第18話「樹海迷宮へ」
八階の石扉を押すと、むっとする湿気が顔にまとわりついた。湿った土、甘い樹液、乾いた苔。俺たちは口と鼻に薄い布を当て、喉に蜂蜜を一滴落としてから、最初の一歩をそろえる。
「役割の最終確認」
俺は低く言う。
「俺が盾で“風の流れ”をつくる。もし風向が急に変わったら盾も反転して対応する」
「わたしは結界を風の流れに設置するわ。なるべく薄く、風の道に垣根を作るように」
モフが扇を立てる。
「ミィは音を立てずに走るよ。木の上は《蔦走り》でいくよ、ご主人」
「私は回復をします。疲れたらハンドサインで教えてください」
リィナが白枝杖のルーメンを握り直した。
◇
低く「ミシ」と木が鳴る。葉の向きが一斉に反転し、奥からの風が引いた。風向の急変だ。俺は円盾を十五度寝かせ、受け面をなめらかに反転させる。足元の粉塵が細く流れ、風の道を描いた。
モフが風の道に薄い結界を沿わすように置いたので、風の道は崩れない。
倒木の陰を曲がったとき、小さく「チチッ」。ミィが即座に止まる。
「来るわ」
モフの扇と尻尾が揺れる。
地表の落ち葉がふくれ、細い蔓が鞭のように伸びた。ツルグラップラー——絡めて足首を引きずり込む罠だ。最短距離で伸びてきた。
「うっ、掴まれた、が、反らす」
俺は盾の縁を足元に滑らせ、締まる力の向きを横へ反射する。蔓の根元が一瞬露出した。
「結界固定」
モフが根元と地面とを結界で固定した。それ以上の締めつけが止まった。
「今だ、ミィ」
「にゃっ!」
短刃によって真っ二つとなった蔓は、力を失って土に伏した。蔓に締められたため俺の足首が紫色に鬱血している。
リィナが締められた跡に回復の光を落とし、皮膚の色が元に戻る。
「“チチッ→固定→盾→ミィ”、ね」
モフが小声で繰り返す。
「うん。覚えた」
ミィは鼻をひくつかせた。
「この先の左、甘いにおいの奥に鉄っぽいのが混じってる。多分危ない」
「なら右だ」
俺は進む方向を右へ切り替えた。
やがて森林は乾いた落ち葉で敷き詰められたエリアに変わる。踏むと音が立ち、危険な敵が襲ってくると言われている場所だ。
「この先は、音で気づかれやすいです」
リィナが布越しに囁く。
「ミィ以外は俺の作る道を通れ、モフ、結界固定」
「わかったわ、まこと」
俺は盾の縁でわずかに地面を撫で、落ち葉を結界付きの風の流れで左右に寄せた。葉のない細い蛇道が一本できる。
ミィ以外はその葉のない道を選んだ。一方、ミィは落ち葉の上を走っても音がしない。タイミング良くモフがミィの足元に結界を張っているおかげだ。ミィが索敵を行いつつ先に進む。
◇
倒木のトンネルをくぐると、青白い光の柱が立っていた。《塔の記録石》だ。職札を掲げると〈八階・前半 記録済〉の字が浮かぶ。脇の宝箱を開けると、薄緑の絹の紐が一本入っていた。
「《回復の絹紐》」
リィナが目を細める。「ローブ内側の紐をこれに換えると、回復の呼吸がぶれにくくなる……私がいただいてもいいです?」
「ああ。もちろん」
記録を終え、さらに奥へと進む。湿り気が増し、根が複雑に絡んだ広場に出た。中心に、直径三メートルの根の塊。四方に触手のような蔓が伸び、周期的に低い唸りを発している。
「……中ボスだわ」
モフが扇を伏せる。
「ルートラルという名前だったはずです」
リィナが呟く。
「ルートラルは、蔓で掴んでの引き込みと根の塊による叩きと、風に合わせて胞子を飛ばすという3つの攻撃方法を持ってます」
低い木鳴り。森の呼吸が裏返ったかのような音である。ルートラルの蔓の触手が地中からせり上がり、足元を狙ってきた。
「右足、くる!」ミィが跳ねる。
俺は盾の縁で蔓の向きを回廊側へ滑らせた。
引き込みは空を切る。
「行くよ!」
ミィが《蔦走り》で側壁→倒木→背面へ。嗅覚で“樹液の濃い継ぎ目”を見つけ、そこに一撃を与えた。
ルートラルの上部から“根の塊”が振りかぶられる。棍棒による攻撃のようだ。
「上だわ!」
リィナが指差し、光でミィの足首を軽く押す。
「反らせ」
俺は肩で受け、盾で反射。攻撃の方向を側壁へ誘導する。
「踏み台結界よ!」
モフがミィの進路にほんの一瞬、結界を“置く”。ミィはそこで角度を変え、背面へ回り込む足場を得た。
次の瞬間、木鳴り。風が逆向きになり、ルートラルから白い霧が吐き出された。甘い匂いに鉄が混じる、危険な胞子だ。
「胞子です!」
リィナが蜂蜜を喉に回し入れ、声を整える。
俺は盾面を立て、俺—ルートラルの核—側壁を一直線に結ぶ風の流れを作った。モフがその両縁に結界をタイミング良く設置する。胞子は一カ所に溜まらず外へ、風の流れの内側は澄み始めた。
「匂いの薄い方から行くよ!」
ミィが右へ抜け、主根の裏へ刃を入れた。
「喉を回復します」
リィナの白い光が俺とミィとモフの喉の奥をそっと往復する。
広範囲に広がっていたルートラルの触手が一斉に収束し、再び引き込みを狙う。地面がうごめき、締め付けの力が足首に絡む瞬間——
「返す!」
俺は反射でその締めを主根の継ぎ目へ押し返した。力は元の主へ戻り、自分自身の弱いところを締め上げる形になる。
「境界で止めるわ!」
モフが継ぎ目に薄膜を置き、逃げ道を消す。
「今だ!」
俺は根による棍棒攻撃の角度を肩で変え、継ぎ目に“反射する”。鈍い割れ音。
「にゃあっ!」
ミィの短刃がその裂け目に吸い込まれ、芯まで届いた。低く長い唸りが、やがて消える。蔓は力を失い、広場に静けさが戻る。
根の塊の脇に、薄い板片がころりと落ちた。掌に載せると、木紋が光を返す。
「《リフレクトスパイン》」モフが覗き込む。
「盾に貼ると反射のタイミングが速くなり、盾の重さも軽く感じるようだわ」
宝箱も現れた。中には薄茶色の踵革と、苔の小包み。
「この踵革……《フォールミュート・パッド》だ」
俺は踵に重ね、軽く踏む。乾いた葉の上でも音が消える。
「ミィ、これならさらにスピードを上げられる」
「こちらは《ミスト・シールペタル》。わたしの扇との相性が良さそうだわ。毒の霧の中でも結界が安定するようだわ」
モフは嬉しそうに尾を揺らした。
「私は《森息の絹紐》をローブの内側に……よし、発声がぶれにくい」
リィナが胸元に触れ、安堵の息をひとつした。
広場の端の副祭壇が開き、小型の記録石がせり上がる。職札をかざすと〈八階・中間 記録済〉。休める、という合図でもある。
「ご主人、少しだけ水飲んで」
ミィが瓶を差し出す。
「助かる」
立ち上がろうとした時だった。風が一度、上から下へ吸い込まれた。さっきまでの急変と違う。森全体が、逆さに呼吸したみたいに。
「……今の」
モフが扇を半ばで止める。
頭上、高い樹冠の隙間から、黒く細い羽が一枚、ゆっくりと舞い落ちてきた。焦げた匂いと、乾いた薬草の匂いがほんの少し混じる。耳の奥で、低い詠唱が一度だけかすめた。
「ご主人、空から“匂い”が落ちてきたよ」
ミィが見上げる。
「焦げと薬草。上にいる」
「風の向きを逆さにした誰かが、いるわね」
モフの尾がふわりと揺れる。
「……上に、誰かが」
リィナは白の袖を握った。
◇
「行こう」
俺は上層へ伸びる梯子の向こうを指し示す。樹冠の光が脈打っている。
受けない。流す。必要なら、返す。八階の後半は、そこからだ。




