第8話:白狐、愛と漆黒の対立
長野県、深夜。
霧が、まるで生き物のように深く、山肌の這い降る。この濃密な霧が帳となり、その奥に隠された神社の姿を浮かび上がらせる。八咫烏本部と同じく、強固な結界によって一般人の目を完全に拒んでいる場所だ。
山の奥深く。苔に厚く覆われた参道は、踏みしめる足音さえも音を立てることを許さない。ただ、沈黙だけが、重く、周囲の空気を支配している。朱に塗られた鳥居をくぐると、風はぴたりと止み、肌に触れる空気が鉛のように重い。
社殿は静寂の中で凛と佇む。誰もいない、そう理性が告げるにも関わらず、背中に張り付くような無数の視線を感じた。灯籠の赤い火は、規則正しい間隔で両脇に列をなし、その揺らめきは過去の記憶か、それとも封じられた願いが脈動のようだ。
境内に咲く花々は、すべての色を失っていた。白く、脆く、まるで魂を抜き取られたように美しい。その純粋な美しさは、生と死、腐敗と隣り合わせの静謐な狂気を孕んでいる。
蓮と菜雲は、一歩一歩、慎重に進む。
この場所には男の影はない。ここは神の使い白狐に仕える選ばれし女性のみが足を踏み入れることを許される、本部。彼女たちは言葉を介さぬ術を操り、呪いを編み上げ、祈りという名の力を形にする。この神社は、単に祈りを捧げる場所ではない。ここは、呪術をもって世界の歪みを調律する、沈黙の祭壇なのだ。
進んでいくと、視界の先に呑み込むような、果てが見えない石の階段が立ちはだかった。
蓮と菜雲は、その段を登り始める。階段の両脇からは、白い湯気が止めどなく溢れ出し、足元を隠す。まるで雲を登っているかのように、周囲は真っ白な世界だ。階段は段々と空へと向かい、横を見れば、すぐそこには夜空と月が重なり合う。それは、重力から解き放たれ、宇宙を歩いているかのような錯覚を生じさせる。
山の山頂にたどり着くと、そこには巨大な門がそびえていた。
門が開く。その先には八咫烏本部にも似た、古風な日本家屋が現れる。家屋へと続く細い道。その両脇には、純白のマントを纏い、狐のお面を深く被った白狐の隊員たちが、まるで彫像のように一列に並んでいる。
「ようこそ。お待ちしておりました。どうぞお通りください」
先頭の隊員が、面の中で冷たく反響する、不気味な声で告げた。その声には歓迎の響きはなかった。
菜雲はここで待機。僕は、腰にかけた漆黒の天星剣に左手を当て、警戒を込めて前へ進む。同じ特務のはずだが、肌を刺すような、異種からの威圧を感じていた。
白狐本部に入り、導かれたのは、奥の広い謁見の間。漆黒の床に、純白の柱が天を突くようにそびえるその空間は、まるで氷の神殿のようだ。部屋の周り、等間隔に配置された台座の上には、威圧的なほどに精巧な、無数の狐の石像がずらりと並んでいた。その眼窩は光を宿さず、それでも、全身を射抜くような冷たい視線を放っているように感じられた。
「あら、可愛らしい子が来たのね」
声と共に、目の前に現れた女性の存在が、室内の空気を劇的に変えた。その空気に混じって、金木犀の濃厚な香りが漂い始める。
彼女の身を包むのは、深い赤色の和服。細やかな金糸で織り上げられた狐の文様は、まるで夜空に咲く星雲のように輝いている。その上に羽織られた白いマントは、雪解け水のように清らかで、彼女の持つ圧倒的な気品を際立たせる。こちらに向かってゆっくりと進むたびに、マントの裾がふわりと舞い上がり、天女が舞い降りたかのような幻想を生み出す。
漆黒の髪は、和服の襟元から絹糸のように流れ落ち、光を吸い込むような艶を放っていた。その黒が、背に広がる純白のマントと鮮烈な対照を成すたび、視線は自然と彼女の存在に釘付けになる。
瞳は、紫水晶のように深く澄み渡り、静かに微笑むその表情には、得体のしれない優しさと、決して揺るがない強さが宿っていた。
「お初にお目にかかります。八咫烏、四つ星蓮です。本日の御用向きを、お聞かせ願えますか」
緊張を押し殺し、問う。
「新たに剣星が誕生したのだから、一度その目で観たかっただけよ。ただ、それだけ」...あれが漆黒の天星剣...その刀身が放つ、淀んだ光。ただの力ではないわね。その奥に、猛々しいまでの、邪悪な信念の影を感じる
「そうですか。では僕はこれで...失礼しーー」
「待って」
ゆっくりと、抑揚の少ないこの女性の声は、聞く者の脳を溶かすような奇妙な感覚を引き起こす。体から力が抜け、鎧が外されたようにゆったりとしていく。
「虹の子ね。今まで、さぞ辛かったでしょう」
気づけば、彼女は真横に立っていた。そして、背後から伸ばされた手が、そっと肩に触れる。
「いえ、」
「嘘ね」
全てを見透かされた。しかし、この異常な距離感は何だ。体温が伝わるほどの近さに、先ほどの金木犀の香りがさらに女性的な雰囲気を強める。
「いいのよ、今は本当の貴方に戻って」
このままでは彼女の掌の上で転がされてしまう。僕は意識の深奥で警鐘を鳴らす。
「虹はね、他の人から見ると、変わった人に見えるの。それだけ、貴方は特別な存在だからこそ。今までも、誰も貴方を本当に分かってくれなかったでしょう?」
誰も...そうかもしれない。だけど、一人だけ、いた。それでも、僕はもう、あの人と関わってはいけない。僕では、ダメなんだ
「私なら、貴方の全てを分かってあげられる」
「僕のすべてを.....」
「そうよ」
彼女の指先が、顎を優しく触れる。視線が絡み合う、この距離。
「自己紹介が遅れたわね。私の名前は大黒天星彩花。白狐の灯台塔よ」
「灯台塔とは、なんですか?」
「八咫烏の剣星のような、幹部階級のことよ」
幹部。そして大黒天星......
「剣星の一、八弔の姉よ」
彩花は蓮の目を見つめ、含みのある笑みを浮かべた。それは、蓮が今、心の中で考えていたことを全て見抜いているかのようだ。
この人の纏うオーラは五色.....。初めて対峙する、人間離れした色彩だ。今までにない、不思議で、そして魂が蕩けるような絶対的な安心感.....この感情は、あの時の........
まるで人生を立ち止まり、過去の、無垢な自分に戻りたくなるような、抗いがたい感覚だった。
「ふふ、無理をさせすぎたわね。今日はもう、お戻りなさい。でも忘れないで。貴方の全てを理解できるのは、この世で私だけ。もし、疲れて耐えられなくなったら、いつでもこの場所へ。私は貴方の帰りを待っているわ」
この甘い安らぎを、また求めてしまうような気がした。絶対的な安心感が今まで欲しかったのかもしれない。
僕は白狐本部を出た。菜雲と合流し、最高基地へ帰投する。
その後。
白狐本部。彩花の私室に、一人の男が荒々しい気配を伴って現れた。
「通してくれ」
「剣星の一!?な、なぜここに!」
驚きを隠せない白狐の隊員たち。そこに現れたのは、八咫烏の最高戦力、剣星の一、大黒天星八弔だった。
「姉さん」
「あら、珍しいじゃない。八弔が私に会いに来るなんて」
彩花は扇子で口元を隠し、淑やかに微笑む。
「とぼけないでいただきたい。四つ星蓮は、白狐には渡しませんよ」
その言葉に、彩花は蓮の姿を想像して、美しくニヤリと笑う。
「ふふふ、そう」
「そもそも、白狐は女、八咫烏は男の隊員で構成されている。これは女性が呪術に優れているためだ。陰(八咫烏)と陽(白狐)。その両方が力を合わせることで特務となり、本領を発揮する。それが古来からの定めでしょう」
八弔は畳み掛ける。
「あなた、虹は混ざれば漆黒となる。あの子(蓮)を漆黒に染める気でしょ?」
「それがどうした?」
「やめてあげて。あの子には耐えられない、無理よ」
「それはダメだ。四つ星蓮は漆黒になる必要がある。あれは、俺たちの懐刀なんだ」
八弔の瞳に、強い意志が宿る。
「お前、まさか蓮に惚れてるんじゃないだろうな?あの容姿は完璧すぎるくらい美しい。かっこいい一面もあれば、可愛い一面もある。お前の好みじゃないか」
彩花の目つきが、一瞬で凍るような冷たさに変わった。
「八弔!」
「.....はい」
八弔は瞬時に背筋を正し、返事をする。
「貴方のオーラは漆黒。今は抑えられても、一つの目的だけに突き進み、見えない世界に行きすぎると自分を失うことになるのよ。あなた、何がしたいの?」
彩花は静かに問い詰める。
「姉さんは甘い。今の世界情勢を見れば、もう戦争は始まっている。実際、すでに我々の領土がラテネ国に奪われている。次は北海道だ。だが、ルミネス国の戦力ではすぐに敗戦する。だから、我々が漆黒の刃となり、蹂躙する敵兵すべてを殲滅する必要がある。漆黒は誰にも止められない最強のオーラだ」
「あきれたわ」
彩花は静かに顔を逸らした。
「では、帰らせてもらう。今後、四つ星蓮には決して手を出さないでいただきたい」
八弔はそう言い残し、白狐本部を後にした。
彩花は呪術で先程の蓮の姿を映像化し、その場で見つめる。
「あの子は.....本当の愛を知らない。それは、心が空っぽだということ。きっと、ずっと辛い人生だったのでしょう。かわいそうに。.....その空白を、ただの武器として、漆黒の器として利用しようとする八弔は、哀れなまでにどうかしてるわ」
彩花は、ただ一言、小さく呟いた。




