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第25話「鏡紋回廊」

 十階《鏡紋回廊》は、息を呑むほど静かだった。

 壁も床も、ところどころが薄い鏡板と磨りガラスでできていて、天井の高窓から入った光が千切れては跳ね、道を何本にも増やして見せる。

 足音を一つ立てれば、その音がどこかの鏡から返ってくる。

 呼吸すら、わずかに遅れて胸に戻ってくるようだ。


「ご主人……においが薄い。風も、音も、薄い。感じるのが難しいよ」

 ミィの耳が、きゅっと伏せられた。


「“無音は前触れ”。空と同じだが、ここではもう一つある——静かにしすぎると、鏡が道を閉じる」

 俺は低く言い、円盾の反響板に指を添えた。


「まこと、導く光、用意しておくわ」

 モフが扇を立てる。尾はふわり、息は浅く。


「回復は細く長く。焦ったら露珠を撫でて落ち着きます。——行きましょう」

 リィナは白枝杖ルーメンを胸元で一度回し、白袖に小さく触れた。


「“雷・かわす・薬”。導紗のレーン“だけ”撃つ!」

 カラは抑魔バンドを指ではじいて、こくりとうなずく。

「……あと、ごはん」


「最後は心の中で言え」

 俺は《風読笛》を短く吹き、集合の短音を空間に置いた。

 足元で粉塵がうすく揺れる。盾を十五度寝かせ、地面沿いに一本、側壁沿いに一本、Y字の風の流れを引く。

 モフの《狐火・導紗》が、俺の風路の縁へ音もなく重なった。

 光の細い帯が一本の道として浮かぶ。



 最初の広間は光の間。

 天井のスリットを通過する光が鏡板で幾重にも増幅され、行くべき道が十にも二十にも見える。

 光は眩しく、だが——匂いは薄い。


 モフの狐火がレーンに沿って細く伸びる。

「そこを歩けば大丈夫だわ」


「ミィ、先頭頼む」

「了解、ご主人」


 ミィは《軽羽の爪革》の爪先で、導紗のほんの“内側”を踏み、面の合わせ目へ短刃を滑り込ませた。

 鏡板は一枚、また一枚と本来の角度に戻る。迷光の輪がほどけるたび、室の空気が一段やわらかくなる。


「一回撃つ?」

 カラが俺を見る。俺はうなずいた。


「導紗レーンの“中だけ”。出力は半分だ」

「パチパチ了解!——《黒雷》」


 黒い雷の糸がまっすぐ走り、導紗の真上だけが煤の線を引いた。

 鏡像の道は焼けず、本物だけが焼ける。

 奥の台座がかすかに開き、薄い板のような《光印》が現れた。

 同時に、棚の影から証明銀板が一枚、ころりと転がり出る。


「回収します」

 リィナが銀板を拾い、袖の内ポケットに収めた。



 次は影の廊。

 照度が落ち、影が濃く、そして数が多い。

 鏡が影を増やしているせいで、どれが“落とし穴”でどれが“ただの影”か、目では分からない。


「“標”を置くわ。安全な影を点で示すわ」

 モフの《狐火・標》が、静かに点を灯していく。音はない。


「ご主人、この影、においが冷たい。落とし穴だと思う」

 ミィが鼻をひくつかせ、《標》の灯す影の罠を確認しながら進む。フォールミュート・パッドが乾いた床の振動を吸い、足音はほとんど立たない。


 天井の梁から、ふっと黒い影が舞い降りた。

 鏡蝙蝠だ。

 光に集まり、影で隠れる。

 微細な羽音が、鏡で幾重にも増幅される。


「——カラ、一回だけ、導紗の中心に」

「はいっ!先生。黒雷!」


 電撃が導紗の中を走り、鏡蝙蝠の群れ全体を“感電”させる。

 鏡蝙蝠の群れは崩れ、影へ散った。

 暴発は——ない。

 抑魔バンドの銅網が、ほんのり温い。


「偉い」

 モフが目だけで褒めた。


 廊奥の壁面、最も薄い影の裏へ短刃を滑らせると、隠し祭壇が開く。

 《影印》を取得した。



 三つ目は反響の回廊。

 床下が空洞で、足音の反響に応じて落とし穴の位置が“移動”するという悪趣味な仕様だ。

 しかも完全無音だと、背後の道が鏡で折りたたまれる。


「“無音”は悪手という情報だ。——塔との騙し合いだな」

 俺は盾の縁で床をかすめ、風の流れを下へ通した。

 微音が一定で続き、一定の反響音になる。


「偽の音と走るミィを作るわ。《狐火・写》」

 モフが扇を返すと、横のレーンに足音とともに偽のミィが走った。

 移動する落とし穴がそちらへ吸い寄せられる。


「今の“間”に抜けるよ」

 ミィが一気に祭壇前まで走った。

 移動した落とし穴が戻って来るタイミングを読み、短刃を床板の合わせ目へ楔のように挟み込む。


「落とし穴、止めたよ」

「カラ!雷!」


 カラの黒雷が落とし穴の床を焼いた。

 反響音が整い、罠が消滅した。


 祭壇の蓋が開き、《響印》を得る。



 三印が揃った。

 その時、

 扉の前の床が、鏡面の影を集めて立ち上がった。

 人の背丈ほどの、のっぺりとした塊——《鏡食い(ミラー・イーター)》だ。


 向かい合わせに本体と鏡像の二体が現れた。

 光を吸収すれば影の刃になり、反射すれば眩しさでこちらの目を奪う。

 いやらしい。


「カラ、撃つな。影の刃が増える」

「は、はい!カラは撃たない!」


「光を逃がす」

 俺は受け面を寝かせ、天井から降る光を側壁へ送る。光を与えなければ、鏡像が弱っていく。


 モフが《写》で“偽のもう一人の俺”を出して狙いをズラす。


「ミィ、死角から背面へ」

「任せて、ご主人」


 ミィの刃が、鏡の継ぎ目を二度、刻む。

 鏡食いが口を開いた——吸うタイミングだ。


「今。口の“中”へ一発だ」

「先生いや師匠!黒雷!」


 黒雷が、鏡食いの口に吸い込まれた。鏡像が薄れ、本体の輪郭がはっきりした。


「反らす」

 俺は影の刃の軌道を反射で鏡食いの足に返し、バランスを崩す。

 リィナが白光で俺の前腕のしびれを回復させる。


「とどめ、いく!」

 ミィの二連突きが芯を捕らえ、のっぺりとした影は“像”を失って沈んだ。


 床に《反照の札》と《鏡糸》、そして割れた証明銀板の破片が残る。

 奥で《塔の記録石》が起き上がり、職札に〈十階・前半 記録済〉の光字が浮かんだ。



 中枢の扉は、半分だけ開いた。

 鏡面の内側に、玉座の影と、王冠が増えて見える奇妙な反射が映る。

 そして——遠い稲光の黒い筋。黒雷ヘイムが、“映る”。


「……近づかない」

 モフが小さく言い、カラは自分の抑魔バンドをそっと撫でて深呼吸した。


「偉いぞ。撃たない選択も戦いの一つだ」

「えへへ……お腹はすいた」


「それは帰ってからだ」

 俺は短く笑う。

 そして風読笛をひと吹きし、隊をまとめた。


「受けない。流す。必要なら、返す。——見せて、惑わせ、示して進む」

「師匠、次は“撃っていい時だけ撃つ”!」

「先生よりはいいか——行くぞ」


 半開きの扉の向こう、鏡の王の領域へ。

 十階の区切りにふさわしい“厄介さ”が、静かに手招きしていた。

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