80 死んで腐った魚みたいな顔
「今年もプールの季節がやってきたぞ」
終わりの会での智子の発言に生徒たちは沸いた。
子供たちはプールの授業が大好きなのだ。
智子から配られたプリントには予定日が記されている。
「来週の火曜からだ!」
教室中に生徒たちの笑顔が溢れる。
そんな中、浮かない顔をした生徒が1人……進介だ。
智子はそれを見ながら、「またあいつか……」と思う反面、「よく考えたらあい
つ、普段から根暗で浮かない顔をしてるよな」とも思った。
プールが嫌であんな顔になっているのか、それとも生まれつきのネガティブ顔な
のか、その違いを判別できるほど智子はまだ6年1組の生徒のことを知らない。
「用意する物は去年までと同じだ。水着と水泳帽とタオルは絶対に必要だからな。
特に水着は忘れたら見学になるから注意しろ」
「水泳の授業で水着忘れるやつなんていないよ!」
蓮が大きな声で言い、笑いが起こった。
歓びに満ちた朗らかな雰囲気のまま、終わりの会は終了した。
帰りの挨拶のあと、笑顔で教室を出る生徒たち。
智子は進介にだけ注目をしていたが、やはり死んで腐った魚のような顔をしてい
る。
智子は面倒臭いと感じたが、放置をして登校拒否でもされたらもっと面倒なこと
になると思い、颯介とともに教室を出ようとした進介に声をかけた。
「どうしたんですか? ともちゃん先生」
「お前が死んで腐った魚みたいな顔をしてるんだよ」
「えー……」
いきなりの辛辣な言葉に進介はどん引きである。
「なんでそんなこと、言うんですか……」
「それはこっちの台詞だ」
「ぼく、ともちゃん先生になんにも言ってないですけど……」
「なんでお前はいつも死んで腐った魚みたいな顔をしてるんだ?」
「……多分ですけど、1年中目の下にクマがあるからだと思います」
進介自身、最近になって自分の目の下には1年中消えないクマがあることに気が
付いていた。
「いや、違うな。お前の表情が死んでるのは内面から来るものだ。分かったら、内
面を鍛えろ」
「それは、どうすればいいんですか?」
「そんなもん、ないぞ」
「えー……」
相変わらずこの人、無茶苦茶だと進介は思った。
「スポーツやったって、空手や柔道やったって、クズはクズのままだからな。体力
のあるクズが1番のクズだから」
「あの……ともちゃん先生はぼくになにが言いたいんですか?」
「ん? んー……そうだ! プールだ!」
智子はようやく本題を思い出した。
「お前、来週からプールがあるって聞いた時、顔が曇ったよな? 他のやつらがみ
んな喜んでたから、それがすごい目立ってたんだよ。なんだ? どうせトラウマだ
ろ? 先に言っておけ。変なタイミングで語られても困るんだよ、こっちは」
進介の死んで腐った魚みたいな顔がさらに沈み、悲しきモンスターのような表情
になった。
「おい! どんな顔なんだよ、それは! お前とプールの間に一体なにがあったん
だよ!」
智子に促され、進介は5年前の忌々しき思い出を語り始めた――
それは、1年生になって初めてのプールの授業での出来事だった。
普段の体育はクラスごとに行うが、プールの時は1学年まとめて行うため、生徒
たちは入学以来あまり交流のなかった他のクラスの生徒とも顔を合わせることとな
る。
背の高い進介は1組男子の列の後方でボーッと前方を眺めていた。
水着にビーチサンダル、タオルを肩にかけた進介は後方から聞こえる話し声から
なにやら自分のことを嘲笑する集団がいることに気が付いた。
「あいつ、顔長くないか?」
「長い。めっちゃ長い」
たまたまこの年は3組にやんちゃな男子が固まっていた。
その男子たちが暇潰しに進介の顔をからかい始めたのだ。
確かに進介は他人よりも少しだけ顔が細長かった。
しかし当人はまだ6才ということもあり、自分の顔についてすらよく知らず、こ
の時初めて、「ぼくの顔は細長いのか」と気付いた次第であった。
「なんでこんなに長いんだ?」
「こいつ、キュウリじゃね?」
「キュウリだ。キュウリ人間だ」
進介はそれまでの人生で自分の顔を野菜に例えられた経験など、もちろんなかっ
た。
それは6才児にとって屈辱的な出来事であった。
「おい、キュウリ人間なんとか言えよ」
「キュウリ人間、無視するな」
進介は3組の男子たちと一切目を合わせなかった。
気の弱い進介はなにも言い返せず、ジッと前を見続けたのだった――
「その日だけじゃなく、それからプールの授業の度に言われ続けたんです」
「その時、先生は?」
「多分、気付いてなかったと思います」
「そのいじめは、2年以降もずっとか?」
「いえ、1年の時だけです。今は1人を除いて仲良くなりましたし」
「だったらもう問題ないだろ。未だにプールが嫌な理由はなんだ?」
智子の質問に進介は一拍おいて答える。
「……分からないんです」
「分からない?」
「はい」
「どういうこと?」
「もうプールでいじめられることはないって頭では理解してるのに、それでもプー
ルの授業のことを考えると動悸が治まらないんです」
「高平って普段から緊張してるって言ってたよな?」
「はい。それがプールの時は異常な状態になるんです」
「お前、大丈夫か? マジで病院行った方がいいんじゃないのか?」
智子は真剣に言った。
「病院に行くのも恐いんです……」
「学校が恐いんだったら、病院もそうなるか……」
これには智子もどうしていいか分からず困ってしまった。
「……プール、壊れないですかねえ」
進介は泣きそうな顔で言った。
「それだと楽しみにしてる他の生徒たちがかわいそうだろ」
「ぼくは別にそうは思わないですけど」
「思えよ。一般的にはプールは楽しい場所なんだよ。知識として知っとけ」
「……明日地球が爆発すればいいのに」
進介が非現実的なことを言い始めた。
現実逃避は心の癒しにつながる――偉い心理学者の言葉ではないが、智子は常々
そう思っているので、現実逃避をし始めた進介を見て、「これならこいつはもう大
丈夫だな」と判断し、進介をその場に放置して自分だけ先に帰ることにした。
「おい、光井」
智子は廊下で待っていた颯介に声をかけた。
「話は終わったから高平のこと頼んだぞ」
「頼んだって、なにを?」
颯介は智子の言葉の意味を理解しないまま教室にいる進介の元へと向かった。
進介がどう足掻こうが、来週からプールの授業は始まる。
今年も夏がやってきたのだ。




