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第9話「沼のぬるぬる」


塔の転移環に立つと、床の紋章が静かに脈打った。

《記録解放:四階》の光帯が足元に絡み、視界が一度だけ裏返る。次の瞬間、湿り気の匂いが肺の内側へ潜り込んだ。


四階《沼の階》。

天井は低く、ところどころで欠けた岩から黒い水がしたたり落ちている。床は石畳の名残をわずかに残しつつ、大半が泥と湿地と苔に覆われていた。苔はぬめりを帯び、細い葦が群れて風もないのに擦れ合う音を立てる。


「うう……足が、ずぶっってなる……」

ミィが両手を広げ、尻尾を持ち上げる。毛先が濡れるのを本能で嫌がっているのだろう。

「ご主人、ぬるぬるしてる。においも嫌い……」


モフは扇で鼻先を隠し、目だけを細めた。


俺は円盾を握り直す。蒼狼の咆核を盾の前面に嵌め、裏面には反響板。手皮は乾いているが、空気中の湿りがすぐに染み込んできた。

「二つ気をつける。沈下域シンクゾーンと、酸性域。前者は突然沈む。後者は金属を溶かす。塔は学習するから、俺を優先して沈下を狙ってくるはずだ」


「じゃあ、ご主人の足がいちばん危ないの?」

「そうだ。だから俺が“道”を作る」


俺は盾の縁で、泥水の表面を軽く撫でた。波紋が広がる。葦がわずかに傾き、黒い膜が流れる方向を示した。

「ここには“流れ”がある。波紋を見て盾でせきを作って沈下を探る」


ミィはきょとんとしてから、笑った。

「ご主人の言うことは難しいけど、かっこいい!」

モフは肩をすくめる。

「説明は要らないから、沈まない道だけ作りなさい、まこと」



最初の敵は、葦原の陰で泡立つ“影”から出てきた。

背を丸めたトカゲのような体躯、だが頭部は袋状に膨らみ、内側に石を入れて振るわせている。鳴袋蜥蜴ラトル・ニュート。袋を鳴らし、振動で泥の粘度を上げ、獲物を沈める“泥使い”だ。


二体、三体……背後の泥の泡からさらに二体。

ミィが眉を寄せた。

「ご主人、あいつら、こっちの足元を狙ってる気がする」

「そうだ。盾の位置に沈下域を重ねてくるはずだ。……だったら、俺が“もっと深い穴”を別に作ればいい」


俺は盾の膨らみを利用して泥面を軽く叩き、反響板を指で弾く。蒼狼の核が低い音圧を生み、泥の表皮が一瞬だけ緩む。そこへ縁を差し込んで斜めに引く。

「深い穴を作って沈下域をずらす」

泥水が横に走る。沈下域が俺の足元から、意図した右前へ移動する。蜥蜴たちはこれまでの学習通り“沈下域”を考慮して攻撃してきた——が、そこは俺が意図的に作った落とし穴だ。泥が急に抜け、体が傾く。


「今!」

ミィが回り込み、袋の根元を斬る。甲高い音が一度鳴って、蜥蜴は沈んだ。

「まこと、左二!」

モフの狐火が蜃気楼みたいに泥の輪郭を揺らす。蜥蜴の足の置き場が半歩ずれて、そこも深い穴。俺は盾で肩を押し、葦へ叩きつける。葦の芯は硬い。肺が潰れ、動かなくなった。


三分で片がついた。


「ご主人、泥も、盾で思い通りに“動かせる”んだね」

「固体も液体も一緒だろ。そして塔もまだそこまで読んでいないはずだ」

モフが尾を揺らし、扇の影で微笑む。

「たまには褒めてあげる。やるじゃない、まこと」



奥へ進むほど、沼は色を変えた。緑から、灰、そして琥珀色。

「酸の匂いが濃い……」ミィが鼻先をしかめる。

「琥珀は強酸だ。金具がやられる。合図はなるべく声を出さず手で。——合図三つ。パーで止まれ/チョキは前進/グーで跳ぶ」


狭い橋があった。石の梁が連なり、ところどころが欠けている。梁の下では泡が爆ぜ、琥珀色の霧が湧いては消えた。

俺は盾の縁で梁を撫で、反響板で“音”を散らす。酸霧は音の発する近くに設置されるようだ——塔の学習は、三階の音の迷宮から続いている。


「ご主人、右から“ぴちぴち”って……」

ミィの耳がぴくりと動く。泡の面から、針の束を構えた影がせり上がった。酸棘魚アシッド・ピン。口から細い棘を射出し、皮膚に微少孔を開け、酸で浸す。遠距離からの嫌がらせとしては最悪の組み合わせだ。


棘が雨のように来る。だが俺は盾を真正面には出さない。

「角度十七、反響板、上」

棘は盾の膨らみ部分へ刺さろうとするが、角度をつけたことで滑って斜め後ろへ逸れる。

棘が盾に刺さると強酸によって、そこから金属の腐食が始まる。

だから角度をつける。飛来方向と散らし方向を“ハの字”となるように、ミィの動線に棘が入らないように、盾の角度で“棘の逸れる道”を描く。


「今、走れ!」

ミィが梁を蹴って跳ぶ。モフは狐火で俺たちの見え方を誤魔化し、照準をずらす。

棘魚が学習したのが見えた。今回の束は、先ほどより速度を変えてきた。

「学んできたな」

俺は盾をわざと床へ打ちつけ、低音の圧を作り出し酸霧を右側へ押し出す。棘の束も霧の移動につられて右へ逸れる。塔の狙いを裏切る動きが俺たちを安全にする。


息を合わせ、三人で渡り切った。

足元の金具は浅く溶けていたが、致命ではない。

「ふぅ……ご主人、棘が全部“よけた”みたいに見えた!」

「避けてない。道を描いただけだ」

「……そういう言い回し、ずるいのよね、まこと」モフが照れ隠しのように扇で俺の肩をこつんと叩いた。



広い泥野に出た。遠くで、低い泡の音が続き、いくつもの影が巡回している。

その中央、石の祭壇のような台座がある。青い苔が生え、古文で刻まれた線刻が泥を拒むかのように輝いていた。


「ご主人、あれ……」

ミィの指さす先、台座には小さな石碑が立っている。三階で見た《副碑》と似た造り。

近づくと、石碑から“風の抜ける”ような音がした。モフが文字を追う。

「《流路を刻め、方向を与えよ。沼は割れ、道は現れる》……試金石ね、まこと」


俺は円盾の縁で台座の溝をなぞり、泥野へ続く線をいくつも引いた。溝は浅い。だが、引いたそばから水が集まる。


線の交点に沈下域が寄る。そこへ巡回の影——ぬめった背を持つ沼亀マッド・テラピンが足を入れ、沈んだ。甲羅で酸を弾くタイプだが、動けなければただの石っころだ。ミィが喉元の柔い皮を突き、モフが甲羅の縁へ狐火を差し込む。下から蒸され、脱力。

俺は敵の順序、速度、互いの距離を見て、次の沈下域を描く。

——塔は学ぶ。だが、学ばせる素材はこちらが選別できる。沼に「こう動け」と授業をするみたいに、敵たちを穴へ導いた。


十分ほどで、泥野は静かになった。

祭壇の向こうに、重い扉がある。葦の束を編んだような紋章。

その両側に、細い石の柱が立ち、風のような音を吐いている。四階の主が、この先に待っている。



扉を押し開けると、広い円形の窪地が現れた。

中央は深い泥。周囲に石の縁。天井の穴から昼光のような白い光が差し、泥面に淡い模様を描いている。

窪地の底、ゆっくりと何かが膨らんだ。

泥が盛り上がり、形を持ちはじめる。いくつもの口、いくつもの目、いくつもの腕——いや、腕に見える流れ。


四階守護者《沼喰ボグ・グラトン

沼そのものが意思を持ったかのような塊だった。粘度の高い泥、酸、腐敗のガス、小石、骨。あらゆる“沼に沈んだもの”の集合。

沼喰は音と重さに反応し、“呑み込む”——動きを見る限り、塔の学習速度に驚く。


「ご主人、あいつ、動きがぐにゃぐにゃしてる……」

「固体じゃない。が、塔の合理を先読みする」

「意味わかんないけど、いつも通りってことね、まこと」モフが扇を閉じ、尾を広げた。


俺は縁の石を見渡す。等間隔の“吐出口”がある。ストローサイズの管。ここから空気を送り、泥の粘度を調整しているのだろう。塔が呼吸している。


「まず“塔の呼吸”を止める。ミィ、右手前の吐出口、石を詰めろ。モフ、左奥を幻で“塞がって見せろ”。俺は正面の流れを盾で逃がす」


「了解!」

「分かったわ、まこと!」


ミィが跳び、用意していた小石を管へ叩き込む。モフの狐火が左奥に偽の石を見せる。塔の呼吸がわずかに乱れ、沼の粘度の分布が変わった。

沼喰が怒ったように腕を伸ばす。泥の腕は縁の石に絡みついて引き剥がし、俺たちを泥へ引きずり込もうとする。


「引くな、押すな。滑らせるか躱わせ」

俺は円盾の前面を泥腕へ押し当て、角度をつけて滑らせる。粘りが“剥がれ”、まとわりつく重さが流れていく。腕は細り、盾の縁から外れた。

「今だ、吐出口二つ目!」

ミィがもう一つを塞ぐ。中央の圧が上がり、沼喰は自分の重みで深みに沈んだ。

「まこと、左奥の幻を“穴”に変える!」

狐火がゆらりと揺れ、塔が“塞がっていたと思っていた穴”を、今度は逆に開いたと誤認する。空気が一気に抜け、圧が崩れた。沼喰の表面が泡立ち、隙が生まれる。


俺は反響板を指で打った。蒼狼の咆核が低く短い震えを広間に走らせる。泥面の波が一度だけ収束し、薄い膜ができた。

「ミィ、薄皮の上を走れ!」

「いっくよ、ご主人!」

猫足が泥の上の“薄膜”を軽く踏み、沈む前に次へ。ミィは沼の上を駆け、沼喰の“目”に相当する暗い渦へ短刃を突き立てた。


咆哮——いや、泡鳴りが広間を揺らす。

沼喰は最後の足掻きに“吸い込み”始めた。ミィを取り込もうとする。

「戻れ!」

俺は円盾を真横から押し当て、泥流に横滑りの力を与えた。すると、ミィの足元の泥が斜面になり、沼喰からミィは逃れ、すーっと滑って帰ってくることができた。

「た、ただいま! ご主人、今の、滑り台みたい!」

「そういうものだ。盾を上手く使えば帰り道も作れる」


沼喰も諦めていない。

学ぶ。吐出口を塞がれた位置に新しい“吐出口”を作ろうとする。

「まっすぐ行くのはやめだ。サーキュレーションを作って沼喰に混乱させる。モフ、幻で入り口と出口を繋げて循環しているように見せろ。ミィ、俺が合図したら短刃で攻撃だ」


「分かった!」「了解、まこと」


俺とモフが作った“循環”視覚情報に、沼喰の腕が釣られて円を描く。粘性の違う泥が混じり、ねっとりした層とさらさらした層が分離する。

「今だ、ミィ!」

ミィの刃が回転とは逆側の“結び目”を切る。層がほどけ、中心へ落ち込みが生じた。

俺は跳び降り、円盾を梃子にして泥の側壁へ押し当てる。反響板が振動し、泥の膜が一時的に固化する。

「押すな、傾け……沈め!」


中心が沈み、周囲が温泉のように沸き、内部の骨や小石が浮き上がった。コアが見える。石のような硬い塊、沼喰の“脳”だ。


「核、右寄り、ミィ!」

「任せて!」

ミィが駆け、モフが狐火で視線を誘導する。沼喰は幻の俺たちに腕を伸ばす。——だがそれは“偽”だ。

本物の核の上に、俺は円盾を静かに置いた。角度零。

「起きろ、渦」

盾の周りだけに薄い渦が生まれる。核は一瞬光り、逃げようと転がったように見えた。だが、動いた一瞬、ミィの短刃が潜り込み、亀裂を作った。


「決める!」

俺は盾を胸で抱え直し、核に向かって斜め打ち。反響板が震え、蒼狼の咆核が短く吠える。振動が核の共鳴を引き出し、さらに亀裂が走る。

モフが低く囁く。

「眠りなさい。これで最期——まことの“設計通り”よ」

狐火が亀裂の中へ細く入り、内側から熱と冷を交互に与える。核は熱収縮で粉々に割れた。


沼喰は、体全体の張力を失い、泥だけになって崩れた。

広間の空気が少し軽くなる。塔は、ゆっくりと正しい呼吸を取り戻す。



淡い光が立ち上がり、石碑が現れた。

《塔の記録石》。

三階と同じ構造だが、石の中で水のような紋がうねっている。職札を掲げると、肌の内側で微かな冷たさが走り、四階・記録済の文字が浮かんだ。


「ご主人、これで次は五階から始められるんだね!」

「全滅したら無効だ」

モフが扇で口元を隠し、悪戯っぽく微笑む。

「わたしたちが全滅? 誰の前で言ってるの、まこと」


同時に、泥の底から宝箱がせり上がった。苔むした青銅の箱。泥が流れ落ちると、音叉と葦束の紋章。

ミィが両手を合わせて跳ねる。

「ご主人、開けていい?」

「ああ——頼む」


箱がゆっくり開き、涼しい風が吹いた。中には四つの品。

•《湿地返しの外套》:表が撥水、裏が吸湿の二層織り。泥の抵抗を半減し、体温を奪う湿気を吸い上げて逃がす。ミィ向けの軽量サイズ。

•《酸避けの籠手》:金属の上に薄い樹脂層。酸霧・酸滴が付着しにくく、拭い取る猶予が生まれる。俺用。

•《幻葦の符》:モフ用の札。葦のざわめきを“微風”に変えることで、敵の照準と足場判断を乱す。

•《泥抜きのスタック・ピン》:地に刺すと、周囲の泥水を一方向へ流す小さな装置。盾と相性が良い。


「ご主人、外套、着てもいい?」

「いいぞ。冷えは集中を奪う」

ミィはくるりと回って外套を羽織り、尻尾を穴から出した。撥水の布に泥が弾かれ、玉になって落ちる。

モフは札を扇の骨に挟み、指輪の上から軽く撫でた。

「葦のざわめき。わたしの相手はわたしがどこにいるのか見つけられるかな、まこと」


俺は籠手を装備し、杭を一本、円盾の内側に括り付けた。

「きょうはこれで終了だ。——帰るぞ。武具の改造をして、十分休息をとってから、五階へ行こう」


記録石の台座に寄り添う転送紋が光る。

三人で光に踏み入る。視界が裏返り、塔前広場の夕風が頬を撫でた。



鍛冶屋の炉はまだ赤かった。

ドワーフの店主が俺の籠手を見るなり、鼻を鳴らす。

「いいもん持って帰ったな。表面の樹脂、熱で硬くなって酸にさらに強くなる。……お前の盾は“流す”が本業だ。籠手との相性は上々だ」


「ご主人、外套きもちいい! さらさらで、ふわふわ!」

ミィがカウンターで肉串を頬張り、尻尾で俺の腕をとんとん叩く。

モフは扇を閉じ、目線だけで笑った。

「まこと、記録石のおかげで、沼はこれで終わり。塔は学ぶ。わたしたちは学ばせる。次はどんな“授業”するのかしら」


俺は円盾を立てかけ、ひと呼吸した後、目を閉じた。


「つぎは五階へ。——また一つ、新しい隙を見つけに行く」


夜風が炉の熱を攫っていく。

塔の黒い影は、月の輪郭を細く切り取って、こちらを黙って見ていた。

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