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33話「ぐにゃっと、そして音の道」


 十一階《鳴砂回廊》を抜けた翌朝、塔前広場の風は不思議なほど静かだった。


 昨日まで砂の匂いを含んでいた風が、今日はただ乾いている。

 鳴砂は、もう鳴かない。

 石畳の上に落ちた砂粒も、俺たちが通るたび、ただ小さく転がるだけだった。


「ご主人、今日は十二階?」

 ミィが耳をぴくりと動かした。


「いや。今日は塔には入らない」

「えっ」

 カラの尻尾が跳ねた。

「じゃあ、もしかして……ぐにゃっと?」


「そうだ」

 俺は頷いた。

「十一階は“音を揃える”階だった。そこでカラは最後まで直線を守った。だから、次に進む前に、ちゃんと練習する」


「ぐにゃっと解禁……!」

 カラの目がきらきら輝く。


「まだ“解禁”じゃない。練習だ」

「はい! ぐにゃっと練習!」


「まず心の中で言え」

「はい!」


 言っていないのに、尻尾が全部言っていた。



 城壁外の訓練場には、朝から人が集まっていた。


 グラムが耐雷の石板を運び、オルファが風避けの帆を張り、セルマが帳面片手に安全距離を測っている。

 気象寺の廉風も、砂色の袖を揺らしながら、鳴砂入りの小袋を腰に下げて立っていた。


「なんでこんなに大掛かりなの……」

 カラが急に小さな声になった。


「塔の中でヘイムの痕を増やされちゃ困るからだ」

 グラムが鼻を鳴らした。

「暴発女の卒業試験だな」


「その呼び名、今日で終わらせます!」


「終わるかどうかは、雷次第だ」

 グラムは石板をどん、と置いた。


 訓練場の中央には、鳴砂を薄く敷いた円形の床。

 その周囲に耐雷の石壁。

 天井代わりにオルファの帆がかかり、余計な風を逃がす。

 足元には《抑電ゴム》。

 胸元には《風破砂》。

 モフの《導紗》が、細い光の線として砂の上に浮かんでいた。


「まず確認する」

 俺はカラの前に立った。

「《黒雷》は直線なら安定している。曲げる練習では、威力を落とす。入口と出口を決める。途中で欲張らない」


「はい!」


「一回でも《風破砂》が荒く震えたら中断。壁が鳴っても中断。バンドが熱くなっても中断」


「はい!」


「それでもやるか」


 カラは、胸元で両拳を握った。

「やりたいです。ずっと、ぐにゃっとしたかったから」


「正直でよろしい」



 最初の練習は、簡単なはずだった。


 モフが砂の上に、ゆるい弧の《導紗》を引く。

 真っすぐ進み、少し右へ曲がり、また中央へ戻る線だ。


「雷を曲げるんじゃないわ」

 モフが扇の先で光の線をなぞる。

「線に沿って、雷を滑らせるの」


「黒い水だ」

 俺は言った。

「雷を棒だと思うな。水だと思え。水は道があれば勝手に曲がる。カラは蛇口を開けて、閉めるだけだ」


「黒い水……蛇口……」

 カラが目を閉じて呟いた。


 リィナが白枝杖ルーメンを抱え、短く唱える。

「糸」


 《音速の糸》が足元に走り、カラの重心が少し沈む。

 ミィは少し離れた場所で耳を立て、音の乱れを聞いている。


「一歩だけだ」

 俺は言った。

「いち、止め。それだけ」


「はい。……《黒雷》、いち、止め!」


 黒い火花が走った。

 導紗の上を一歩ぶん滑り、ふっと消える。


 鳴砂は鳴かない。

 《風破砂》も静かだ。


「いい」

 俺は頷く。

「次、二歩」


「《黒雷》、いち、に、止め!」


 二歩。

 三歩。

 四歩。


 そこまでは良かった。


「次、五歩。入口三歩、出口二歩。これが本番の最小単位だ」


「はい!」

 カラの声が少し高くなった。


 その時点で、俺は嫌な予感がした。


「落ち着け。嬉しさも出力に乗る」

「はい、落ち着いてます!」


「その声がもう落ち着いてない」


 カラは頬をふくらませたが、すぐに深く息を吸った。


「《黒雷》……いち、に、さん、止め、よん、ご——」


 最後の「ご」が、ほんの少し伸びた。


 黒い線が導紗から一拍分はみ出し、石壁の端をかすめる。

 カン、と小さな音が鳴った。


 胸元の《風破砂》が、ざらりと荒れる。


「停止」

 俺が言う前に、ミィがカラの手首を下から弾いた。

 黒い火花が空へ逃げる。


「ご、ごめんなさい!」

 カラの耳がぺたりと伏せる。


「謝るより、今の原因」

 グラムが低く言った。


「……気持ちよくなって、もう少し出したくなりました」

「正直でよろしい」

 グラムは腕を組む。

「だが本番なら、その“もう少し”で壁が鳴る。壁が鳴れば砂が鳴る。砂が鳴れば敵が来る」


 カラは唇を噛んだ。

「はい」


 廉風がゆっくり歩み寄る。

「雷は、気持ちよく曲がるものじゃ。じゃが気持ちよさに乗った雷は、もう術者の手を離れておる」


「……じゃあ、どうしたらいいですか」


「次の稽古じゃ」



 次は、動く導紗だった。


 モフが扇をゆっくり動かすと、光の線が砂の上を這うように動く。

 実戦では、敵も風も砂も動く。

 固定された線の上だけをなぞれても、塔では役に立たない。


「ミィ、拍を頼む」

「わかったよ」


 ミィが足で砂を踏む。

 ザ、ザ、ザ、ザァ。

 三回浅く、一回深く。


 十一階で身体に叩き込んだリズムが、訓練場に戻ってくる。


「この拍で出す。次の拍で止める」

 俺は言った。

「音と合わせろ。雷だけ先に行かせるな」


「はい!」


 カラが構える。


「《黒雷》、いち、に、さん、止め——」


 今度は入口は合った。

 だが導紗が動いた分、出口がわずかに遅れる。

 黒い線が空を舐め、石板の横を焦がした。


「外れ」

 モフがすぐ記録する。

「入口は合格。出口が遅いわ」


「もう一回!」


「休憩」

 俺は言った。


「まだできます!」


「だから休憩だ」


 カラが悔しそうに肩を落とす。

 その肩に、リィナがそっと手を置いた。


「カラさん、糸も張り続けると切れます。張りたい気持ちが強い時ほど、いったん緩めた方が長く続きます」


「……緩める」


「はい。力を抜くのも、魔法の一部です」


 カラは小さく頷いた。



 昼を過ぎる頃には、失敗の種類がそろっていた。


 入口で強すぎる。

 出口で欲張る。

 導紗が動くと追いかけすぎる。

 低出力にすると集中が切れる。

 高出力に戻すと気持ちよくなって一拍伸びる。


 グラムが訓練用の抑魔バンドを差し出した。

「威力一割だ。これで百本でも描け」


「本物じゃないと、ぐにゃっと感が薄いです……」

 カラがぼそっと言う。


「おまえ、今すごいこと言ったぞ」

 ミィが笑う。

「ぐにゃっと感って何」


「ぐにゃっとする感じです!」


「説明になってないわ」

 モフが扇で口元を隠して笑った。


 だが、俺には少し分かった。

 カラは、雷を曲げたいだけではない。

 雷が導紗を通り、体の中の熱と外の線が一致する瞬間を覚え始めている。

 それは技術であり、快感でもある。

 だから危ない。


「形はできてきた」

 俺は記録を見ながら言った。

「だが、安定はしていない。十二階で使うには無理だな」


「……はい」

 カラは悔しそうに砂を見た。


 その時、廉風が静かに笑った。

「では最後に、何も撃たぬ稽古をするか」



 気象寺の庭は、夕方の光に沈んでいた。


 鳴砂の小さな庭。

 黒い板。

 風路図。

 十一階に入る前、何度も歩調を合わせた場所だ。


「座れ」

 廉風が言った。

「足を組まんでもよい。背筋を伸ばせ。雷を撃つな。曲げるな。考えるな」


「考えるなと言われると、考えます」

 カラが真顔で言った。


「なら、呼吸だけ数えよ」

 廉風は笑わなかった。

「三回浅く吸う。一回深く吐く。十一階でやったことと同じじゃ。音を揃えたろう。今度は、心の砂を揃える」


 俺たちは庭の縁で見守った。


 カラは膝の上に手を置き、目を閉じる。

 リィナが隣で小さく《音速の糸》を張った。

 今度は足ではなく、胸元に。

 呼吸の揺れが、薄い白い糸になって見えた。


「黒い水を思い出せ」

 廉風が言う。

「だが流そうとするな。道だけ置け。水は、勝手に流れる」


 モフが地面に《導紗》を引いた。

 緩い弧。

 入口と出口だけがまっすぐで、間だけがやさしく曲がっている。


 カラの指先に、黒い火花が灯る。


「撃つな」

 廉風が言う。

「まだじゃ。火花を見ろ。火花に“行け”と言うな。火花がどこへ行きたがるかを見よ」


 風が止まった。

 鳴砂が、ほんの少しだけ沈黙した。


 カラの肩から力が抜ける。

 尻尾の先が、静かに落ちた。


 その瞬間、指先の黒い火花が、すっと導紗に落ちた。

 落ちただけだった。

 カラは撃っていない。


 黒い線は、導紗の上を、水のように滑った。

 入口をまっすぐ進み、弧に沿って曲がり、出口で細くほどける。


 音は、なかった。

 《風破砂》も、震えなかった。


 カラが目を開ける。


「……今、撃ってない」


「撃っておらん」

 廉風が頷いた。

「流れたんじゃ」


「でも、曲がった」


「お前が曲げたんじゃない。お前が邪魔をしなかったから、雷が道を選んだ」


 カラはしばらく黙っていた。

 それから、自分の手を見た。


「ぐにゃっとって……押すんじゃなくて、邪魔しないことだったんだ」


「そういう時もある」

 俺は言った。

「少なくとも、カラの場合はな」


 カラはもう一度、導紗を見た。

「もう一回、やってもいいですか」


「一回だけだ」

 俺とグラムとモフが同時に言った。


 カラは笑った。

 今度は、欲しがる笑いではなかった。


「はい。一回だけ」


 深呼吸。

 三回浅く。

 一回深く。


「《弧雷》」


 初めて、カラはその名で呼んだ。


 黒い雷が走る。

 いや、流れる。


 導紗の上を、すっと曲がり、石板の裏側に置かれた小さな金具だけを弾いた。

 金具は乾いた音を立てて跳ね、砂の上に落ちる。


 壁は鳴らない。

 砂は鳴かない。

 風も乱れない。


 《風破砂》は静かなままだった。


「成功」

 モフが骨扇の裏に記す声が、少し震えていた。

「《弧雷》、安定成功」


「やった……」

 カラの声は小さい。


 次の瞬間、尻尾が爆発したみたいに膨らんだ。

「やったあああああ! ぐにゃっとできたあああ!」


「心の中で——」

 言いかけて、俺はやめた。


 今日くらいは、外で言わせてやってもいい。



 その時だった。


 塔の方角から、低い音が流れてきた。


 ザ、ザ、ザザザ——。


 全員が振り返る。

 塔前広場の向こうで、砂が細い帯になって流れていた。

 十一階で静まったはずの鳴砂の残りが、塔の風脈に乗って街へ出てきている。


「おいおい、まだ鳴くのか」

 グラムが舌打ちした。


「違う」

 ミィの耳が立つ。

「鳴こうとしてるんじゃない。迷ってる。行き場がない音だ」


 砂の帯は、広場を抜け、街の水路へ向かっていた。

 その先には孤児院がある。

 以前、落ち葉を払って、雨樋をリィナが直した場所だ。


「行くぞ」

 俺は盾を取った。



 街を走る。


 ミィが先頭で音を探り、モフが《導紗》で砂の流れを照らす。

 リィナの《音速の糸》が足元を結び、カラは俺の横を飛ばずに走った。

 ちゃんと走っている。

 それだけで、少し笑いそうになった。


 孤児院の前では、子どもたちが窓から顔を出していた。

 院長が扉の前に立ち、必死に子どもたちを奥へ下げている。


 屋根の雨樋に、鳴砂が詰まっていた。

 水路から吸い上げられた砂が、古い風の通り道に引っかかり、雨樋を鳴らしている。

 このまま共鳴すれば、屋根ごと震える。


「ご主人!」

 院長が叫ぶ。


「大丈夫だ」

 俺は盾を構えた。

「十一階でやったことを、街でやる」


 モフが屋根へ《導紗》を走らせる。

「砂の流れは雨樋の奥で曲がってる。真っ直ぐの黒雷じゃ届かないわ」


 カラが息を呑む。


「カラ」

 俺は言った。

「使うぞ」


「……はい」


「ただし、一回だけ。押すな。邪魔するな。導紗の上を流せ」


「はい」


 リィナが白枝杖を掲げる。

「糸」


 足音と呼吸が揃う。

 ミィが雨樋の下に飛び込み、音の薄い場所を指差す。

「ここ! ここからなら、屋根が鳴らない!」


「号——!」


 俺は盾に低い風音を乗せ、鳴りかけた雨樋の音を引き受ける。

 ザザザ、と砂がこちらへ注意を向けるみたいに揺れた。


「薬」

 リィナの白光が、院長と子どもたちの不安を撫でるように広がる。


「かわす!」

 ミィが落ちてきた砂の束を身を伏せて避ける。


「雷」

 俺は短く言った。


 カラは目を閉じなかった。

 導紗を見て、呼吸を合わせる。


 三回浅く。

 一回深く。


「《弧雷》」


 黒い雷が、屋根の縁をなぞるように曲がった。

 雨樋の奥、砂が詰まった“結び目”だけを、そっと切る。


 弾けるような音はしない。

 轟きもしない。

 ただ、砂の詰まりがほどけた。


 ザァ——。


 鳴砂が雨樋から水路へ流れ落ちる。

 音は鳴き声ではなく、ただの砂の流れる音だった。


 孤児院の屋根は揺れない。

 子どもたちが、しばらくしてから歓声を上げた。


「すごい!」

「黒いの曲がった!」

「カラお姉ちゃん、ぐにゃってした!」


 カラは耳まで赤くなった。

「ぐにゃっと……できました」


「よくやった」

 俺は言った。


 グラムが遅れてやって来て、雨樋と屋根を見上げた。

「暴発女」


「まだそれですか!」


「卒業だ」

 グラムはにやりと笑った。

「今日からは……そうだな。《弧雷のカラ》だ」


 カラは一瞬、言葉を失った。

 それから、ゆっくり笑った。

「はい!」



 夕方、塔前広場には小さな人だかりができていた。


 セルマが鳴砂の残りを小瓶に分け、オルファが風避けの帆を畳み、廉風が塔の方を見上げていた。

 孤児院の子どもたちは、雨樋から流れた砂で小さな模様を作っている。

 その模様は、街から塔へ続く一本の線に、小さな弧が加わった形だった。


「十一階の音が、街に残ったんだな」

 俺が呟くと、廉風が頷いた。


「塔は奪うだけの場所ではない。持ち帰った者がいれば、街の道具にもなる。お主らは、鳴砂を“敵”で終わらせんかった」


 リィナが白枝杖を抱えたまま微笑む。

「雨樋、前に直しておいてよかったですね」


「モフの《標》も残ってた」

 ミィが言う。

「あの灯がなかったら、屋根の割れ目が分からなかったよ」


「十一階で覚えたことも、街で使ったことも、全部繋がったのね」

 モフが尾を揺らす。


「ご主人」

 カラが隣に来た。

「塔、まだ上がありますよね」


「ああ」

 俺は十二階へ続く灯を見た。

 刻印はまだ遠く、読めない。

 上にはまだ、知らない階がある。

 知らない敵がいる。

 知らない風が吹いている。


「行くんですか?」


 俺は少し考えた。


 俺は元の世界では化学者だった。

 測って、混ぜて、失敗して、また試す。

 この世界に来てからも、それは変わらなかった。

 土魔法も、錬金術も、塔の砂も、仲間の魔法も。

 全部、分からないものを分かる形に変えていく道だった。


 でも今、広場には笑い声がある。

 孤児院の屋根は落ちなかった。

 グラムは新しい名前をくれた。

 オルファの帆は街の風を整え、セルマは砂の小瓶を商材にしようと目を光らせている。

 リィナの糸は、人の不安まで少し軽くした。

 ミィは音の薄い場所を見つけ、モフは道を描いた。

 カラは、雷を曲げた。


 塔の上だけが、物語の先ではない。


「行くさ」

 俺は答えた。

「でも、急がない。塔で得たものを、街で使う。街で試して、また塔へ行く。それでいい」


「じゃあ、終わりじゃないんですね」


「終わりじゃない」

 俺は笑った。

「でも、今日で一区切りだ」


 カラが胸を張る。

「まとめ!」


「お前が言うな。……そうだな」


 俺は皆を見た。


「受けない。流す。必要なら、返す。

 鳴く前に、音を揃える。

 曲げたい時ほど、邪魔をしない。

 そして——持ち帰った力は、街のために使う」


 ミィが笑う。

「ご主人、長いよ」


「最終回っぽいからな」


「さいしゅうかい?」

 カラが首を傾げる。


「心の中で言え」

 俺は適当にごまかした。


「雷!」

 カラが拳を上げる。


「かわす!」

 ミィが身を低くする。


「薬!」

 リィナが白枝杖を掲げる。


「糸!」

 足元に淡い光が走る。


「号!」

 俺は盾を軽く鳴らす。


 モフが《導紗》で、広場の砂に一本の線を描いた。

 まっすぐな線。

 途中で、ほんの少しだけ弧を描く線。


「あと、ごは——」

 カラが言いかける。


「最後は帰ってからだ」

 俺は言った。


「とはいえ、腹は減ったな」

 ミィが笑った。


「ご主人も今言うことじゃないよ」

 リィナまで笑う。


 夕日が塔の石壁を赤く染めた。

 十一階《鳴砂回廊》の砂は、もう静かだった。

 けれど、その静けさは終わりではない。

 音を揃えた俺たちが、街へ持ち帰った静けさだ。


 足跡の列は、塔から街へ。

 街からまた、明日へ。


 一本の線のまま続いている。

 その途中には、新しい弧がひとつ。


 ぐにゃっと曲がったその先で、皆の笑い声が、夕風に混じってやさしく鳴った。

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