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29話「音律の稽古」


 翌朝の風は、昨日よりもさらに乾いて、塔前広場の旗を揺らした。

「今日は“測定日”だ。音、歩幅、呼吸。全部、数字にする」


「はい、ご主人」とミィ。


 リィナが白枝杖ルーメンを抱え、袖口の露珠を指先で転がす。

「《音速の糸》の持続、もう少し伸ばしたいです」


「カラは——」

「わかってる! 今日は曲げない! 直線だけ! ……(ぐにゃっとしたい)」

「心の中で言え」



 気象寺。

 僧の廉風が、昨夜描き直した砂色の風路図を広げる。

 薄い墨で“静粛の様子”が描かれていた。


「鳴砂の庭を用意した。ここで訓練するのじゃ。風が無音になった瞬間は止まって観察するのが約束じゃ。合図はその小袋《風破砂》の震えが強くなった時じゃな」


 庭は膝ほどの高さの柵で囲われ、黒い板が等間隔に並ぶ。

「黒い板の上だけを進むのじゃ。呼吸は三回吸って一回止め、三回吐いて一回止める。歩調は呼吸に合わせ、浅い三歩の後、呼吸を止める時に深い一歩として皆で揃えるのじゃ」


「了解」

 俺は盾の位置を少し下げ、受け面の革に触れながら呼吸を合わせる。


 リィナが囁く。

「音速の糸」

 細い光が足首を撫で、身体が軽くなる。


「ザ、ザ、ザ、ザァ」

 浅い三歩と、やや深い一歩。

 砂の声が細く、薄く、やがて切れた。


「無音になったぞ」

 俺が掌を下げる。

 全員が止まる。

 腰の《風破砂》の振動がザラつき、また滑らかに戻った。


「……再開」

 息を揃え、浅い三歩と、やや深い一歩。


「よい。皆んなの音は“一つの音”に聞こえる。敵は惑うであろう」


 カラが手を挙げる。

「師匠、質問! 砂の上でも走りたい時は?」

「走るな。……走るのはミィに任せてカラは黒雷に集中だ」


「師匠、飛んでもいい?」

 カラが羽根を広げながら尋ねる。

「ダメだ。今回は皆んなが息を合わせるのが重要だ」



 寺の裏手、鳴砂の庭の一角で静電気を避ける稽古をする。

 セルマから受け取った《静電避けの油》を耳と鼻の内側に薄く塗る。

 甘く、微かな鉄の匂い。

 靴底には《抑電ゴム》を取り付け済みである。


 廉風が棒で砂を掻き、粉を落とす。

「静電気は砂と身体が接触して離れる時に発生する。油は静電気を逃がし、ゴムは接触した時の音を殺すのじゃ」


 ミィが踵を軽く揺らして感触を確認する。

「……うん。私の靴って最高!」


 モフが《標》を置いて、露の粒ほどの灯で通り道を可視化した。光路が細い川になって伸びる。


「カラ、直線で《黒雷》。標の川の内側だけを焦がせ」

「は、はい! 《黒雷》っ」


 黒い糸が真っすぐ走り、光路をきっちり縫い留めた。

「……通った!」

 抑魔バンドは冷たい。カラの肩が少しだけ下がる。


「良いぞ。曲げるのはしない」

「はい! (ぐにゃっとはしない……)」

「心の中で言え」



 午前の終わり、商人ギルド。

 セルマが帳面を叩く。


「《砂錨》を二本ずつ。携帯は腰に、使用はモフさんの合図のあと。錨を刺す向きは風上から。逆だと抜けるわよ」


「わかったわ」

 モフが尾を揺らす。


「《導紗》で“錨の位置”を点灯させるわ。光が二重に見えたら、風が巻いている印よ」


 ミィは瓶のラベルを嗅いで、眉を寄せた。

「この抑粉、甘い匂いのあとに鉄の香りがある。危ない匂いは、だいたいこれ」

「覚えとけ。甘い匂いは警戒だ」



 《オルファ風具店》。

 天井の帆がゆっくりと波を打つ。

 オルファがハーネスを点検し、胸元に小さなリングを追加してくれた。


「ここに《風破砂》を固定しておくよ。揺れすぎると情報にならない」

「助かる」

 俺は盾のベルトを締め、《砂鳴止めの革》を指で押した。吸い込まれるように沈んだ。



 昼過ぎ、城壁外の訓練場。

 係の親父が砂のステージに薄い水を撒いた。

「砂粒のまとまりが変わる。鳴き方も変わるぞ」


 ミィが走った。

「行くよ」


 リィナが短く。

「糸」

 白い糸が皆んなの足元を走る。


「今日は五拍だ。浅い・浅い・浅い・浅い・深いだ。いけるか」

「いける!」


 ザ、ザ、ザ、ザ、ザァ。

 鳴砂の声は、乾いた布を遠くで擦るように、わずかに細る。

 親父が頷いた。

「湿り砂でも消えるのは久しぶりに見た」


「次。《集敵の号》の効果の範囲を測る」

 俺は盾の受け面を立て、風脈のコアに指を置く。

 低い唸りを薄く広げる。


「号」

 近い方から三体の人形がこちらを向いた。

「……数字にすると、四歩半」

 モフが扇の骨で記した。

「号の範囲、四歩半、記録したわ」


「わたしは糸の維持に徹します。二分までは持つようになりました」

 リィナが汗を拭かずに微笑む。


「カラ、直線。右の人形を焦がせ」

「《黒雷》っ!」

 雷の糸が走り、線香のように細く黒くなる。

「成功。——休む。バンドが熱くなる前にやめる」


「は、はい!」



 夜。城壁外、風が落ちる時刻。

 最後の合わせは、暗所でやる。

 モフが小さな《導紗》を地面に浮かべ、俺たちは布で片目を隠して感覚を削る。


「合図は短く」

「糸——」

「号——」

「標——」

「錨——」


 腰の《風破砂》が、一瞬だけ荒く震える。

「止」

 全員が静止。息が一つになる。

 遠い砂丘の向こうで、風がひと撫でして去った。


「再開」

 浅、浅、浅、深。

 音は作る前に揃える。風は、鳴らない。


「ご主人、五拍の方が、鳴砂には効く気がする」

「湿り砂なら、そうだな。乾きに戻ったらもう一回、三回浅く一回深くに切り替える」

「わかったよ」


「まとめ!」

 カラが胸を張る。


「カラ、偉そうだな——“受けない。流す。必要なら、返す”だ。あと、合わせる」

「はーい! 雷! かわす! 薬! 糸! 号! あと、ごは——」

「最後は帰ってからだ」


 塔の上の灯が、ひとつ減った。

 夜番が交代したのだろう。

 砂の匂いはまだ遠い。

 だが俺たちの足跡は、街から塔へ一本の線になって続いている。

 明日の朝、その線の先が、十一階《鳴砂回廊》に差し込む。

 音の道は——街の中で、ほとんど出来上がった。

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