音”。耳が音を失っても、この街の空気を忘れたくなくて」


 最後に流れたのは、七時二六分の快速エアポートのアナウンス、そして――。


「おはよう、成瀬くん」


 紬の声だった。


「君の声が、俺にとっての一番の音楽だったんだ」


 涙が止まらなかった。


「忘れないで。私が覚えてるから。何度でも、話すから」


 奏は驚いたように目を見開き、それからほっとしたように笑った。


「ありがとう。……好きだよ、紬ちゃん」


 その言葉は、防音ドアに閉じ込められたまま、二人の胸だけに響いた。



第四章 春の雪解け


 四月。  冷たい風の中に、春の匂いが混じり始めていた。北広島駅のホーム。七時二六分の快速エアポートのドアが閉まる。


 紬はひとりで窓側の席に座った。いつもの位置。いつもの朝。違うのは――奏がいないということだけ。  雪解けの土が黒く見える。その上を朝の光がゆっくり撫でていく。  スマホが震えた。


『手術、無事に終わったよ。まだ完全じゃないけど……ピアノの音が、少しだけ聞こえた』


 メッセージには桜の写真と短い音声ファイルが添えられていた。  再生ボタンを押す。  拙いけれど、確かに奏の指の音だった。あたたかく、ふるえるようなピアノ。  紬はスマホを胸に抱きしめ、窓ガラスに映る自分に微笑む。


「おはよう、成瀬くん」


 電車が千歳へ向けて走り出す。  遠く離れていても、同じ朝を生きている――そのことが、ただ嬉しかった。  雪が溶けて川になり、やがて海へ注ぐように。  二人の時間もまた、形を変えながら続いていく。


 千歳の空へ、一機の飛行機が力強く飛び立っていった。

 最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 この物語で描きたかったのは、劇的な運命ではなく、雪解けのようにゆっくりと心に広がる温かさです。  舞台となった北海道の空気や、日常に寄り添う音の存在が、読んでくださった方の記憶にも少し残れば嬉しく思います。

 季節が変わるように、人の時間も静かに形を変えていきます。その移ろいの中にある小さな希望を、これからも大切にしていきたいと思います。


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