第12話「街、三人で」
朝。塔の影は長く、街路の石は昨夜の冷えをまだ残していた。今日は潜らない。いや登らない。五階を終えて一息、六階《胞子の森》に入る前に、街で身体と頭を整える日だ。
「ご主人、今日は“遊ぶ日”で合ってる?」
「遊ぶ、というより——感覚の調整日だ。ミィ、モフ、俺。みんなの感覚に“鈍り”が出る前に研ぎ直す」
「言い方が堅いのよ、まこと」モフが扇で口元を隠し、目だけで笑う。「結論は“デート”。それでいいでしょ?」
否定はしない。俺たちは塔前広場を背に、朝露の香りが残る市場通りへ歩いた。
◇
朝の市場は騒がしくない。店主たちが店の前に水を撒き、香草を水で洗い、干し肉に油を塗って焼き始めるている。火はまだ弱く、匂いははっきり分かれる。
「ご主人、こっち。パン屋からいい香りがする」
ミィは鼻先を少し上げ、耳を伏せて確かめる。酵母の甘さに、古木の乾いた匂いが重なる——隠し戸棚だ。
「そこの戸棚の鍵、いまなら開けられるよ」
パン屋の親父に声をかけると、彼は目を丸くした。「この戸棚、しばらく固くて開かなかったな。開けられるのか?」
「ミィ、お願い」
「にゃふっ」
爪先で木目を撫で、金具の噛み合わせを触覚で読む。かすかな抵抗が途切れ、からり。板がひとりでに外れて、扉を開けることができた。親父は大げさに頭を下げ、代金代わりに焼きたての小さな丸パンを三つ握らせてくれた。
「ご主人、熱いよ。ふー、して」
「自分でやれ」
「ふふ、まこと、あなたも一口。塩が控えめでとっても優しい」
パンの湯気に酵母の甘み。脳まで温まる。六階は“匂い”の階だ。こういう朝の匂いでリラックスすることで、森の匂いもきっと早く見分けることができる。
◇
市場の端に、小さな喫茶がある。「蜜柑茶屋」と札が出ていた。中庭に席を取り、三人で湯気を囲む。甘い柑橘と薬草の香りが充満し、体の隅々にまで染みていった。
「六階では火が使えない。火は森と胞子のどちらとも相性が悪い。森の草木は燃えるし、胞子は爆発する」俺は湯飲みを置き、簡単に指で図を描いた。「モフは薄い結界を俺の盾に沿わせてくれ。胞子の接近を回避する。ミィは枝の上から背面に回ろう」
「了解。滑る木は避けて行くよ」
「まこと、結界の膜は薄めにして滑りを良くするね」
店主が蜂蜜を少し持ってきてくれた。濃厚な味がする。また舐めることで胞子から声帯を守ることができる。明日のために蜂蜜を追加で購入をした。
「それと、布だ」
「布?」
「湿した布を口と鼻に。大袈裟にする必要はない。短く、軽く、耳の邪魔にならないやつ」
「ふふ、じゃあ服屋ね」モフが立ち上がる。「まこと、似合う色を選んであげる」
◇
仕立屋の若夫婦は、俺たちの顔を見るなり笑顔になった。ギルドで掲示した“風鈴の音合わせ”のメモを見たらしい。「助かった」と言って、布の棚から薄手の麻を三枚引き出してくれる。
「猫の子には耳の付け根の負担が減るよう、細い布。狐の子は尾の毛を潰さないよう、背中で結べるタイプにするよ」
「わたし、尻尾がチャームポイントなの」モフが当たり前のように頷く。「色は白がいい」
「ご主人は?」
「グレー。汚れが目立たない」
採寸と仮縫い。ミィは鏡の前でくるりと回り、耳の後ろの紐を指で触って確かめる。「ご主人、これ、息が楽だね。匂いも問題なし」
「ああ」
「まこと、あら、似合う」モフは俺の首元を整えてくれた。
仕立屋の奥さんが笑い、三人お揃いの小さな刺繍を端に入れてくれた。盾の簡略図。猫の足跡。狐の尾先。目立たない位置だから、照れは少ない。
◇
昼前、鍛冶屋グラムのところで《風脈のコア》の取り付け位置の再調整を行う。彼は核石を持ち上げ、光に透かしながら唸った。
「いい渦が見える。盾の裏で固定させるんじゃなく、盾の角度に合わせてコアの向きも変わるようにしておこう。……ほら、触ってみろ」
盾の内側に指を置き動かすと、微かな風の通り道を変えられるようになっていた。押し付ければ重い風、離せば軽い風と風力も変えられる。
「どうだ?」
「分かる。散らす“道筋”が指に伝わってくる」
「よし。——で、六階は森だろ。肘と肩を大事にしな」
「分かってる」
店の端でミィは小さなナイフを選び、柄に猫の肉球マークの刻みを入れてもらっている。モフは扇の骨の一本を取り替えた。狐火の熱を通しても歪みの少ない材だという。道具を磨く音は気持ちを落ち着かせる。
◇
午後は訓練場——ではなく、城壁の外、風の広場へ。木陰が円形に広がり、落ち葉が薄く積もっている。ここで“デート”らしい雰囲気も混ぜながら、感覚の練習をする。
「ご主人、葉っぱ、舞わせて」
俺は盾の前面で地面を軽く叩き、縁で風を撫でる。落ち葉がふわりと浮き、角度を変えれば、左から右へ、右から手前へ、目に見える風路ができる。
「これが“風の流れ”」俺は指で示す。「舞っている葉が落ちずに流れていく。胞子の濃いところを右へ、薄いところを左へ——こうやって流す練習だ」
「分かる。ご主人、風の流れに沿って走るのを見て!……行くよ!」
ミィは足のつき方をいつもより柔らかくし、落ち葉の積もった上を走る。彼女の柔らかい肉球は落ち葉を踏んでも、音はほとんどしない。惚れ惚れする走りだ。
「まこと、薄膜を一枚」
モフが扇を低く払う。彼女の結界は、強く張れば張るほど目立つ。今日はいつもより薄い。結界を干渉させて葉の落ちる速度を制御している。次は狐火が使えないし、光の揺らぎも作らない。六階で“熱”は厳禁だから。
「いい。——次、風の流れを動かす」
俺が盾の角度を変えると、風の流れが右に左に動く。ミィも流れの動きに合わせる。呼吸も合わせる。それでいて落ち葉を踏んでも音を立てずに移動できる。
「ご主人、楽しい!」
「楽しい、で覚えるのが一番だ」
休憩の間、三人で丸パンを割り、干し果物をかじる。城壁の陰から子どもが覗き、ミィの尻尾を目で追っている。モフは見つけると、わざとゆっくり尾を揺らして見せた。歓声が小さく上がる。
「まこと、午後は“音”じゃなく“匂い”に寄せましょう」
「賛成だ。——ミィ、目を閉じて、この広場の匂いを全部言ってみてくれ」
「うん。土。鉄。草。犬。パン。……ご主人の皮帯の油。モフの扇の木。——それから、風の向こうに、蜂蜜」
「蜂蜜?」
「塔前の『串と蜜』からだろう」俺は笑った。「じゃあ、今からそこまで、匂いだけで行こう」
俺は盾で“風の流れ”を移動させ、二人の足音が少しだけ小さくなるような位置を選ぶ。ミィが先頭を歩き、モフが後ろで膜を薄く引く。遊びのようで、これは立派な連携の練習だ。
◇
「串と蜜」はいつも通り甘い匂いで迎えてくれた。昼の献立は、蜂蜜バターの焼きそばと、香草焼きの鳥。小さな丸卓に三人で寄り、湯気の向こうで笑う。
「ご主人、麺がパリパリ。しあわせ」
「ミィ、尻尾が麺に入りそうよ」
「にゃっ——」慌てて尻尾を持ち上げる。その尾を見て、隣の席の子どもがまた笑う。
「まことは?」
「塩を控えめに。喉を守る」
「真面目ね。でも、そういうとこ、好きよ」
バターの香りと蜂蜜の甘さに、緊張がほどける。話題は自然と“デートらしい場所”へ流れた。塔の麓には、日暮れ時に小さな音楽会が開かれる広場がある。大道芸人が火を吐き、曲芸師が紐の上を歩く——いや、次も森は火は厳禁だ。今日は違うものにしよう。
「路地の先に、水鏡の池がある。鏡みたいに空を映す。——行くか」
「行く!」
「ロマンチックね、まこと」
◇
石畳の路地を抜けると、囲まれた庭の中央に浅い池があった。水面は風にざわめいて、薄い雲が砕けては継がれていく。端のベンチに座ると、ミィはすぐに靴を脱いで縁に上がり、足先だけ水に浸した。
「冷たい。ご主人、ほら」
「おい」
水滴が飛ぶ。盾で受ける。小さな波が起き、池の対岸まで波紋が広がった。
円盾の縁で水面を指先のように突く。輪が二つ、三つ。タイミングと場所をずらして突けば、輪同士がすれ違い、時に合わさって大きな輪になる。ミィはそれに合わせて足の指を開いたり閉じたり、遊んでいる。モフは扇を閉じ、頬杖をついて眺めていた。陽の光が尾に細く走る。
「——ねえ、まこと」
「なんだ」
「わたし、幻も結界も使えるけど、今日みたいな“薄い膜”で作る方が本当は好き。見えすぎない、でも見える。まことの盾も、そういうところがあって好きよ」
ミィが頷く。「ミィも、匂いが全部わかる時より、一つだけ強く匂うときの方が好き。ご主人が“隙”を作ってくれる時、そこだけ匂いが変わるから。すぐわかるもん」
「——ありがとな」
こうしていると、塔のことも、次の階のことも、いったん忘れて心が落ち着く。
◇
夕方が近づく。最後の用事、薬舗へ寄る。店の主は瘦せた眼鏡の薬師で、俺を見るなり、棚から二本の瓶を取り出した。
「回復ポーション二本。毒消し一本。いつも通り、必要最小限で」
「ありがたい」
「ただ、六階に入るなら耐えず喉を潤しておく必要がある。必ず水を定期的に飲んで。集中が切れる時間も計算しなさい」
モフが顎を引く。「分かってるわ。まことを見てる」
「ご主人、ミィも見る。飲む時をミィが合図する」
薬師は苦い液体の小瓶を差し出し、香りを嗅がせる。「これが“危ない匂い”の見本。胞子の濃いところは、こういう酸っぽさに“湿った土の甘さ”が少し混じる。嗅いだら、一歩引くこと」
「覚えた」
店を出ると、風はもう冷たく、塔の影は街の真ん中まで伸びていた。
◇
最後に、ギルドの広間を訪れた。掲示板の前は仕事終わりの冒険者で賑やかだ。俺は五階の“風鈴の音合わせ”のメモに追記した。文字は大きく、要点だけ。見知らぬ若い連中が「助かる」と言って頭を下げる。こういう瞬間が、盾の価値を少しずつ変えていく。
「ご主人」
後ろからミィに袖を引かれた。酒場の隅の席が空いたという。三人で腰を下ろし、水と薄い麦酒を一杯ずつ。つまみはハーブチーズ。
「明日、森だね」
「森だ」
「——怖くはないの?」モフがさり気なく問う。
「怖い。でも、怖い時にやれることは決まってる。呼吸を整える。落ち着く。考える」
ジョッキが触れる音が小さく、心地いい。街は安全だ。明確な敵はいない。けれど、ここで交わした約束が、次の階での迷いを減らす。
◇
宿へ戻る道すがら、空にはすでに星が二つ。塔は沈黙したまま、夜空を背景にして立っている。三人で並ぶ影も、昼よりも近い。
「ご主人」
「ん」
「今日、楽しかった。ご主人とモフといると、楽しいから好き」
「……それは良かった」
「まこと」
モフは扇を畳み、尾を一度だけ揺らした。「楽しいから強くなる。明日、それを証明しましょう」
部屋に入ってから、俺はいつものようにノートを開いた。今日の“薄さ”の感覚、風の流れの動かし方、ミィの足音が消えるタイミング。モフの膜が“邪魔にならない厚み”となる瞬間。短い言葉で書き留める。難しい言い回しは避ける。分かる言葉で、次の自分に渡す。
灯を落とす前、窓の外の塔を一度だけ見た。森の匂いはまだ届かない。それでも、胸の奥で小さな空気の流れができて、そこに身を置く感覚が、確かに芽生えていた。
守って、攻める。
受けず、逃がす。
そして——明日は、匂いで道を作る。




