第13話「胞子の森」
六階の石扉を押すと、むっとする湿気と甘い匂いが顔にまとわりついた。土、腐った葉、きのこの汁。俺たちは用意した薄い布を口と鼻に巻き、喉に蜂蜜を少し落としてから、ゆっくり息を吸う。
「ご主人、匂いの層が三つあるよ。手前は湿った土、真ん中は酸っぱい、いちばん奥が甘くて重い。——奥が危ない甘いにおい」
「俺が盾で“風の流れ”を作る。危険な匂いは横へ逃がす。ミィは先行、モフは薄膜を風の流れに沿わせてくれ」
「了解。まこと、今回の狐火は“光だけ”。熱は使わない。結界は薄く短く“設置”するわ」
足元には苔、踏むと水がにじむ。幹には白い菌糸がレースのようにまとわり、ところどころで小さな「ぱん」という弾け音。胞子嚢が割れる音だ。
俺は円盾の反響板に指を滑らせ、《風脈のコア》を指先で調整する。受け面を十五度だけ寝かせ、盾の前に細い流路——風の流れ——を作り出す。流れの中は空気の筋が整っていて、匂いが薄められる。モフが扇を低く払うと、流れの境界だけをなぞる薄膜がふっと置かれ、吸うと体に毒な匂いは流れの外へそっと追い出された。
「ここ、匂いが軽い。行けるよ、ご主人」
「歩幅は短く。流れが重なるところは、必ず止まって次の一歩を判断だ」
茂みの陰で「ぶほっ」と湿った息が聞こえた。森イノシシが二頭、突進してきた。背に蔓を絡ませ、鼻先には湿った土。分かりやすい敵で助かる。イノシシは目に入ったものを一直線に狙う——つまり、俺が正面にいるので、まず俺に向かって来た。
「右を誘う」
右のイノシシが直進してきた。俺は盾の角度をそのまま、縁で鼻先を滑らせ、突進の力を横へ逃がす。勢いは落ちずに太い幹へ流れ、イノシシは肩をぶつけて一瞬止まった。
「ミィ、背面!」
「任せて、ご主人!」
ミィが切り株を蹴り、後ろ脚の腱を短刃で切る。もう一頭は方向転換してモフへ。
「こっちは幻」
モフが光だけの狐火を横へふわり。視線がそちらに引き寄せられる。その瞬間に俺が半歩踏み込み、盾の膨らみで鼻梁を押し、太い幹へ誘導。ミィの刃が首の付け根に入って、終わりだ。
「突進は怖いけど、ご主人がいなすと簡単ね。分かりやすい」
「そうだ。受けないで流す。森でも同じだ」
進むと、頭上で「ぱふっ」と粉。ぶ厚い笠の胞子キノコが並び、刺激で胞子を噴き上げている。甘く重い匂い。ここをまっすぐ抜けるのは悪手だ。
「ご主人、右の岩の隙間、匂いが薄い。空気が抜けてるよ」
「そこまで風の流れを通す」
盾を二十度傾けて面を動かす。風の流れが右へ寄り、甘い匂いは薄くなる。モフの薄膜の結界が流れの境界を撫で、散った胞子は足元へ落ちる前に吸われていった。三人は風の流れを踏み外さないよう、短い歩幅で前へ進む。
木の上からざわざわ。蔦猿が石やまだ熟していない木の実を投げてくる。投げる前、腕が一瞬固まる癖が見える。
「まこと、投石もずらせる?」
「いける。——問題ない」
飛んでくる投石や木の実に合わせて、盾面の角度を浅く→深くと切り替える。石は縁で二方向に分かれ、俺たちのいる場所から大きくから外れる。流れの制御を維持しながらの対応だ。
モフが薄膜を蔦猿の手前に“置き”、指先をぬるりと滑らせた。狙いが狂い、落ちる石が増えた。ミィは幹を駆け上がり、近い個体の手から石をはたき落とすと、群れは奥へ引いていった。
やがて丸い広場。中央に巨大な切り株。ここから先がボスだ。
「行く」
──
切り株の奥で、根がもこもことうねり、一本のトレントが立ち上がった。二階建てほどの背丈。腕は太い枝、足は絡む根。胸のあたりに樹核がうっすら光る。立ち上がるのと同時に、節穴や樹皮の隙間から白い胞子が吹き出し、広場に甘い匂いが満ちた。
「ご主人、匂いが一段濃くなったよ」
根から石を抜いて投げてくる。俺は盾面を少し立てて斜め上へ弾き、石は頭上を越える。次は低く速い。受け面を寝かせ、床へ逃がす。
踏みつけの前、地面がふっと沈む気配。モフがすぐ横に薄膜を置き、三人でそこへ滑り込む。踏みつけは空振り、根が外へ伸びた。
「そこ、ミィ!」
「了解、ご主人!」
ミィが低く潜り、樹皮の継ぎ目に斜めの一撃。木屑が飛ぶ。トレントは怒り、枝の横薙ぎに振るう。
「まこと、枝の前は葉がひと揺れ。踏みつけの前は地面が沈む感じ」
「了解。俺が正面で風の流れを切り続けて胞子をいなす。二人は“隙”だけ見逃すな」
「葉が揺れた——来る!」モフの声。
俺は盾面に風の流れを作り、衝撃を二つに割る。身体の横を風圧が抜ける。トレントは口から多量の胞子を吐き出した。白い霧が前面を覆う。
「風の流れがふさがれた」
「まこと、薄膜を流れの境界にぴったり沿わせるわ。流れを再構築できる」
「やる」
風の流れを細く作り直す。モフの薄膜が流れの境界だけを撫で、胞子は左右にそっと押し分けられていく。視界は悪いが、匂いが道を教える。
「ご主人、濃度が薄くなった方向が道。右に行ける!」
「右へ風の流れ——行くぞ」
俺の感覚とミィの鼻が一致する。ミィは風の流れから外れないよう短い歩幅で走り、背面へ。モフは俺の側面にぴたりと薄膜を重ね、「結界を固定」してくれた。
根が鞭のように伸び、ミィの足を絡めに来る。俺は盾の縁でトレントの鼻先を滑らせ、外へ流す。
「まこと、樹液の匂いが強い。弱ってる!」
「合わせる。——三、二、一!」
合図どおり狙いを合わせ、その“隙”にミィが太い枝を切り倒す。トレントの体が沈み、胸の樹核がよく見える高さへ落ちた。
「核、見えた!」
「最後は俺が隙を作る。モフ、核の下に影の幻を置いて視覚を混乱させろ」
「了解、まこと。影を置いたわ」
樹核の少し下に濃い影の幻。トレントの視線と“狙い”が定まらない。俺は盾の縁で幹の節を押し上げ、核をこちらへ向ける。
「今だ、ミィ!」
「にゃっ!」
短刃が核を斜めに割り、白い光が漏れる。トレントがのけぞった瞬間、最後の悪あがきのように、頭上から胞子の雨を降らしてきた。視界が白くなる。
「流れが途切れる!」
「まこと、わたし、薄膜を一瞬“留める”。合図して!」
「今だ——固定!」
モフの薄膜が核の前にピンのように刺さり、胞子の流れが鈍る。その間に俺は盾をもう一段寝かせ、核を固定した。そして、ミィの二撃目が中心に届いた。
巨体がぐらりと傾き、根がばらける。樹液の匂いがふっと薄まり、甘い匂いも一段引いた。トレントはゆっくり崩れ、静寂だけが残る。
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切り株のそばに宝箱と、柔らかい光の葉の印が現れた。ミィとモフの体を淡い光が包む。
宝箱の中には三つ。
•《樹核の欠片》:大きな衝撃を一度だけ吸収する。盾に装着するのがいいだろう。
•《蔦走りの小札》:枝や蔦を道のように走れるスキル。
•《結界固定のしおり》:結界を一点固定できるスキルの手引き。
ミィとモフの体を淡い光が包む。
「ご主人、体が軽く感じる……枝や蔦の上でも、走れるってことね!」
「ミィ、これはお前にピッタリだ。新スキル《蔦走り》——枝と蔦の上を走れる。背面取りがもっと速くなる」
「やった! ご主人の“隙”に間に合う!」
「モフはこれだ。新スキル《結界固定のしおり》——結界を固定することができれば、色んな応用が考えられるぞ」
「最高ね。まことのずらしの直後、敵を止めれば、ミィの刃が確実に入る」
脇の《記録石》に職札をかざすと、〈六階・記録済〉が灯る。これで次回は六階から再開できる。
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転移で塔前広場へ戻る。乾いた風が心地よい。ギルドで報告を済ませ、鍛冶屋グラムに寄って《樹核の欠片》を盾の裏に薄く貼ってもらう。
「一発だけ、でけぇ力を緩める。だが過信すんな」
「分かってる」
宿に戻り、今日の要点を短く書く。
•匂いで流れを読む:甘い=危険、薄い方向が道。
•流れが重なる場所は止まってから一歩。
•投石は浅→深で散らす。
•トレント:核を見せる角度へ。胞子は風の流れ+薄膜で左右に逃がす。
•新スキル:ミィ《蔦走り》、モフ《結界固定》
「ご主人、明日は《蔦走り》の練習、付き合ってね」
「ああ。俺も“隙”をもっと早く作る。お前が間に合うように」
「まこと、《結界固定》の持続時間はまだ短い。タイミングを逃すと固定が外れるわ。——でも、今日みたいにタイミングさえ合えば楽しみだわ」
「合わせ続けよう」
窓の外で、森の黒が静かに揺れた。匂いで道を見分け、盾で風の流れを作り、仲間とのタイミングを繋げる。守って、攻める。受けずに、流す。——そのやり方で、次の階へ行く。




