29話「音律の稽古」
翌朝の風は、昨日よりもさらに乾いて、塔前広場の旗を揺らした。
「今日は“測定日”だ。音、歩幅、呼吸。全部、数字にする」
「はい、ご主人」とミィ。
リィナが白枝杖ルーメンを抱え、袖口の露珠を指先で転がす。
「《音速の糸》の持続、もう少し伸ばしたいです」
「カラは——」
「わかってる! 今日は曲げない! 直線だけ! ……(ぐにゃっとしたい)」
「心の中で言え」
◇
気象寺。
僧の廉風が、昨夜描き直した砂色の風路図を広げる。
薄い墨で“静粛の様子”が描かれていた。
「鳴砂の庭を用意した。ここで訓練するのじゃ。風が無音になった瞬間は止まって観察するのが約束じゃ。合図はその小袋《風破砂》の震えが強くなった時じゃな」
庭は膝ほどの高さの柵で囲われ、黒い板が等間隔に並ぶ。
「黒い板の上だけを進むのじゃ。呼吸は三回吸って一回止め、三回吐いて一回止める。歩調は呼吸に合わせ、浅い三歩の後、呼吸を止める時に深い一歩として皆で揃えるのじゃ」
「了解」
俺は盾の位置を少し下げ、受け面の革に触れながら呼吸を合わせる。
リィナが囁く。
「音速の糸」
細い光が足首を撫で、身体が軽くなる。
「ザ、ザ、ザ、ザァ」
浅い三歩と、やや深い一歩。
砂の声が細く、薄く、やがて切れた。
「無音になったぞ」
俺が掌を下げる。
全員が止まる。
腰の《風破砂》の振動がザラつき、また滑らかに戻った。
「……再開」
息を揃え、浅い三歩と、やや深い一歩。
「よい。皆んなの音は“一つの音”に聞こえる。敵は惑うであろう」
カラが手を挙げる。
「師匠、質問! 砂の上でも走りたい時は?」
「走るな。……走るのはミィに任せてカラは黒雷に集中だ」
「師匠、飛んでもいい?」
カラが羽根を広げながら尋ねる。
「ダメだ。今回は皆んなが息を合わせるのが重要だ」
◇
寺の裏手、鳴砂の庭の一角で静電気を避ける稽古をする。
セルマから受け取った《静電避けの油》を耳と鼻の内側に薄く塗る。
甘く、微かな鉄の匂い。
靴底には《抑電ゴム》を取り付け済みである。
廉風が棒で砂を掻き、粉を落とす。
「静電気は砂と身体が接触して離れる時に発生する。油は静電気を逃がし、ゴムは接触した時の音を殺すのじゃ」
ミィが踵を軽く揺らして感触を確認する。
「……うん。私の靴って最高!」
モフが《標》を置いて、露の粒ほどの灯で通り道を可視化した。光路が細い川になって伸びる。
「カラ、直線で《黒雷》。標の川の内側だけを焦がせ」
「は、はい! 《黒雷》っ」
黒い糸が真っすぐ走り、光路をきっちり縫い留めた。
「……通った!」
抑魔バンドは冷たい。カラの肩が少しだけ下がる。
「良いぞ。曲げるのはしない」
「はい! (ぐにゃっとはしない……)」
「心の中で言え」
◇
午前の終わり、商人ギルド。
セルマが帳面を叩く。
「《砂錨》を二本ずつ。携帯は腰に、使用はモフさんの合図のあと。錨を刺す向きは風上から。逆だと抜けるわよ」
「わかったわ」
モフが尾を揺らす。
「《導紗》で“錨の位置”を点灯させるわ。光が二重に見えたら、風が巻いている印よ」
ミィは瓶のラベルを嗅いで、眉を寄せた。
「この抑粉、甘い匂いのあとに鉄の香りがある。危ない匂いは、だいたいこれ」
「覚えとけ。甘い匂いは警戒だ」
◇
《オルファ風具店》。
天井の帆がゆっくりと波を打つ。
オルファがハーネスを点検し、胸元に小さなリングを追加してくれた。
「ここに《風破砂》を固定しておくよ。揺れすぎると情報にならない」
「助かる」
俺は盾のベルトを締め、《砂鳴止めの革》を指で押した。吸い込まれるように沈んだ。
◇
昼過ぎ、城壁外の訓練場。
係の親父が砂のステージに薄い水を撒いた。
「砂粒のまとまりが変わる。鳴き方も変わるぞ」
ミィが走った。
「行くよ」
リィナが短く。
「糸」
白い糸が皆んなの足元を走る。
「今日は五拍だ。浅い・浅い・浅い・浅い・深いだ。いけるか」
「いける!」
ザ、ザ、ザ、ザ、ザァ。
鳴砂の声は、乾いた布を遠くで擦るように、わずかに細る。
親父が頷いた。
「湿り砂でも消えるのは久しぶりに見た」
「次。《集敵の号》の効果の範囲を測る」
俺は盾の受け面を立て、風脈のコアに指を置く。
低い唸りを薄く広げる。
「号」
近い方から三体の人形がこちらを向いた。
「……数字にすると、四歩半」
モフが扇の骨で記した。
「号の範囲、四歩半、記録したわ」
「わたしは糸の維持に徹します。二分までは持つようになりました」
リィナが汗を拭かずに微笑む。
「カラ、直線。右の人形を焦がせ」
「《黒雷》っ!」
雷の糸が走り、線香のように細く黒くなる。
「成功。——休む。バンドが熱くなる前にやめる」
「は、はい!」
◇
夜。城壁外、風が落ちる時刻。
最後の合わせは、暗所でやる。
モフが小さな《導紗》を地面に浮かべ、俺たちは布で片目を隠して感覚を削る。
「合図は短く」
「糸——」
「号——」
「標——」
「錨——」
腰の《風破砂》が、一瞬だけ荒く震える。
「止」
全員が静止。息が一つになる。
遠い砂丘の向こうで、風がひと撫でして去った。
「再開」
浅、浅、浅、深。
音は作る前に揃える。風は、鳴らない。
「ご主人、五拍の方が、鳴砂には効く気がする」
「湿り砂なら、そうだな。乾きに戻ったらもう一回、三回浅く一回深くに切り替える」
「わかったよ」
「まとめ!」
カラが胸を張る。
「カラ、偉そうだな——“受けない。流す。必要なら、返す”だ。あと、合わせる」
「はーい! 雷! かわす! 薬! 糸! 号! あと、ごは——」
「最後は帰ってからだ」
塔の上の灯が、ひとつ減った。
夜番が交代したのだろう。
砂の匂いはまだ遠い。
だが俺たちの足跡は、街から塔へ一本の線になって続いている。
明日の朝、その線の先が、十一階《鳴砂回廊》に差し込む。
音の道は——街の中で、ほとんど出来上がった。




