雪解けの音が聴こえるまで
雪の降る街には、音がいつもより近く感じられる瞬間があります。足音や電車の揺れ、誰かの声――そんな日常の音が、心の奥に静かに触れてくることがあります。
この物語は、北海道の冬から春へ移り変わる季節の中で、「音」が人の心に与える温度や記憶を描きたいと思って生まれました。
特別な出来事ではなく、日々の中に潜む小さな気配や変化を、そっとすくい上げるような物語になればと願っています。
第一章 七時二六分のシンクロニシティ
三月の北海道の朝は、まだ冬の名残を手放していなかった。 北広島駅のガラス張りの連絡通路「エルフィンパーク」を渡ると、クレーンが伸びる建設現場の向こうに、エスコンフィールド北海道の銀色の屋根が朝陽を受けて輝いていた。白と青だけでできた世界の中に、鉄の匂いと人の営みが混ざる。 小日向紬は、白い息を吐きながらホームへの階段を駆け下りた。
父は都市計画課で街づくりの仕事をしていて、母は駅前の歯科医院に勤めている。この街が少しずつ変わっていく理由を、紬は誰よりも分かっているつもりだった。それでも、クレーンの影を見上げるたびに、胸の奥にさざ波のような不安が立つ。自分だけが置いていかれるような――そんな感覚だった。
「……間に合った」
七時二六分発、新千歳空港行き快速エアポート。 それは紬の日常の、静かな始まりの合図。扉が閉まる寸前に滑り込むと、いつもの座席のそばで、見慣れた背中が立っていた。 成瀬奏。
紬と同じ千歳市立青葉高校の二年生。窓の外を流れる雪景色を見つめ、白いイヤホンを耳に差している。奏の家は、千歳市に新しくできた次世代半導体工場の技術者として、二年前に東京から移住してきたばかりだ。どこか都会の空気を纏っていて少し大人びた彼は、クラスでは少し浮いた存在だった。
けれど紬は知っている。彼が聴いているのは流行りの曲じゃない。穏やかで、少し切ないピアノの旋律だ。 それを初めて知ったのは、ある冬の朝。混み合った車内でイヤホンが外れ、紬の肩に落ちたときに、かすかに流れた旋律――。 その日から、二人の「おはよう」は、同じ時間に溶けるようになった。
「おはよう、小日向さん」 「おはよう、成瀬くん。今日もピアノ?」 「うん。今日はドビュッシー。雪の日に合うんだよ」
窓の外、恵庭の街並みが遠ざかっていく。流れる雪原の白さの中、奏の微笑みにはいつも少しだけ、影があった。
第二章 放課後の音楽室と、秘密
千歳市立青葉高校。 冬と春の間を迷う風が、川沿いの校舎をかすかに震わせていた。教室にはストーブの熱と灯油の匂いが漂い、廊下に響くチャイムの音が少し霞んで聞こえる。
最近、奏の反応が遅いのが気になっていた。先生に呼ばれても気づかない。ピアノを弾く指先にも、わずかな迷いが見える。 放課後。忘れ物を取りに音楽室へ行くと、ドアの向こうからピアノの音が響いた。あの朝、イヤホンから漏れたのと同じ旋律。 そっと扉を開けると、夕陽の光の中で奏が鍵盤を叩きつけるように演奏していた。音が、どこか壊れそうに揺れている。
「成瀬くん……」
びくりと肩を震わせ、奏が振り向く。その瞳は、泣いているように濡れていた。
「この曲、今のうちに弾いておきたかったんだ」 「今のうちに、って?」 「春休みが終わったら東京に戻る。耳の治療を受けるために」
時が止まったように、教室の音が消えた。 奏は突発性難聴を患っているという。右耳から始まり、今は左耳も弱ってきている。音が歪み、ピアノの和音が正しく届かない。東京の病院で手術を受けるが、治る保証はないと。
「北海道に来て、よかったよ」
夕陽に照らされた横顔が、ひどく穏やかだった。
「毎朝の雪景色も、電車の音も……それから、小日向さんの声も。君の声は、澄んでいて、いつも聞きやすかった」 「……成瀬くん」 「君の声だけは、忘れたくないんだ」
第三章 最後の寄り道
終業式の日。 二人は千歳駅で電車を降りると、そのまま駅モールを抜けてカラオケ店へ行った。歌うためじゃない。外の雑音から逃げて、ただ静かに話したかった。
「東京に行ったら、もう会えないね」 「そんなことないよ。スマホもあるし」 「嘘。耳のこと、本当はもっとつらいでしょ」
紬の声が震えた。奏は言葉を探すように黙り込み、やがてポケットから白いイヤホンを取り出した。片方を紬の耳に、もう片方を自分の、まだ聴力が残っている方の耳に差す。 流れてきたのは、音楽ではなかった。
雑踏のざわめき。走る電車の響き。教室のチャイム。風が窓を鳴らす音――。
「これ、全部録ったんだ。俺の“日常の音”。耳が音を失っても、この街の空気を忘れたくなくて」
最後に流れたのは、七時二六分の快速エアポートのアナウンス、そして――。
「おはよう、成瀬くん」
紬の声だった。
「君の声が、俺にとっての一番の音楽だったんだ」
涙が止まらなかった。
「忘れないで。私が覚えてるから。何度でも、話すから」
奏は驚いたように目を見開き、それからほっとしたように笑った。
「ありがとう。……好きだよ、紬ちゃん」
その言葉は、防音ドアに閉じ込められたまま、二人の胸だけに響いた。
第四章 春の雪解け
四月。 冷たい風の中に、春の匂いが混じり始めていた。北広島駅のホーム。七時二六分の快速エアポートのドアが閉まる。
紬はひとりで窓側の席に座った。いつもの位置。いつもの朝。違うのは――奏がいないということだけ。 雪解けの土が黒く見える。その上を朝の光がゆっくり撫でていく。 スマホが震えた。
『手術、無事に終わったよ。まだ完全じゃないけど……ピアノの音が、少しだけ聞こえた』
メッセージには桜の写真と短い音声ファイルが添えられていた。 再生ボタンを押す。 拙いけれど、確かに奏の指の音だった。あたたかく、ふるえるようなピアノ。 紬はスマホを胸に抱きしめ、窓ガラスに映る自分に微笑む。
「おはよう、成瀬くん」
電車が千歳へ向けて走り出す。 遠く離れていても、同じ朝を生きている――そのことが、ただ嬉しかった。 雪が溶けて川になり、やがて海へ注ぐように。 二人の時間もまた、形を変えながら続いていく。
千歳の空へ、一機の飛行機が力強く飛び立っていった。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
この物語で描きたかったのは、劇的な運命ではなく、雪解けのようにゆっくりと心に広がる温かさです。 舞台となった北海道の空気や、日常に寄り添う音の存在が、読んでくださった方の記憶にも少し残れば嬉しく思います。
季節が変わるように、人の時間も静かに形を変えていきます。その移ろいの中にある小さな希望を、これからも大切にしていきたいと思います。




