第48話 婚約解消
中村浩はその言葉を聞き、確かにその通りだと納得した。
最初は彼女一人で帰らせ、冷静になってもらおうと考えていた。
だがマスクを取りに階上へ行く途中で、気が変わったのだ。
ほんの少しでもいいから、彼女ともっと一緒にいたかった。
中村浩はこれまでの人生で、これほど強烈に誰かと一緒にいたいと思ったことはなかった。
そのため、最も基本的な問題を見落としてしまった。
高橋奈津美が言ったように、
奈津美名医と中村氏財閥のCEOという組み合わせは確かに目立ちすぎる。
一緒にいれば、簡単に人の注目を集めてしまう。
彼女の奈津美名医としての身分を隠すためにも、安全のためにも、自分が送っていくのは適切ではない……
中村浩は高橋奈津美と一緒にいたい気持ちでいっぱいだったが、彼女の安全を顧みず無理に送り届けようとするほど自己中心的ではなかった。
薄い唇を噛みしめ、残念そうに言った。
「すまない、考えが足りなかった。次の機会に送らせてくれ」
高橋奈津美はさして気に留めず、マスクを受け取って装着すると、中村浩に手を振って言った。
「構わないわ。次のことは次で…本当に帰りますから」
そう言い残すと、中村浩の返答を待たず、医療箱を手に急ぎ足で去っていった。
その場に残された中村浩は、高橋奈津美の姿が見えなくなるまで見送り、やがて苦笑いを浮かべた。
「まるで、俺のそばから逃げるように…」
10分後。
中村浩は薬を調剤し終え、薬局からリビングに戻ってきた。
「お祖父ちゃん、薬は今すぐ煎じてもらう?それとも後で?」
中村正治はゆっくりと手にしていた湯呑みを置き、中村浩の背後を覗き込んだ。
誰もいないのを確認すると、ため息混じりに尋ねた。
「奈津美名医は帰られたのか?」
「ああ」
中村浩は淡々と答えた。
「お祖父ちゃん、薬は今飲む?後で?」
「後でよい」
中村正治は手を振り、複雑な表情で孫を見つめた。
「今は薬を飲む気分ではない」
中村浩は向かい側に腰を下ろした。
「どうしたのです?奈津美名医が診てくれたのに、喜ぶべきでは?」
その言葉に、中村正治はますます胸が詰まる思いがした。
「お前このバカ孫めが!腹が立って薬など飲めるか!」
中村浩:「……」
「お祖父ちゃん、僕が何か?」
中村正治はむっとした目で睨みつけた。
「この目で見たというのに、まだ隠すつもりか?」
中村浩の困惑は深まるばかりだった。
「お祖父ちゃん、何の話ですか?」
中村正治はわざと知らん顔をしていると憤った。
「よせ、わしの前で芝居を打つな」
中村浩は心底困惑していた。
「お祖父ちゃん、はっきりおっしゃってください」
中村正治はまず鼻息荒く「フン」と吐き捨てるように言い、それから続けた。
「わしはお前たちが薬局で長いこと戻らないので、何か手伝えることがあるかと思って様子を見に行ったのだ。そしたらドアを開けた途端、お前たちが抱き合いながら睦まじくしているのを見てしまった……」
話せば話すむしろ胸が苦しくなり、最後には開き直ったような口調になった。
「もし本気で奈津美名医と添い遂げたいのなら、正直に言いなさい。わしが直接柴田家に行って婚約を解消し、あの子に詫びを入れよう!」
そもそも、中村浩が柴田家を訪れた時は婚約破棄を望んでいた。その後、一年の約束で無理やり二人を繋ぎ止めたのは自分だった。
今さら婚約を解消しようものなら、柴田家は中村家が彼らを弄んだと思うに違いない。
確かに、自分も面目を失うことになる。
だが、高橋奈津美を騙し続け、中村浩と奈津美名医の関係を隠し通すよりは、潔く事を明らかにする方がましだ。
問題さえ解決できれば、多少の恥は我慢しよう……
何もせず、後日柴田家が中村浩と奈津美名医の関係に気づいた時には、もっと深刻な事態になるだろう。
中村浩はそれを聞き、慌てて制止した。
「お祖父ちゃん、この婚約は解消できません」
そう言ってから、言葉の重みが足りないと思ったのか、さらに力強く続けた。
「絶対に、解消してはいけません!」
中村正治は予想外の反応に、孫の本心が測りかねた。
「お前は以前、この婚約に強く反対していたではないか。それに今は奈津美名医とあんな関係なのに、婚約を解消しないでどうするつもりだ?それとも、両方と付き合う気か?」
中村浩は高橋奈津美の正体を明かそうかと思った。
だが、彼女に秘密を守ると約束したことを思い出し、言葉を飲み込んだ。
「とにかく、婚約を解消しないでください。この件には干渉せず、静かに療養していてください。僕のことは僕で処理します」
中村正治は曖昧な返答に、眉間に深い皺を刻んだ。
「浩!正直に言いなさい。本当に両天秤をかけるつもりなのか?もしそうなら、今すぐその考えを捨てろ。我が中村家の家訓は、一生一人に誠実であることだ。そんなふらふらした真似は許さん。もしお前がそれを貫くなら、家法で処すしかない!」
「お祖父ちゃん……」
中村浩は心底困り果てた。
「僕がそんな軽薄で、浮気性の人間だとでも?」
以前なら、中村正治は孫の人柄を百も承知で信頼しただろう。
だが、この目で孫が奈津美名医と睦まじくする姿を見てしまった上、柴田家への婚約解消を拒むとは。
どう見ても二股かけているようにしか思えず、疑うのも無理はない。
「浩、祖父に本当のことを話してくれ。お前は高橋奈津美が嫌いだが――」
しかし、話の途中で中村浩に遮られた。
「誰が高橋奈津美が嫌いだと言いました?僕は彼女のことが大好きです。彼女以外は要りません。だからお祖父ちゃん、柴田家に婚約解消など持ち出さないでください。もし本当に解消したら、僕の幸せを台無しにすることになります」
以前なら、この心からの言葉に中村正治は喜んだだろう。だが今聞いても、ただ胸が苦しくなるばかりだった。
「高橋奈津美が好きだと言いながら、奈津美名医とあんなことに?これで二股ではないと言うのか?浩、はっきりさせてくれ。祖父も心の準備ができる。でないと、何かあった時にこの心臓が持たん」
「お祖父ちゃん、心配しすぎです。何も起こりませんよ」
中村浩は安心させるように微笑み、ふと思い出したように口元を緩めた。
「曾孫の顔を見られるよう、長生きしてください」




