表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

81/216

81 思いやり、赦し、共感、そして愛

「ともちゃん先生、コンパス忘れました」


 算数の授業の始め、優花はコンパスを忘れてきたことを報告した。


「おう、そうか。他にも忘れ物をした者はいるか?」


 智子の問い掛けにさらに6人の生徒の手が挙がった。


「結構いるな。そうか……よし、今日の算数の授業は中止だ。全員、教科書もノー

トも机の中にしまえ」


 生徒たちは不思議そうな顔をしながらも智子の指示に従い教科書とノート、家か

ら持ってきたコンパスを机の中にしまった。



「ともちゃん先生、これからなにをするんですか?」

「算数よりも大事なこと、人生に関する授業を行う」


 人生という智子の言葉に生徒たちは真剣な表情になった。


「これは先週の日曜のことなんだけど」


 智子は週末に町で経験した、ある出来事について話し始めた――



 その日は朝からはっきりしない天候だった。


 雨かと思えばすぐにやみ、また降るかと思えば晴れ間がのぞく……。

 そんな天気が1日続いた。


 10時過ぎに起きた智子は、外出はせずにうちの中でだらだらとゲームでもして

休日を潰すつもりだった。


 しかし夕方になって、ネットショッピングの銀行引き落としが翌日であることに

気付き、智子は渋々、駅前のATMまで入金に行くことにした。


 ネットをあまり信用していない智子は、カードの引き落とし用の口座には普段は

金を入れず、必要な時に必要な額だけを入金するようにしている。

 もちろん、他の口座からネットで送金することも決してしない。

 昭和生まれでコンピューターに疎い智子は、自分の足を動かすことが自分の資産

を守るための最大の防衛策だと思っている。



 夕方の4時過ぎ、雨がやんでいることを確認した智子は半袖半ズボンという部屋

着のまま、傘を手に家を出た。


 曇天の空を見上げた智子は、また雨が降りどうせ濡れるのなら、裸足にサンダル

で出てくればよかったかなと少しだけ後悔をしていた。


 家から銀行までは子供の足でおよそ10分、智子は機嫌よく鼻唄を歌いながら歩

いていく。



 半分まで来たところで突然雨がザッと降り出した。


 智子は歩きながらワンタッチで傘をさす。

 ついさっきまでは全く降っていなかったのに、今は大粒の雨が地面を叩いている

のが智子には楽しげに思えた。


(スコールかな?)


 智子が笑顔で歩いていると、今度は雨脚が一気に弱まっていく。


(不安定な天気だなあ……)


 短い急な坂を下りて右に曲がると、前から乗用車がやってきた。

 智子は狭い道の端に寄り車を行かせたのち、再び銀行に向けて歩き出す。

 智子はまだ気付いていないが、智子が車を行かせている間に雨はやんでいた。

 

 銀行まではあと2分ほどで着く距離だ。


 不安定な天気のせいか、日曜だというのに通りには人がほとんどいない。


 傘をさし、のんびりと歩く智子の斜め前方から、買い物袋を重そうに持った高齢

男性が歩いてきた。


 その男性は智子の横を通り過ぎる時、智子にぎりぎり聞こえる声でボソッと言葉

を発した。


「もう雨やんでるのに、まだ傘さして。あほとちゃうか」


 言われた直後、智子は足を止め振り返った。

 白髪で70代後半と思しきその老人は、前だけを見てゆっくりと歩いている。 

 辺りには智子と老人以外に親子であろう3人組がいるが、傘をさしているのは智

子だけだ。

 つまり、老人の言う「あほ」とは智子のことで間違いない。



 智子は納得がいかなかったが、目当ての銀行に向けて再び歩き始めた。


 雨がやんでいることにちょっと気が付かなかっただけで他人から、「あほ」と言

われたことに納得がいかなかったが、明日のために今は3千円を口座に振り込まな

くてはならないので、智子が銀行に向けて足を止めることはなかった。 



 1分後、智子は銀行とは反対方向に駆け出していた。


 さらにその1分後、智子は老人の30メートル後ろを老人と同じペースで歩いて

いた。


(あの爺さん、絶対に家を突き止めてやる!)


 智子は老人を尾行し始めたのだ。


 家を突き止めてどうしようというわけではない。

 抗議をする勇気なんてなかったし、ピンポンダッシュや不幸の手紙を送りつける

といった悪趣味なことをするつもりもない。

 ただ、智子はその老人の家を突き止めたかった。


 

 老人の足は遅かった。

 子供サイズで足の短い智子よりもずっと遅かった。

 

 智子は周りの通行人に自分が尾行をしていることがばれないか心配で、びくびく

しながら老人のあとを追った。



 5分ほど歩くと、老人はマンションへと入っていった。


 茶色い壁の5階建ての立派な建物を見上げながら、智子は急いで入り口に向かっ

た。

 もしかしたら外からでもエレベーターの止まる階が分かるかもしれないと思った

のだ。 


 その老人の居住する階が分かったところでどうということはないのだが、智子は

それが最後のミッションだと受け止め、足を速めた。


 マンションの入り口の前に来た智子は中を覗こうとしたが、そこで思わぬ光景を

目にすることとなる。

 老人は建物の中には入っておらず、建物の前にあるコンクリート製の花壇の縁に

座って休んでいたのだ。


 それを見た智子は咄嗟に足を止め、来た道を引き返した。


 智子が見た時、老人はハンカチで汗を拭いながら下を向いていた。

 智子が老人の住居だと思ったマンションは、実際は老人の休憩場所だった。



 老人がいつまでそこで休んでいるかなんて智子には分からない。

 3分かもしれないし、15分座ったままかもしれない。


 智子は自分のしていることが少しだけ馬鹿馬鹿しくなっていた。

 さっさと銀行に3千円入金して帰った方がいいようなか気がした。


 しかし智子にとって不幸だったのは、そのマンションから道路を隔てた向かいに

コンビニがあったことだ。

 そのコンビニに行けば、涼みながら老人のことを監視できてしまうではないか。

 

 智子は左右の安全を確認し道路を渡ると、コンビニに入店し、雑誌の置かれてい

る棚と棚の間から老人を睨みつけた。

 


 およそ10分後、老人と智子は動き出した。


 車道を挟んで、智子は老人を尾行した。

 

 100メートルほど行くと、急な上り坂がある。

 老人はその急坂を上るのか、それともそのすぐ横の平らな道を行くのか、智子は

老人の歩調に合わせてゆっくりと歩きながら観察をした。


 すると老人は自動車がアクセルをべた踏みしないと上れないような急な坂を行く

ではないか。

 しかも、ほんの10メートルほど行ったところで、老人は再びそこにあった階段

に腰を掛け、休憩を始めた。



 それを見て智子は、もう老人のあとを追うのはやめにした。


  

「――というのがこの間の日曜の出来事だ」 


 生徒たちは、「ともちゃん先生がまたよく分からない話を……」と思ったが、そ

れ以上に、智子が勝ち誇ったような表情をしているのが解せなかった。

 

「ともちゃん先生、私たちはその話のどこから人生を学べばいいのでしょうか」


 真美の質問に智子は答える。


「『思いやり』だな」

「……」


 生徒たちは共感ができなかった。

 見知らぬ他人にちょっと気に入らない発言をされただけで、それが許せずに走っ

て追いかけて尾行をする人間のどこに思いやりがあるというのか。


「それと『赦し』だ」

「……」


 自分ならそもそも最初の発言の時点で赦している、全生徒がそう思った。


「そしてなによりも『共感』だ。相手の気持ちに寄り添う心、それを世界は『愛』

と呼ぶんだ」

「……」


 この人はなにを言ってるんだろうと生徒たちは思った。

 ちょっと口の悪い老人を黙って追い掛け回すような心の小さい人間が偉そうに、

と生徒たちは思った。


「お前たちはまだ10年ちょっとしか生きてないからな。日々勉強だぞ。でも、お

前らはいいよな、私みたいな気さくに話しかけられる人生の先輩が身近にいて。世

界中探したってお前たちくらいだぞ、多分。そのアドバンテージを大いに感謝して

遠慮なく私から学べよ」



 授業の終了を告げるチャイムが鳴り、智子は教室を出ていった。

 教師としての職務を果たし、智子は上機嫌だった。


 しかし生徒たちは、智子がどうしてあんなにも機嫌がいいのかが分からず、戸惑

うばかりなのであった……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ