第38話 つまらない人
「塗ったぞ。帰ったら水に濡らすな。傷が化膿する」
中村浩は綿棒をゴミ袋に捨て、ゆっくりと軟膏の蓋を閉じ、救急箱に戻した。
ちらりと見やれば、少女の頬はまだ紅潮したまま。彼の唇端に、かすかな笑みが浮かぶ。
知り合ってからというもの、この女の子は常に冷静沈着で、何事にも動じない印象だった。
こんなに取り乱した様子を見せるのは初めてだ。
だが、この姿の方が彼女らしいと思った。
十八歳なら、きっと生き生きとして、はつらつとしているはず。
淀んだ水のように、何ものも感情を揺さぶらないような人間であってはならない。
しかし高橋奈津美の動揺は長くは続かなかった。
熱い頬を手でパタパタと叩き、少し冷めてから中村浩に向き直り、笑みを浮かべて言った。
「中村浩、気づいちゃったんだけど……」
わざと途中で止めて、相手をじらすような口ぶりだ。
知らず知らずのうちに引っかかった中村浩は、つい聞き返してしまった。
「何だ?」
高橋奈津美はゆっくりとまばたきをした。
「当ててみて」
ようやく我に返った中村浩は、彼女の罠に乗る気はない。
「当てない。言いたければ言えばいい。無理に聞き出したりはせん」
「つまんない人」と高橋奈津美は唇を尖らせた。
中村浩にはわかっていた。先ほどの一件で、少女の心の距離がぐっと近づいたことが。
別に悪い気はしない。特に支障もないので、止めるつもりもなかった。
「ああ、よく言われるよ。お前が初めてじゃない」
彼の世界には、仕事以外に趣味と呼べるものはなかった。
友人も、祖父も、よく「つまらない男」と言っていた。
高橋奈津美にそう思われるのも、当然のことだろう。
「冗談よ。本当につまらないなんて思ってない」
予想外の返答に、高橋奈津美は自分が傷つけるようなことを言ってしまったかと少し後悔した。
普通、人から「つまらない」と言われるのを喜ぶ人間なんていないのだから。
「構わん」
中村浩は笑った。
「言っただろう。お前が初めてじゃない。だから気にしてない」
高橋奈津美は目前の中村浩の顔をじっと見つめ、突然口を開いた。
「だって本当はね、つまらないどころか、とっても面白い人だと思ってるから」
彼が面白い?
「それは新鮮な意見だ」
中村浩は眉を上げ、面白そうに目の前の少女を見つめた。
「では、具体的にどこが面白いのか説明してもらおうか」
高橋奈津美は2秒考え込んでから口を開いた。
「えっと…『面白い』って表現は適切じゃないかも。ただ、浩さんの外見と中身が違うって思ったの。表向きは冷たい人なのに、実際はお婆さんを助けたり、私の傷の手当てをしてくれたり…そういうところから、『外面は冷たいけど心は温かい人』なんだなって。世間の噂は誤解で、私から見たら、あなたはとても良い人だと思う」
中村浩は口元を緩めたが、目元の笑みは浅かった。
「私は世間が言う通りの人間だ。『外面は冷たいけど心は温かい』なんてことはない。良い人だと思うのは、君の錯覚に過ぎん」
高橋奈津美は彼の気分が変わったのを感じ取った。
自分が何かまずいことを言ったのだろうか?
もしかしたら、あまり親しくもないのに「良い人」などと評価するのが、失礼だと感じたのかもしれない。
あるいは、自分が好意を持っていると誤解されたのか?
唇を軽く噛み、体を少し後ろに引いて距離を取った。
「はいはい、あなたがそう言うなら、そうなのでしょう」
中村浩は彼女の動作を見て、微かに眉をひそめた。
しかし何も言わず、窓の外の景色に目をやった。
一瞬にして車内は静寂に包まれ、先ほどの和やかな雰囲気は幻のようだった。
高橋奈津美はこの日の疲れがどっと出た。車の揺れと、隣から漂うわずかなオードトワレの香りが、まるで催眠術のように作用して、まぶたが重くなっていく。
やがて完全に目を閉じ、窓にもたれかかるようにして眠りに落ちた
マイバッハの車内は広かった。
高橋奈津美の体は車の揺れに合わせて、ゆっくりと、ゆっくりと座席を滑り落ちていった。
やがて彼女はまるで子猫のように座席の大半を占めるほどに丸くなり、ぐっすりと眠り込んでいた。
中村浩はその様子を静かに見守る。
少女が小さく丸まって眠る姿に、彼の瞳には知らぬ間に穏やかな色が浮かんでいた。
なぜかわからない。ただ彼女の寝顔を見ているだけで、これまでにない心の平穏を感じた。
こんな感情は今まで一度もなかった。
この均衡を破りたくない――
このままの状態が続けばいい。
そう思った瞬間、眠る高橋奈津美が寒さに震えるように、小さく身を縮めた。
中村浩はダッシュボードの温度表示を見上げる。
26度。
特別低いわけではない。
暑い季節なので、これ以上上げれば車内が耐えられなくなる。
だが彼女をこのまま寒がらせるわけにもいかない。
風邪を引かせれば、柴田崇に申し訳が立たない。
視線を巡らせ、以前のイベントで持ち帰り忘れたスーツの上着に目が止まった。
手を伸ばして上着を取り、震える高橋奈津美の体にかけた。
上着の温もりで、彼女の震えは止まり、わずかに皺よっていた眉間も緩んだ。
しかし中村浩はすぐに離れず、陶器のように白い彼女の顔をじっと見つめていた。
近づいた瞬間、彼女の体からかすかな薬の香りが漂ってきたのだ。
その香りは心地よく、とても特徴的だった。
一瞬で記憶に刻まれるような芳香だ。
何より重要なのは、この香りがかつて自分が負傷した時、命を救ってくれたあの少女のものと酷似していることだった。
数十秒の間に、中村浩の胸中には千々の思いが駆け巡った。
だが確たる証拠がない以上、彼は静かにスーツの裾を整えると、何事もなかったように視線を外した。
どうやら、あることがもうちょっと確認すべきそうだ。
二日後――
奈津美名医が柴田家を診察に訪れる日がやってきた。
早朝から、柴田家の面々は居間に集まり、ソファに座っては首を伸ばし、玄関先を今か今かと待ちわびていた。
この日、中村浩も訪れていた。彼は静かに周囲を見回し、ふと何かに気付いたように眉をひそめ、傍らにいる柴田崇に尋ねた。
「奈津美は?」
その声に柴田家の人々は一斉にこちらを見やった。
特に柴田正美の視線が鋭かった。
(浩お兄さんがどうしてあの野生児の奈津美を気にかけるの?)
(こんなに目の前に私がいるのに、見えてないのかしら?)




