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甘粕正彦の最期

作者: たるたる

新京の満洲映画協会本社ビルは、夜の闇に沈む

1945年8月、ソ連軍の降下部隊が迫る中、ビルの最上階にある甘粕正彦の執務室は静寂に包まれていた


机の上には散乱した書類と、埃をかぶったフィルム缶 窓の外では、遠くで爆音が響き、赤い閃光が空を裂く

甘粕は一人、革張りの椅子に座り、掌に握った小さなガラス瓶をじっと見つめる

ラベルに書かれた文字は「青酸カリ」

そのガラスの冷たい感触が、彼の心を奇妙に落ち着かせた


彼の脳裏に、突如としてあの事件が蘇る

1923年、関東大震災の混乱の中、甘粕事件

あの時、部下が誤って殺した子供の顔

血に濡れた小さな体と、恐怖に凍りついた瞳

甘粕は目を閉じる。あの子供の死は、彼の手には直接関係なかった

だが、責任は彼にあった

「本来なら、俺は死刑になるべきだった」と、胸の奥で囁く声が響く。憲兵隊の隊長として、権力を振るった若かりし日の自分 無垢な命を奪った罪は、どれだけ時が流れても消えなかった


満州に渡ったのは、その罪を背負いながらの逃避だったのかもしれない

岸信介に依頼され、満洲映画協会の総裁に就任した

表向きは文化面から「五族協和」の理想を掲げたユートピア満州国を広め、中国人による中国人のための映画として、中国人の誇りを高める事を担う会社だっ

だが、最初から甘粕は知っていた。それは日本の支配を正当化するための道具に過ぎない 

中国人の誇りを高める? 笑いものだ すべては日本の国策、アヘンで成り立つディストピア、満洲国の幻想を支えるための舞台装置だった


ふと、机の上のフィルム缶に目が留まる

「白蘭の歌」

満映の代表作の一つ、そして満映の初めてのヒット作

気まぐれに缶を開け、フィルムを手に取った。

古びたセルロイドの匂いが鼻をつく。

フィルムの中の李香蘭の美しい顔が目に止まる

彼女は戦争や我々には関係ない、才能がある子だから生き延びて、また役者として活躍してほしい…という彼らしくもないセンチな感情がふっと脳裏によぎる

窓から差し込む月光の下、突然、赤い炎が上がった

自然発火。硝酸フィルムの宿命だ。甘粕は慌てず、ただ静かに炎を見つめた。

まるで自分の人生、そして虚構に満ちたこの国、満州国が燃え尽きるのを示すかのようだった。


彼はガラス瓶を手に取り、蓋を外す。

青酸カリの苦い匂いが漂う。だが、その時、扉が開いた。

満映の社員であり、監督見習いである若い中国人、李が飛び込んできた。

「甘粕総裁! 何をするんです!」

李の目は、甘粕の手にある瓶に釘付けになる

彼は駆け寄り、甘粕の手を掴もうとした。「やめなさい、総裁! あなたは我々を平等に扱ってくれた。我々がソビエトに証言する、こんなことをする必要はない!」


甘粕は微笑んだ。穏やかで、どこか悲しげな笑みだった。

甘粕はこの15年間満州で生きる中で覚えた中国語で李に話す

「平等? 李くん、君は俺を誤解している。俺は君たちを利用しただけだ。満映は、満州は日本の道具なのさ」

彼は李の手を振り払い、部下に命じて力ずくで部屋の外へ押し出させた。

「出て行け。これは俺の最後の仕事だ。」


李が叫びながら遠ざかる中、甘粕は部屋の扉を閉めた。

元々中国の映画は、日本人が作るものじゃない、中国人の手で作られるべきであった

俺が取っておいた満映の亡骸は、そのために使われ、彼のような中国人がそれを監督する。それが道理だ


彼は硯に墨をすり、筆を取った。辞世の句を認める。


大ばくち

身ぐるみ脱いで

すってんてん


下手な句だ、やはりこんな文化事業を任されたのは間違いだったな、と甘粕は苦笑する

甘粕は青酸カリの瓶を手に取り、一気に飲み干した。苦味が喉を焼き、視界が揺れる。彼は椅子に深く沈み込み、目を閉じた。遠くでソ連軍の爆音が近づく中、彼の意識は静かに闇へと溶けていった。

部屋には、燃え尽きたフィルムの灰と、辞世の句が書かれた紙だけが残された。

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