82 にょーん
「ついに来たぞー!!」
朝の会を始めるために智子が来るのを待っていた生徒たちは、数分後、ハイテン
ションで教室にやってきた担任教師を目にすることとなる。
智子は手に持った品を頭上に掲げて叫んだ。
「ついに来た! ついに来た! ついに来たんだぞー!!」
智子のあまりのはしゃぎっぷりに生徒たちの顔には思わず笑みがこぼれる。
「起立、気を付け、礼」
「「おはようございます!」」
「にょーん!!」
生徒たちの朝の挨拶を智子は、「にょーん」で返した。
生徒たちは一瞬冷静さを失いかけたが、すぐに自分たちの担任は6才児だからと
思い直し、笑顔を取り戻した。
「ともちゃん先生、手に持ってるのはなんですか?」
「んー? なんだと思うー?」
朝陽の質問に智子は上機嫌で質問返しをした。
「踏み台です」
智子が両手で持っているのは、どう見てもアルミ製の踏み台であった。
4月に智子の背が縮んだ時に校長が買ってあげると約束をしていた物がやっと届
いたのだ。
「なんだよー。お前はほんとにつまらないやつだなあ。踏み台に見えるけど実は違
うかもしれないだろ? ちょっとはボケろよな。じゃあ……高平、お前に聞くぞ。
私が今手にしているこれは、一体なんだと思いますか?」
「えっ……バ、バイク」
「違いまーす。踏み台でーす」
生徒たちはつっこみもせず乗りもせず、すぐに答えを言った智子に拍子抜けする
とともに、踏み台を見て、「バイク」とボケた進介のこともちょっとどうかと思っ
た。
「校長先生がー、校長先生がー、買ってくれた踏み台だにょーん」
智子は両手に持ったアルミ製の踏み台を横に振りながら歌っている。
それを見た生徒たちは、智子が上機嫌すぎてちょっと気持ちが悪くなっていた。
「ともちゃん先生、早速それに乗ってみてはどうですか?」
智子の興奮を抑えるために真美は提案した。
「よーし、乗っちゃうよー。いいんだねー」
智子は笑顔でそれを床に置くと、ずっと使っていた木製の踏み台と入れ替え、そ
して新しいアルミ製の踏み台に両足を乗せた。
智子は教卓に手をつき、笑顔で前を向いた。
きっと生徒たちも新しい踏み台を称賛するはず、そう確信していた。
しかし、生徒たちの反応はなにもなかった。
昨日まで使っていた校長お手製の踏み台と高さがさほど変わらないため、智子の
顔の位置はほとんど変わらず、さらに教卓のせいで智子の足元は生徒たちからは全
く見えない。
これでは反応のしようがないのだ。
智子は右から左まで全ての生徒の顔を見た。
生徒たちは一様にきょとんとした顔で智子の出方を窺っている。
「え……なんで? なんでそんな感じなの?」
生徒たちの薄いリアクションを見て、智子は悲しくなってきた。
気が付くと智子の両目には涙が浮かんでいる。
それに気付いた凛は急いでフォローに走る。
「あっ、ともちゃん先生、昨日よりちょっと背が高くなってる気がする! 2セン
チくらい!」
「2センチなんか、そんな変わらないもん……」
気を遣って励まそうとした凛の言葉を智子は拒絶した。
「今度のは丈夫にできてるから、その上で飛び跳ねてもきっと壊れないよ!」
「もう私、そんなことしないもん……」
颯介の言葉も智子は拒絶した。
「丈夫だったら、地震が来ても安心だね!」
「地震が来たら、すぐに降りるもん……」
愛梨の言葉も智子は拒絶した。
新しい踏み台の上でテンションの下がりきった智子を、生徒たちはどうしたらい
いか分からずに見つめることしかできなかった。
そんな濁った場の空気を変える発言をしたのは諒だった。
「ともちゃん先生、後ろの台も校長先生に言ってもっと高いのに変えてもらったら
どうですか?」
「後ろの台も……」
6年1組には他のクラスにはない2つの台がある。
1つは智子が今乗っているのは教卓用の踏み台で、もう1つは黒板の前に置かれ
た横幅3メートルの木製の踏み台である。
黒板の前の台はもちろん、智子が板書する時に高いところにまで手が届くように
置かれたものだが、諒はそれも交換することを提案したのだ。
「だって、ともちゃん先生、その台に乗っても黒板の上の方まで手が届いてないで
すよね。もっと高い方がよくないですか?」
確かに黒板の前に置かれている今の台に乗っても、智子の字は半分よりちょっと
上の高さにまでしか届いていなかった。
「ともちゃん先生が高さにこだわるのなら、脚立を置くべきだと思います」
諒の口から出た、「脚立」という単語にざわめきが起こった。
そこまでして智子を高いところに上げなければならないのか?
「脚立をここに置くの?」
いつの間にか目から涙の引いた智子が諒に聞いた。
「はい。キャスターの付いた脚立なら、移動も楽にできます」
「キャスター付きの脚立? 危なくないの、それ?」
「大丈夫です。乗ると重みでストッパーがかかる仕組みです」
諒の説明するキャスター付き脚立に、智子は心は完全に奪われていた。
(昼休みに校長先生におねだりしよう……)
智子はまるで、新しいおもちゃを欲しがる少女のようにキャスター付き脚立に心
躍らせるのであった。




