第36話 中村浩の疑い
高橋奈津美は急いでおばあさんの倒れかかる体を支えた。
「おばあちゃん、大丈夫ですか?」
おばあさんは体勢を整えると、足に走る鋭い痛みに顔をしかめ、苦渋の笑みを浮かべた。
「泥棒を追いかけてた時は気づかなかったんですが、どうやら足をくじいてしまったようです」
高橋奈津美が視線を落とすと、おばあさんの足首がわずかに腫れ上がっているのが見えた。
「骨折の可能性がありますね。まず座れる場所を探して、診させていただきます」
先ほどの勇気ある行動のおかげで、おばあさんは高橋奈津美を全面的に信頼しており、何の疑問も抱かずに指示に従った。医術の心得があるかどうかも尋ねずに。
しかし中村浩だけはその点に気づいていた。
彼の深淵のような瞳は、高橋奈津美を探るように見つめていた。
高橋奈津美は中村浩の視線に気づかず、おばあさんを近くのベンチに座らせると、慎重に傷の状態を観察し始めた。
約十数秒後、診察を終えた高橋奈津美は顔を上げ、穏やかな声でおばあさんに語りかけた。
「足首の骨がずれていますね。これから整骨します。少し痛みますが、頑張ってください」
高橋奈津美は優しく告げた。
おばあさんは笑みを浮かべて手を振った。
「大丈夫よ、この年になればどんな痛みも味わってきたから。遠慮なくやってください」
高橋奈津美は腫れた足首にそっと触れた。
「ここは痛みますか?」
「い、少し…」おばあさんは痛そうに顔を歪めた。
高橋奈津美は頷きながら、他の部分を確認しつつ会話を続けた。
「先ほどお聞きしましたが、このお金はご主人の治療費なんですね。きっと大変な思いをされてきたのでしょう」
その言葉に、おばあさんの目に涙が浮かんだ。
「ええ…主人は脳梗塞と肝硬変を患って、最近はベッドから起き上がることもできず…医者からは回復の見込みが薄いと言われていますが、一日でも長く生きていてほしくて…」
おばあさんが話している最中、高橋奈津美はさりげなく手を動かしていた。
「ぎゅっ!」
「あっ!」
おばあさんの声が途切れた。気づけば、いつの間にか骨は正しい位置に戻っていた。
おばあさんが驚いたように見上げると、高橋奈津美は優しく微笑んだ。
「もう大丈夫ですよ。立って歩いてみてください」
おばあさんはベンチから立ち上がり、慎重に一歩、また一歩と歩いてみた。
「あら!本当に痛くない!お嬢さん、あなたは魔法使いね!こんなに簡単に治してくれるなんて」
高橋奈津美は淡々と答えた。「ただ骨を正しただけです。お大事になさってください。ご主人様が待っていらっしゃいますよ」
おばあさんははっとしたように手を叩いた。
「そうだった!主人に食事を届けなきゃ!お嬢さん、本当にありがとう!」
高橋奈津美は手を振りながら見送った。「どういたしまして。お気をつけて」
おばあさんが去った後、ふと視線を上げると、中村浩の深い瞳が自分を見つめていた。
「…私の顔に何か付いてますか?」
中村浩は彼女の白磁のような顔を見つめ、先ほどの熟練した整骨の手さばきを思い返していた。
「君医者だったかい?」
外界で高橋奈津美について囁かれる評価とはかけ離れたこの光景。初対面時の彼女の振る舞いも思い出され、疑念が湧いてきた。
高橋奈津美はその探究心に満ちた視線を読み取り、軽く目を伏せてから平静に答えた。
「医者なんて…ただ本で読んだ整骨法を試しただけです。運よく成功したみたいで」
中村浩の晦渋な視線は依然として彼女から離れない。
「そうか?」
明らかに信じていない様子だったが、高橋奈津美の表情には微動だにしなかった。
「事実は私が言った通りよ。信じないなら仕方ないけど…」
高橋奈津美は少し困ったように笑った。「実はあのおばあちゃんを治療する時、内心すごく不安だったの。でも病院に行くお金もないだろうし、悪化するのが心配で…本で読んだ方法を試してみただけ。運よく成功してよかった」
そう言いながら、彼女は誇らしげに顎を上げた。
「複雑な手法なのに一回で成功しちゃった。私、医学の才能あるかも?将来はこの道に進んでみようかな」
中村浩は彼女の表情を鋭く観察していた。しかし高橋奈津美の顔からは何の嘘も見て取れない。
むしろ、初めてで成功したという純粋な喜びがにじみ出ていた。
(もしかしたら…本当にまぐれ当たりだったのか)
中村浩は眉間を押さえ、頭の中を整理した。
「善行は結構だが、次からは確信のないことはするな」
彼は冷静に諭すように言った。「取り返しのつかない結果を招くかもしれない」
高橋奈津美は素直に頷いた。「そうね、今回は本当に運が良かっただけ。次からはやめておくわ」
その瞬間、彼女の手首に温かな感触が伝わった。
見下ろすと、中村浩がなぜか彼女の手首を掴んでいた。
「あ…何してるの?」
男性の高い体温に、高橋奈津美は思わず身を引いた。腕を引っ込めようとするが、彼の掌からは簡単に逃れられない。




