第11話 婚約解消
しかし柴田正美はわずか一歩踏み出しただけで、自分を強引に抑え込み、足を止めるのを余儀なくされた。
このような場では、高橋奈津美に対して何もできないこと、警告の言葉すら口にできないことを理解していた。
そこで最後に、彼女は手のひらを強くつねり、目を伏せて感情を落ち着かせた。この怒りを抑え込むのに、非常に大きな力を必要とした。
その時、階段を上りかけていた柴田崇が降りてきて、中村浩の前に立ち、まだ蒼白さの残る整った顔を見て、思わず目に憂いを浮かべた。
「浩、怪我をしているんじゃないか?どうしてわざわざ来たんだ?」
柴田正美も先ほどから中村浩の顔色が優れないことに気づいていた。心配の言葉をかけようとしたが、彼が自分を無視して通り過ぎてしまった。
今、柴田崇が中村浩の負傷について言及するのを聞き、彼女は急に緊張した。さっき無視されたことも気にせず、すぐに中村浩の側へ駆け寄り、心配そうに尋ねた。
「浩お兄さん、どうして怪我をなさったの?大丈夫?座られた方がいいですよ。悪化させたら大変です」
しかし中村浩は、彼女の言葉が聞こえていないかのように、振り返りもせず柴田崇と話し続けた。
「婚約解消の件で、直接うちの年長者と話せと言ったのは中村だろう?」
柴田崇は思わず口元を痙攣させた。
「そうは言ったが、そんなに急ぐ必要があったか?それに中村の負傷部位はデリケートな場所だ。無理に動き回って周囲に感染でも広がったら、後々子孫を残すのに支障が出たらどうするつもりだ?」
中村浩はその言葉に、柴田崇を白けた目で見た。まるで馬鹿を見るような視線だった。
一方、柴田正美は「婚約解消」という言葉を聞くや、顔色が一変した。
唇を噛みしめ、中村浩を見上げると、次第に目に涙を浮かべ、言いようのない悔しさに包まれた。
「浩お兄さん……どうして突然婚約を解消なさるのですか?私のどこかが気に入らなかったのでしょうか?もし……私に至らない点がありましたら、どうぞ教えてください。直せる所は全て直しますから、必ず兄様が満足されるようにします」
ようやく中村浩は彼女の方に視線を向けたが、口にした言葉は彼女の望むものではなかった。
「この件は中村に関係あるのか?」
柴田正美は中村浩の冷たい声を聞き、目の縁がぱっと赤くなり、涙が目に溢れんばかりに揺れた。今にもこぼれ落ちそうだった。
「浩お兄さん、どうして――」
言葉を続けようとしたその時、中村浩がふと顔を上げ、階上の高橋奈津美のいる方向を見やるのが目に入った。
その瞬間、柴田正美は喉を締めつけられたように、微かな声さえ出せなくなった。指の爪が掌に食い込んでいることさえ、もはや感じられなかった。
つまり……
浩お兄さんが言うには、この件は自分とは無関係だというのか? だとすれば、高橋奈津美が関係しているということ?
そして高橋奈津美こそが柴田家の真実のお嬢様だということは、自分は浩お兄さんに好かれることもできず、ましてや婚約を解消される資格さえないということか!
柴田正美は考えるほどに腹が立ち、顔を真っ赤に染めた。
それなのに、どうすることもできず……ただ耐えるしかなかった。
しかし当の高橋奈津美は、柴田正美よりもずっと冷静な様子だった。
中村浩が婚約解消を告げ、冷たい視線を向けてきた時、高橋奈津美は特に感情を動かすこともなく、淡々とそれを受け止めた。表情に波風立たず、まるで他人事のような平静さを保っている。
その様子に気づいた中村浩は細い目をさらに細め、高橋奈津美を見る冷たい視線に幾分かの探るような色を加えた。
目の前の少女は、薄いベールに包まれているようだった。
見通せず、読み取れない……
柴田正美は中村浩と高橋奈津美が見つめ合う様子を見ていた。二人の周りには、何とも言えない磁場が漂っているようで、そこに割って入る余地などない。
なぜか、その光景は彼女の胸に漠然とした不安を掻き立てた。
あたりを見回し、ふと視界に入った柴田了の姿に、まるで拠り所を見つけたかのように、涙を拭いながら、大きな屈辱を受けたかのようにすすり泣きつつ柴田了の方へ歩き寄った
「おじいさん……」
たった一声呼びかけただけで、そこには千言万語が込められているようだった。
柴田了は心痛そうに、彼女を慰めるような眼差しを向けた。
「心配するな、いい子だ、泣かなくていい。おじいさまがちゃんと取り計らってやるから」
柴田正美はその言葉を聞くと、鼻をすすりながら何とか涙を止めた。
「ありがとうございます、おじいさま」
柴田了はまず彼女に安心させるような視線を送り、それから顔を上げて中村浩を見ると、老いた顔がぴんと張りつめた。
「正美との婚約は、わしと中村の祖父が決めたことだ。解消したいなら、中村一人の判断ではどうにもならん。祖父を連れてきて、直接わしと話させろ!」
威阿部ある柴田了に対し、中村浩の気圧は少しも衰えなかった。
「先ほども言った通り、これは柴田正美とは無関係だ。私が解消したい婚約の相手は彼女ではない」そう言うと、彼はきっぱりと顔をそらし、視線を高橋奈津美に注いだ。
柴田了は高橋奈津美の顔など見たくもないといった様子で、ちらりと一瞥しただけで視線を逸らし、むっつりと言った。
「あれはただの野良娘だ。資格などない!」
中村浩の声は淡々としていた。
「いずれにせよ、彼女こそが柴田家の正統な血を引いている。この婚約は当初、柴田家の者と結んだもの。私は柴田家の正真正銘のお嬢様しか認めない」
柴田了は中村浩の言葉を聞き、老いた顔が徐々に曇り、ついには雷雲が立ち込めたような険しい表情になった。
柴田正美の顔色も同様に冴えなかった。
中村浩の言葉は耳障りではあったが、事実でもあり、彼らには反論の余地がなかった。
一瞬、誰も言葉を発せず、空気が張り詰めた。
その時、突然入口の方から爽やかな声が響いた。
「賑やかだな。ちょうど良い時に来たようだ」
声の主を見やると、中国服を着た、どこか仙人のような風貌の老人が、力強い足取りで近づいてくるのが見えた。
その人物こそ、中村浩の祖父――中村正治であった。
柴田了は彼を見るなり、即座に鼻で嘲るように「哼」と吐き捨てた。
「ああ、ちょうど良い時に来たな。お前の自慢の孫が、どんなでたらめをしでかしたか、しっかり見ておけ!」
しかし中村正治は質問を無視して言った。「ご長男の娘を迎えに行ったんだろう?その子はどこだ?」
「お前――」
柴田了は中村正治の話題そらしに腹を立てたが、多くの子孫たちの前では感情を爆発させるわけにもいかない。
そこで冷たい声で高橋奈津美の方向を指差した。
「あそこだ!」
指差すとすぐに視線を逸らし、わざとらしく顔を背けた。明らかにこれ以上高橋奈津美を見る気はないようだった。
中村正治は柴田了の視線の先を見た。
高橋奈津美の姿を目にした時、彼の表情には何とも言えない複雑な感情が浮かんだ。
「中村が柴田家の長男の、最近見つかった娘か?名前は何という?」