沈む夜
真夜中の廃ダムは、耳に残るほど静かだった。
風も止み、満水の面は一枚の黒い板のように硬い。岸の柵には、誰が書いたのか「立入禁止」の赤い文字が、錆に沈んでいる。スマホのライトを当てると、水際だけがぬらりと光って、底に沈んだ旧集落の屋根の影が、かすかに浮かんだ。
「出たらウケるのにな」
カズが笑って小石を拾い上げた。
ミサキは少し離れて腕を組み、動画の録画を始めている。リョウは煙草に火を点けようとして、私が無言で止めた。
ここはSNSで有名な心霊スポットだ。『水底参り』という儀式の噂は、ネットの心霊スポットまとめサイトに載っていた。
──ダムの手すりに三つ石を並べて一つずつ水面に落とし、「お返しします」と唱える。笑ってはいけない。数を間違えてはいけない。
そうすると“誰か”が現れる、と書いてあった。
「数、間違えると怒るんだっけ?」
「やったら?」とミサキが囁く。
カズは悪い笑いを浮かべ、小石をポケットごと掴んで、水面へ雨のようにばらまいた。ぱちぱち、ぱちぱち……闇の板に白い泡が散っていく。
「返しすぎ!」とミサキが吹き出す。
笑い声が、黒い水に丸ごと吸い込まれる音がした。
私は柵の根元に、古びた何かが吊られているのに気づいた。赤黒く変色した布袋の小さなお守りだ。紐が擦り切れ、今にも落ちそうになっている。
触るな、と頭の奥で誰かが言ったが、指は勝手に動いた。私はお守りの紐をつまみ上げ、水面に向かって放った。
布袋は弧を描き、音もなく水に呑まれた。
次の瞬間、気温が一段階下がった。
風もないのに、背中から首に冷たいものが這い上がる。
耳の奥で、水の底から響くような、平たい声がした。
「……足りない」
「……返せ」
カズが「今の聞いた?」と半笑いのまま固まった。ミサキが録画を止め、リョウが慌てて煙草をしまう。誰も何も言わない。言えない。
やがて、遠くで犬の遠吠えがして、私たちは逃げるように車へ戻った。
⸻
翌日から、奇妙なことが立て続けに起きた。
カズはグループチャットに、蛇口の写真を上げてきた。銀色の口から、細い水がずっと垂れている。止水栓を閉めても止まらない、と。
《音がやばい 寝られん》
夜に通話が来た。背後でずっと水の音がしている。カズが笑って言う。
「なあ、風呂の栓抜いてんのに、湯船が勝手に満ちてくるんよ。動画送るわ」
数分後、再び電話。笑い声が混じる。
「ヤベ、足、掴まれ──」
切れた。以降、既読は付くのに返信はなかった。
ミサキは、撮った動画がすべて壊れていると泣きのスタンプを送ってきた。サムネイルは真っ黒で、再生すると水面だけがちらちら光る。音声は泡のはじける音、そして──
《……たりない》
《……かえせ》
それだけ。
翌朝、ミサキの家の玄関先に、濡れた裸足の足跡が並んでいたという。彼女のSNSはその日を境に更新が止まった。
リョウは、意味のわからない短文を一日に何度も送ってきた。
《電源おちる》
《画面に水》
《うしろ》
最後のひとことは《うしろみるな》だった。
残ったのは私ひとりになった。
台所で、蛇口の下に置いたコップの内側に、じわじわと水が溜まっていく。
水道は閉めてあるのに、まるでコップの中だけが雨に濡れているようだった。
夜、洗面台の鏡を覗くと、私の肩越しに、誰かの頭が半分映った。濡れた髪が、床に水のしずくを落としている。振り向くと誰もいない。
耳の奥で、声がした。
「……次は、お前」
眠れば、夢の中で湖面が私の顔を映した。
顔はゆらぎ、知らない誰かに入れ替わる。目を開けると、枕が湿っていた。喉の奥に、冷たい匂いが残った。
⸻
私は再び廃ダムに来た。ひとりで。
あの夜よりも水は重たく、黒は濃かった。柵の錆は湿り、足元の土は踏むたびに音を飲み込む。
手すりに三つ、石を並べる。深呼吸して、ひとつずつ落とす。
「お返しします」
ぽちょん。
「お返しします」
ぽちょん。
「お返しします」
ぽちょん。
水面に波紋がいくつも重なり、その中心が暗く開いた。
私は紙袋から買ってきた新しいお守りを取り出す。投げ捨てたものと同じ神社のだ。
「ごめんなさい。これで、──」
水が光った。
浮かんできたのは、新しい方ではない。あの夜、私が投げた、赤黒く変色したお守りだった。濡れた布袋が、月のない夜でもわかるほど赤く見えた。
そして、私の足首をひやりと掴む手。もう片方も。もう片方も。
指は細いのに強い。ぬめりがあって、氷みたいに冷たい。
「……足りない」
私は膝をつき、柵にしがみついた。声が出ない。喉の奥に冷たい水が流れ込んで、肺が縮む。
湖面が膨らみ、黒い膜を破って、人の顔がいくつも浮かぶ。カズ。ミサキ。リョウ。
彼らはまっすぐ私を見て、口を開いた。
泡が溢れて、言葉は聞こえない。ただ、口の形だけがはっきりわかった。
──返せ。
私はお守りを握り直し、力任せに叩きつけた。
水は跳ねない。まるで厚いゼラチンを叩いたみたいに表面だけがぶよりと揺れて、すぐに固まる。
足首の手は増えるばかりだ。太股。腰。背中。肋骨の隙間にまで、冷たい指が差し込まれていく錯覚。
私の内側が、水で満たされる。
「返す、返すから……!」
どこに向けて言っているのかわからなかった。
耳元で、あの平たい声が囁いた。
「……笑った」
全身から力が抜けた。
あの夜、笑った。
その事実が、背骨の中で音を立てる。
私の指から、柵がすべり落ちる。視界が傾く。黒い板が、口を開けて近づく。
⸻
──気がつくと、私は岸に倒れていた。
夜は終わり、湖面は朝日を受けて鈍く光っている。
仲間たちの姿はどこにもなかった……はずだった。
視線を落とすと、水面のすぐ下に三つの人影があった。
それはカズ、ミサキ、リョウだった。
全員が必死に水面へ手を伸ばしている。
しかし、下から無数の白い手が足や胴、首にまで絡みつき、容赦なく引きずり込んでいく。
口は大きく開かれ、泡と共に悲鳴がもれ、目は私を真っ直ぐに見ている。
その視線が、次第に水底の闇に溶けていった。
最後に残った波紋が消えると、足元の土がじわじわと湿っていく。
耳の奥で、かすかな声がした。
「……また、水の底で」
私は震える足でその場を離れた。
それから私は、あの廃ダムには二度と近づいていない。
──少なくとも、自分の意志では。
夜、台所のコップの内側にだけ雨が降り、朝、玄関に濡れた足跡が並ぶことがある。
振り返ると、いつも誰もいない。
ただ、耳の奥で水音がするときだけ、冷たく笑う気配がする。
あの黒い板の上で、まだ誰かが私を待っている。
──また、水の底で。