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98 柏原パン

「1年3組の柏原先生って知ってる?」


 終わりの会が始まってすぐ、智子は生徒たちに聞いた。


「知ってます。私たちが3年生の時の3組の担任でした」

「あーそうか。受け持ってもらったやつもいるんだな」

「柏原先生がどうかしたんですか?」

「出産するから1学期をもって産休に入ることになった。出産後も育児休暇に入る

はずだから、復職するのはお前たちの卒業後になるな」


 一部の生徒から、「えー」という声が上がった。

 柏原琴美はおっとりとした性格で、いつもにこやかな表情をしており、生徒たち

からも人気のある教師であった。


「琴美ちゃんともう会えないの?」

「琴美ちゃん?」

「柏原琴美先生だから琴美ちゃん」


 智子はこの時初めて自分以外にも名前で呼ばれている教師がこの学校に存在する

ことを知った。


「妊娠してるってことは、柏原先生のおなか大きくなってるってこと?」

「もう30週過ぎてるから、とっくに大きくなってるぞ」

「えー、気が付かなかった。琴美ちゃんって普段から身体大きいしなあ」

「おい、そういうことは冗談でも言うなよ。柏原先生はその程度で怒ったりはしな

いだろうけど、失礼だからな」

「本人が、『私は普段着でマタニティウェアを着てる』って冗談で言ってたけど、

それでも駄目ですか?」

「自分で言うのはいいけど、他人が言うのは駄目だ」


 駿は納得がいかないという顔をする。


「それと、柏原先生が普段からマタニティウェアを着てるっていうのは冗談ではな

く事実だ」

「え……そうなの?」

「そうだ。着替えの時に柏原先生の服を褒めたら、ブランドを教えてくれた。スマ

ホで調べたら、マタニティ専門だった」

「ということは琴美ちゃん、妊娠しても同じ服なんだ……」


 涼香は、「そんなことあるんだあ」という顔をして言った。


「同じなのは服だけじゃないぞ」

「服以外って、なにが?」

「これは本人から聞いたんだが、柏原先生にはつわりが一切なかったらしい」

「つわりって吐いたりするやつでしょ?」

「そうだ。吐き気、嘔吐、食欲不振。これらが柏原先生には一切なかったらしい」

「そんな人いるの?」

「少数派だが、いるにはいる。柏原先生によると、『つわりを食欲が上回った』の

だそうだ」

「そんなことあるんですか!?」

「冗談だぞ。琴美ちゃんジョークだ」


 柏原は普段から冗談をよく言う明るい性格の人間であった。



「それはさておき、こういう場合なにを言うべきか、みんなは知ってるか?」

「こういう場合?」

「知り合いが妊娠して出産間近になった場合だよ。話聞いてなかったのかよ」

「ともちゃん先生の話ってすぐに飛ぶからよく分からないんだよ」

「どこが飛んだんだよ! 一貫して柏原先生の出産の話をしてただろうが!」

「琴美ちゃんジョークとか言ってたじゃん……」

「それも出産周りの話だろうが。柏原先生はな、給食後、毎日職員室で菓子パンを

頬張るんだぞ! 生徒が掃除してる間、毎日クリームパンとチョココロネを美味し

そうに頬張ってるんだぞ!」

「それこそ出産と関係ないじゃん」


 智子のもたらす柏原のプチ情報に、蓮は興味のない顔をした。 


「毎日毎日、必ずクリームパンとチョココロネだからな。『いろいろ試したけど結

局これに戻ってくるのよねえ』って年に3回、誰も聞いてもないのに言ってくるん

だぞ」

「それに対して、ともちゃん先生はなんて返すんですか?」

「最初の頃は、『そうなんですかあ、甘いのがお好きなんですねえ』って言ってた

けど、最近は周りの先生も面倒臭くなって、全員聞こえてないふりをしてる。だか

ら柏原先生は年に3回、甘いパンについて独り言を呟く人だ」

「呟く人だって言われても……」


 蓮は困惑した。


「多分柏原先生、出産日もその前日もその翌日もクリームパンとチョココロネ食っ

てるぞ」

「食ってるぞって言われても知りませんけど、だとしても別にいいじゃないですか

パン好きの妊婦さんですよ」

「じゃあ生まれてきた子に、『柏原パン』って名付けたら、お前どうする?」

「チンパンジーみたいな名前だなって思います」

「あっ、ほんとだ。チンパンジーのパンくんだ。あとで柏原先生に教えてあげよ」

「教えなくてもいいですよ。どうせそんな名前になんかしませんし」


 いいこと閃いたという顔の智子に、蓮は冷静に対処した。


「で、先生が妊娠したら俺たちはなんて言えばいいんですか」

「あっ、そうだった。その話だ。パンの話なんかどうだっていいんだ」


 智子は本来の目的を思い出し、改めて生徒たちを見渡す。


「知り合いの女性が妊娠したらこう言うんだ、『お体に気を付けて、安産をお祈り

しております』ってな」 

「なんか、ドラマみたいで恥ずかしくない?」

 

 駿は笑いながら言った。

 他の生徒たちも概ね同じような反応だ。


「現実に即した脚本を脚本家が書いてるってことだろ? いいじゃんか、それで」

「なんか恥ずかしいんですけど……」

「そう思うだろ? でも言ってみたら意外と言えるもんだぞ。騙されたと思って、

照れずに言ってみろ」


 智子は生徒たちに命令をした。


「ちなみにそれ、ともちゃん先生はもう琴美ちゃんに言ったんですか?」

「私は言わないぞ」

「なんでですか?」

「だって恥ずかしいもん、そんなドラマみたいな台詞」

「えー……」



 生徒たちに言わせようとした挨拶だが、智子自身は言うつもりはなかった。


 その理由は、「ドラマみたいでなんか恥ずかしいから」なのであった。

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