第25話「鏡紋回廊」
十階《鏡紋回廊》は、息を呑むほど静かだった。
壁も床も、ところどころが薄い鏡板と磨りガラスでできていて、天井の高窓から入った光が千切れては跳ね、道を何本にも増やして見せる。
足音を一つ立てれば、その音がどこかの鏡から返ってくる。
呼吸すら、わずかに遅れて胸に戻ってくるようだ。
「ご主人……においが薄い。風も、音も、薄い。感じるのが難しいよ」
ミィの耳が、きゅっと伏せられた。
「“無音は前触れ”。空と同じだが、ここではもう一つある——静かにしすぎると、鏡が道を閉じる」
俺は低く言い、円盾の反響板に指を添えた。
「まこと、導く光、用意しておくわ」
モフが扇を立てる。尾はふわり、息は浅く。
「回復は細く長く。焦ったら露珠を撫でて落ち着きます。——行きましょう」
リィナは白枝杖ルーメンを胸元で一度回し、白袖に小さく触れた。
「“雷・かわす・薬”。導紗のレーン“だけ”撃つ!」
カラは抑魔バンドを指ではじいて、こくりとうなずく。
「……あと、ごはん」
「最後は心の中で言え」
俺は《風読笛》を短く吹き、集合の短音を空間に置いた。
足元で粉塵がうすく揺れる。盾を十五度寝かせ、地面沿いに一本、側壁沿いに一本、Y字の風の流れを引く。
モフの《狐火・導紗》が、俺の風路の縁へ音もなく重なった。
光の細い帯が一本の道として浮かぶ。
◇
最初の広間は光の間。
天井のスリットを通過する光が鏡板で幾重にも増幅され、行くべき道が十にも二十にも見える。
光は眩しく、だが——匂いは薄い。
モフの狐火がレーンに沿って細く伸びる。
「そこを歩けば大丈夫だわ」
「ミィ、先頭頼む」
「了解、ご主人」
ミィは《軽羽の爪革》の爪先で、導紗のほんの“内側”を踏み、面の合わせ目へ短刃を滑り込ませた。
鏡板は一枚、また一枚と本来の角度に戻る。迷光の輪がほどけるたび、室の空気が一段やわらかくなる。
「一回撃つ?」
カラが俺を見る。俺はうなずいた。
「導紗レーンの“中だけ”。出力は半分だ」
「パチパチ了解!——《黒雷》」
黒い雷の糸がまっすぐ走り、導紗の真上だけが煤の線を引いた。
鏡像の道は焼けず、本物だけが焼ける。
奥の台座がかすかに開き、薄い板のような《光印》が現れた。
同時に、棚の影から証明銀板が一枚、ころりと転がり出る。
「回収します」
リィナが銀板を拾い、袖の内ポケットに収めた。
◇
次は影の廊。
照度が落ち、影が濃く、そして数が多い。
鏡が影を増やしているせいで、どれが“落とし穴”でどれが“ただの影”か、目では分からない。
「“標”を置くわ。安全な影を点で示すわ」
モフの《狐火・標》が、静かに点を灯していく。音はない。
「ご主人、この影、においが冷たい。落とし穴だと思う」
ミィが鼻をひくつかせ、《標》の灯す影の罠を確認しながら進む。フォールミュート・パッドが乾いた床の振動を吸い、足音はほとんど立たない。
天井の梁から、ふっと黒い影が舞い降りた。
鏡蝙蝠だ。
光に集まり、影で隠れる。
微細な羽音が、鏡で幾重にも増幅される。
「——カラ、一回だけ、導紗の中心に」
「はいっ!先生。黒雷!」
電撃が導紗の中を走り、鏡蝙蝠の群れ全体を“感電”させる。
鏡蝙蝠の群れは崩れ、影へ散った。
暴発は——ない。
抑魔バンドの銅網が、ほんのり温い。
「偉い」
モフが目だけで褒めた。
廊奥の壁面、最も薄い影の裏へ短刃を滑らせると、隠し祭壇が開く。
《影印》を取得した。
◇
三つ目は反響の回廊。
床下が空洞で、足音の反響に応じて落とし穴の位置が“移動”するという悪趣味な仕様だ。
しかも完全無音だと、背後の道が鏡で折りたたまれる。
「“無音”は悪手という情報だ。——塔との騙し合いだな」
俺は盾の縁で床をかすめ、風の流れを下へ通した。
微音が一定で続き、一定の反響音になる。
「偽の音と走るミィを作るわ。《狐火・写》」
モフが扇を返すと、横のレーンに足音とともに偽のミィが走った。
移動する落とし穴がそちらへ吸い寄せられる。
「今の“間”に抜けるよ」
ミィが一気に祭壇前まで走った。
移動した落とし穴が戻って来るタイミングを読み、短刃を床板の合わせ目へ楔のように挟み込む。
「落とし穴、止めたよ」
「カラ!雷!」
カラの黒雷が落とし穴の床を焼いた。
反響音が整い、罠が消滅した。
祭壇の蓋が開き、《響印》を得る。
◇
三印が揃った。
その時、
扉の前の床が、鏡面の影を集めて立ち上がった。
人の背丈ほどの、のっぺりとした塊——《鏡食い(ミラー・イーター)》だ。
向かい合わせに本体と鏡像の二体が現れた。
光を吸収すれば影の刃になり、反射すれば眩しさでこちらの目を奪う。
いやらしい。
「カラ、撃つな。影の刃が増える」
「は、はい!カラは撃たない!」
「光を逃がす」
俺は受け面を寝かせ、天井から降る光を側壁へ送る。光を与えなければ、鏡像が弱っていく。
モフが《写》で“偽のもう一人の俺”を出して狙いをズラす。
「ミィ、死角から背面へ」
「任せて、ご主人」
ミィの刃が、鏡の継ぎ目を二度、刻む。
鏡食いが口を開いた——吸うタイミングだ。
「今。口の“中”へ一発だ」
「先生いや師匠!黒雷!」
黒雷が、鏡食いの口に吸い込まれた。鏡像が薄れ、本体の輪郭がはっきりした。
「反らす」
俺は影の刃の軌道を反射で鏡食いの足に返し、バランスを崩す。
リィナが白光で俺の前腕のしびれを回復させる。
「とどめ、いく!」
ミィの二連突きが芯を捕らえ、のっぺりとした影は“像”を失って沈んだ。
床に《反照の札》と《鏡糸》、そして割れた証明銀板の破片が残る。
奥で《塔の記録石》が起き上がり、職札に〈十階・前半 記録済〉の光字が浮かんだ。
◇
中枢の扉は、半分だけ開いた。
鏡面の内側に、玉座の影と、王冠が増えて見える奇妙な反射が映る。
そして——遠い稲光の黒い筋。黒雷が、“映る”。
「……近づかない」
モフが小さく言い、カラは自分の抑魔バンドをそっと撫でて深呼吸した。
「偉いぞ。撃たない選択も戦いの一つだ」
「えへへ……お腹はすいた」
「それは帰ってからだ」
俺は短く笑う。
そして風読笛をひと吹きし、隊をまとめた。
「受けない。流す。必要なら、返す。——見せて、惑わせ、示して進む」
「師匠、次は“撃っていい時だけ撃つ”!」
「先生よりはいいか——行くぞ」
半開きの扉の向こう、鏡の王の領域へ。
十階の区切りにふさわしい“厄介さ”が、静かに手招きしていた。




