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第1話「目覚めの木盾」


硬い石畳の冷たさが、頬から首筋へ染みていく。目を開けると、天蓋のない空、石造りのアーチ、香草と獣脂の入り混じった匂い。知らない——いや、知っている。二十年を吸い込んだ画面の向こう側、《百階塔》のふもとの城下市だ。


掌には、節の多い木の盾。粗末で軽い。掲げてみると、左腕に重さの癖がついていない。身体は若いが、感覚は追いついていない。耳に飛び込む声が容赦なく切ってくる。


「なんだ、その職札。……《盾》? ハズレ引いたな、兄ちゃん」

「ここじゃ皆、自分の身は自分で守るんだよ。盾なんぞ抱えて突っ立つ余裕はないさ」


知っている。この世界にタンクの概念はない。攻撃役は殴り、魔法役は焼く。守る者はいない——だから四十階で詰まる。俺は木盾の縁を親指で撫で、微かなささくれに爪を当てながら、二十年間、AIの手を読んできた脳をゆっくりと起動させた。


風向き、露店の並び、足音の密度。市場の中央、鶏籠を弾き飛ばして狼が二頭、尻尾を下げて低く唸る。群れの残りは見えない。——違う。屋根影、樋のライン、視界の縁に“揺らぎ”。四、いや五。遅れて来る“学習個体”が一頭。


「逃げろ!」誰かが叫び、誰もが背を向ける。駆け出した少年の足が滑り、手にした干し肉が石に転がって跳ねた。狼の視線が、肉と少年と、その間にあった俺の木盾に同時に吸い寄せられる。


盾の真価は、硬さじゃない。角度だ。


左足半歩、盾面を十五度外へ。視線を狼の右眼に置き、喉の奥で金属音に似た短い咳を作る。「ッカ」——敵対心ヘイトの糸が、こちらに撚り付く。二十年で覚えた彼らの“選好”が、皮膚の下で震えている。最短経路・低コスト・背面確保——AIはつねに合理で動く。俺は合理の道を、わざと狭める。


一頭目が飛ぶ。盾面に入射、縁で滑らせる。顎の角度を狂わせ、首筋を石へ叩きつけ、肘で喉笛を塞ぐ。二頭目は迂回——そう、“最短でない最短”を選ぶ学習途上の個体だ。そこに——


「右二、猫背面」


自分でも滑稽だと思う。ここに猫獣人がいる保証はない。だが、嗅いでいた。香草に紛れた柔い肉の匂い、濡れた縄の匂い、そして微かに、獣毛に油を擦り込む匂い。屋台の布の影から、しなやかな影が飛ぶ。


黒い尾、軽い足音、煌めく短刃。猫獣人の少女だ。狼の肩甲の上、喉へ刃が吸い込まれる。血が弧を描き、少女は猫の背中みたいに柔らかく着地した。


「合図、聞こえたから来てみたけど……あんた、誰?」


言葉より早く、三頭目と四頭目が左右から挟む。俺は盾を上げない。上げてはいけない。彼らは“盾の面”だけを危険視する。ならば、面の位置を裏切れ。


左足を止め、右で円を描き、盾の縁で狼の鼻梁を削ぐ。鼻先を撃たれた個体は“退却”を選びやすい——背を向けた瞬間、猫の短刃が脇腹の肋間へ。四頭目は跳ぶ角度を失い、俺の肩に爪が触れる直前、盾の内側で“突き”に転じる。木盾の芯は軽いが、腕の伸びと腰の捻りが加われば、刃のないハンマーになる。胸骨に鈍い感触。息が漏れ、牙がこぼれる。


最後の“遅れ個体”が、ようやく影から出てくる。足音が浅い。学習は早いが、欲が勝っている。

俺は呼吸を整え、地面に木盾を強く叩きつけた。

乾いた音が石畳に響き、狼の視線が一瞬こちらに吸い寄せられる。俺は身体をわずかに開き、誘う角度を見せつける。


「——隙だ」


欲に駆られた狼は飛び込んできた。そこに猫の少女が背から回り込み、短刃を突き立てる。

断末魔もなく、最後の狼が崩れ落ちた。


沈黙のあと、市場に遅い歓声が戻ってきた。鶏がやっと鳴き、誰かが「助かった」と言い、誰かが「盾が……役に立った?」と呟いた。猫獣人の少女は短刃を布で拭き、尻尾を一度だけぶんと振った。


「合図、面白いね。“右二、猫背面”。わたし、猫だけど?」

「知ってた。君の匂い、さっきからしてた」

「匂いで呼ぶの、初めて。……あんた、隊長?」


隊長。久しく呼ばれていない呼び名が胸骨に響く。会社では孤立したゲーマー、こちらではハズレの盾。だが、戦場は違う。戦場は結果だけを信じる。


「俺は《盾》。君は《斬る》。その間、世界を切り分けるのが俺の仕事だ」


少女の耳がぴくりと動き、目が笑った。「いいね。じゃ、契約金は肉串三本で」


笑いかけたとき、衛兵の甲冑の音が背後から迫る。市場の安全を守る彼らは、俺の盾と血の匂いをひと嗅ぎし、槍先をこちらへ向けた。


「暴漢を討ったのなら、王城で事情を聞く。お前、その札を見せろ」


差し出すと、衛兵は露骨に眉をしかめる。《盾》。その二文字に価値がないという表情。


歩き出す前に、俺は木盾を拾い上げる。縁に残った狼の体毛が風に踊り、木目の奥に小さなひびを見つけた。脆い。けれど充分だ。盾の価値は硬さじゃない。角度と間合い、そして——先読みだ。


二十年、AIの次手を読むために使った脳の筋肉が、ようやく正しい場所で熱を帯びていく。塔は学習する。なら、学習させなければいい。学ばせて、違うものを学ばせ、時には間違いを植え付ける。戦いは、情報の流通を設計することだ。


「隊長、王城なんて行ったことないけど、肉串は後払いでいい?」

「経費で落ちるといいな」

「経費ってなに?」


猫の問いに答える前に、城門の影が市場の喧騒を切断した。石と鉄の匂い、衛兵の視線、階段の段差。俺たちの戦いは、ここから言葉で始まり、やがて再び刃と盾に戻ってくる。


四十階を越えるために、この世界にない戦い方を——守って攻めるという設計を、刻みつけるために。

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